べんして下さい。失言だ。あやまる。あんたに今見離されたら美緒は――。どうか許して下さい。(砂の上に坐つて、手を突いて詫びる)
比企 (その姿をジツと見おろして、怒りのためにブルブル顫へながら、しかし口調は静かに)……いやイデオローグとしては、僕は君の言ふ通りの人間かもわからないんだ。いゝよ。しかし科学者として良心だけは持つてゐるつもりだ。君は、先刻本当の事を知らせて呉れと言つたから僕も正直に言つちまふ。もつとも、これは科学者としての僕だけの観察だから、それを信じようと信じまいと君の自由だ。つまりプロバブルな事だと言ふに過ぎないからね。それから、これは僕が君に対して悪意を持つてゐる為でもない。君の奥さんに就て僕が診断を下すのも多分これが最後だらうと思ふから、医者としての責任からも、後で君にうらまれないためにも、此の際ハツキリ言つとく必要があるからだ。……君の奥さんはね、僕の所に一番最初に連れて来られた時に既にかなり悪化してゐたんだ。僕は黙つてゐたが、実は半歳もてば良い方だと思つてゐた。……僕は正直な事を言つてゐるんだよ。……それを、かうして既に二年ちかく、とにかく、なにして来たのは、やつぱり君の手当の仕方がよかつたからだらうと思ふ。それは大した事だ。医者として僕はそれを認めるよ。……でも、もう多分、駄目だ。医学的には、もう殆んど……と言ふよりも九十九パーセント、いや百パーセント見込みは無い。患者は平静なやうだが、もう多分半月、永くて廿日間……、もし腸に出血があればこの四五日中にも或ひは――。何か聞いて置きたい事があれば今の中に聞いとくんだな。会はせなければならん人にも出来るだけ早く――。……僕の言ふ事は、これだけだ。
五郎 ……(坐つたまゝ石にでもなつた様に動かない)
比企 今後も僕に出来る事があつたら、医者として、いくらでも助力するから、そう言つてくれたまへ。……ぢや僕は寒いからチヨツト宿に帰るよ。なんなら君も後でやつて来ないか。……(スタスタと歩み去つて行く)
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 後では五郎が石の様に坐つたまゝ。
 永い間。……
 白い街道を上手からフラリフラリと歩いて来る変な男がある。汚れた和服を着たボンヤリした四十過ぎの男で、酒に酔つてゐるらしいが、陽気な所は全然なくて、寝呆けたやうな白い顔をしてゐる。片手に二合びんを下げてゐる。それが何処へ向つて行くと言ふ訳でもなくブラリブラリとユツクリ歩く。
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五郎 ……比企さん、俺が悪かつた。比企さん!――(立上つて無意識に比企の後を追ひかけて行きさうにしたトタンに丁度男の姿が眼に入る。フツと眼を釘付けにされたやうにその男を見詰めはじめる。……男は街道の途中まで来て、そこでボンヤリ立停つてゐたが、再び何と思つたのか、元来た方へ又フラリフラリと歩み出し、上手へ消える。その間五郎はジツとそればかり見守つてゐたが、不意に喘ぐやうな声で、グワーともゲツとも聞える叫声をあげる)……
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 間。……静かである。
 やがて沖の方から、京子がボートの上で唄ふのであらう Torna A Surriento の歌声が流れて来る。それをじつと聞いてゐる五郎の殆んど混乱の極に達した顔。
間。……五郎の身体がフラリフラリと揺れる。
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五郎 ……美緒。……美緒。……助けてくれ。……(うつぶせに砂丘に倒れてしまふ)
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間。
 赤井が家の方向から歩いて来る。シヤツに軍袴に下駄を突つかけた姿。酔ひをさましかたがた五郎を捜しに来たらしい。何か考へながら浜を歩き、砂丘の五郎を見出す。
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赤井 ……こんな所にゐるのか。久我……久我……おい久我! なんだ寝込んでゐるのか。(ジツと見おろしてゐたが、失神して倒れてゐる五郎の事を、疲れ切つて眠つてゐるものと思ひ、起すのはよして自分もその側に腰をおろす)……。
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沖からの唄声。
 赤井はその唄声の方をチヨツト伸び上つて眺めるが、直ぐよして何か考へながら、ジツと海の方を見てゐる。出征を前にして、いろいろの感慨が胸中を往来してゐるらしい。
永い間。……
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     5 家で

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 五六日後の明るい美しい午後。
 寝台の上で絶対安静を守つてゐる美緒。
 その枕元に附き添つて酸素吸入の具合などを見てやりながら、ポツリポツリと話をしてゐる小母さん。
 美緒の病状は更に重態になつたらしく、衰弱のためもう殆んど声が出ず、此場で彼女が口にする言葉も数語に過ぎない程であるが、その表情は以前より更に明るく落着いてゐる。小母さんもそれに調子を合せてゐるが、しかし永らく看病して来た病人が目下絶望状態であることは知つてゐるので、ノンキな事を喋りながらも、しんは気を使つてゐる。
 吸入器のシユーシユーと言ふ響。
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小母 ……(ニコニコして)わてには、子供はあらしまへんやろ。そらあ自分の子供が育つたらえゝなあと思ふ事もおます。……でもな、そんなに寂しいと思たりはしまへんのどす。なんでかと言ふとな、よそさんのお内で赤さんが生れますやろ? あれは、みーんな、亡くならはつたお人の生れ代りやからどす。……こん事わてが言ふと、旧弊や言うて、みんな笑はるけどな。……
美緒 ……(クスクス笑つてゐる)
小母 ハハハハ、たんとお笑いやす! 笑はれてもかめしめへん!……生れて来る赤さんは、前に生きてゐた人の生れ代りどす!……それはな、わてのお母はんがチヤーンと教へはつたから間違ひおまへん。……そら、わてにだつて、お母はんは居やはりましたのどすわ。変でつか?……そらもう、なんしろ古い話やけどなハハハハ。……とにかく、お母はんは、わての為にならん事を、教へはる筈ありまへん! 言やはりました。赤さんはわてらの生れ代りどす!……そんで、わては、自分の子供が無うてもチツトも寂しい事あらへんのどす。よそさんのお内でドンドンドンドン赤さんが生れはると、わてらの命も、ドンドンドンドン伸びるのどす。……わてらは、いつなんどき成仏してもえゝのどす。……赤井の兵隊さんに赤さんが生れはる! わては、うれしうてなりまへん!
美緒 ……(いたづらさうな顔で、手真似で、小母さんとそれから自分を指して、それは小母さんの生れ代りか自分の生れ代りかと訊く)
小母 そら、誰の生れ代りか、わてらには解りまへん。生きてゐる内に、えゝ事したもんは、ミーンな生れ代ります。……今、戦地へ行かはつて、討ち死になさつてゐる兵隊さんがギヨーサン居やはりますがな、それもみーんな生れ代らはります。お国の為に御苦労なさつて戦死なさるのどす、キツト、どこぞで一等かわゆらしい赤さんが生れはりますがな! (言ひ方は少し滑稽味を帯びてゐるが、彼女は自分の言つてゐる事を文字通り確信してゐるのである)
美緒 ……(何度もうなづく)
小母 さうどす! わては学《がく》がないよつて、理窟はわかりまへん。でも、いくら笑はゝつても、さうどす! わては、仏様や神様がほんまに、居やはるか、居やはらんもんか、わかりまへん。信心なんど、した事おまへん。……んでも、昔、わてのお母はんが居やはつた事は、チヤーンとわてが知つてますがな! そのわてのお母はんが、わてを大事に大事にしてくれはつた事や、わてに教へてくれはつた事は、そないな不確かな事ではおまへん! チヤーンと確かな、たとへ世の中がデングリ返つても、間違ひのない事どす。大丈夫、金のワキザシや!……そらそら、又笑ひはる! たーんと馬鹿におしなれ、構ひ〔ま〕へん! んでも今に百年もたつたらな、わても奥さんも生れ代つて来ますさかいな。そん時には、今わてはチヤーンとかうして奥さんを可愛がつて看病してあげたのどすよつて、こんどめ生れ代つて来たら、わての方が奥さんにターンと可愛がつて貰ひまつせ! ようおすか? 忘れたらあきまへんえ! お前みたよなツンボーの赤ん坊なんど知らん言ふたらあきまへんえ!……ハツハハハハ、ハハ。
美緒 ……(声を出さずに笑ひながら、片手を出して小母さんの頭を撫でてやる)
小母 泣いたらあきまへん! えゝな? ハハハ、さ、お薬どす。……(非常に注意深く、馴れた手附きで水薬を飲ませる。おとなしくそれを飲む美緒)……あゝ、えゝお子や、よく飲みはつた。近頃ホンマにおとなしう飲みはるで、うれしうてならん。あと、口直しにリンゴの汁でもあがりまつか?……(美緒かぶりを振る)さうだつか。……(美緒の額に手を当てゝ熱を計る)熱もだいぶ下りましたえ。……ホンマになあ、久しぶりに熱をお出しにならはつたので、四五日前にはビツクリしました。ハハハ、珍らしいさけなあ。……あれは赤井の兵隊さん達が来やはつた直ぐ次の日やつたから、あれからヒイ、フウ、ミイ、ヨ、イツ(と指を折つて)今日で六日目どすな。……もう大丈夫どす!
美緒……(うなづいて見せる)
小母 ……赤井はんの兵隊さんはもう出征しやはつたかいな! どうぞ、御無事で行つて来やはるやうに。……ホンマにえゝ方どすえなあ。奥さんもサツクリとしたえゝ方どす。この間も、わてが御飯の支度でマゴマゴして居りましたらな、あの奥さん黙あつて台所に下りて来やはつて、ドンドン加勢してくれはります。恵子はんなどとは、えらい違ひどす! 実のお妹はんでゐても、あんな――(言ひ過ぎた事に気附いて)いや、それはな恵子はんは恵子はんで、やつぱりそれぞれ流儀がお有りどすよつて――。
美緒 ……(微笑して、言つてもかまはないと言ふ意味の手真似)
小母 ……さうどすか?……いえな……いえ、わては、あんな情のきついお方、実は、きらひどす。たまにお見えはつても、キツと庭の方で、スパスパスパスパ(と煙草をふかす真似)こうどす! ハハハ。いくら病気が嫌ひと言やはつても、たつた一人つきりの実の姉はんでおまへんか! きらひどす。わては旧弊人どすよつて、あんな方は虫が好きまへん。あれよりも、比企先生のお妹さんの方がまだましや。テキパキしてなはる! はあ、さうですわ! はあ、わては海岸に行つてよ、ピーン、バタバタツ! (と跳ね上る真似)こうどす! な! ハツハハハ、……比企先生も、東京に帰らはつて、もう四日になりますなあ。比企先生は、奥さんの具合が良うおなりはつたので安心してお帰りたのどすわ。
美緒 ……。
小母 ……五郎はん、お戻り、おそおすな。今日は描いてしまはるつもりでつしやろ。写生と言ふもんは、お骨の折れるもんだすなあ、今日で三日や。……でも、よろしおしたなあ。五郎はんが油絵描きはるやうになつて。
美緒 ……(何度もうなづく)
小母 五郎はんも、奥さんの病気が良うなつたので安心して写生しに行かはるやうになつたのどす!
美緒 ……(微笑。指で自分を指して見せる)……いえ、私がね……もう間もなく……いけないからなの。
小母 (美緒の声が低いので聞えず、その仕草だけを受取つて)さうどす、奥さんに見せようと思うて描きに行かはつてゐるのどすえ、チヤーンと知つてゐますがな。えゝなあ。お嫁はんの言はゝる事なら、どないな事でも五郎はん、やつてくれはる。見てゐてもケナルウなりまつせ。ホンマに! 首つたけや。ハハハハ。さうどすえ!
美緒 ……(弱々しい笑ひ)……私が……居なくなつたら……五郎は……どうするんでせう。……それだけが……私……心配なの。どうぞ、頼むわ、小母さん……。
小母 (相手の唇の動きをマジマジと見詰めながら)さうどす! 奥さんの言はゝる事なら、五郎はん、どないな事でも、たとへ火の中でも行かはりまつせ! おゝおゝ、シンドイ話や! (とまだ自分流に聞き誤つてゐる。そんな風に彼女に誤つて聞かれる程、美緒の表情は明るく、その言葉の持つてゐる意味とは全く反対のものである)
美緒 ……頼むわ、……小母さん……私が……居なくなつたら……五郎のこと……(小母さんに向つて両手を合せる)
小母 (まだまちがつて受取つてゐる)ハツハハハ、さうどす! 拝みなはれ、
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