々澄み通つて来てしまつて、なんと言ふか、現実離れがしたみたいになつてゐる。出しぬけに神様は有るかなんて訊くんですよ。そいから自分の周囲の人間に対して、なにかムヤミと温い事を言つたりしたりする様になつた。それが自分はもう別の世界にゐるものと決めて、そこからまだ生きてゐる僕等を見て親切にしてゐるやうな感じなんだ……。
比企 さうかね。でもそれはあの人の本来の性質ぢや無いのかねえ。いづれにしても、そいつあ僕の領分ぢや無い。僕にや身体の事しか判らんな。……さう、身体の方はまあ脱落症状と言ふかな。つまり一種の虚脱した様な状態だね。
五郎 すると、どう言ふんですか? 良いんですか悪いんですか?
比企 さうだな、……一つの大きな発作だけを単位にして考へると、それが一応おさまつた状態なんだから、まあ良いとも言へるけれど……病気全体の経過としては、あまり良いとも言へんね。発熱が殆んど無い……無いのは結構だが、見方に依つてはそれが却つて良くないとも言へるんだ。そこん所は、もつと専門的に説明しないとホントは解らないんだが、早く言ふと、あれだけの患者に発熱が伴ふのは実は当然なことなんで……つまり、それが身体が病菌と戦つてゐる証拠なんだな、……それが無い、……つまり一種の脱落症状なんだ。
五郎 わかりました。……
比企 熱を出してくれりや、まだいゝんだけどね。……(話の間も手拭ひで水着の上から身体を拭いてゐたが、この時拭き終へて砂の上に置いてあつた浴衣を羽織る)……君も医学の本は随分読んだらしいし、それに、二年以来あれだけの病人に附きつきりで看病してゐるんだから、この病気に関しては何でもよく知つてゐるらしいから、隠したつてはじまらん。……やつぱり、かなり注意してゐる必要があるだらうなあ。
五郎 ……ありがたう。どうでせう、今の状態を切り抜けるために、病院に入れるとかサナトリウムに入れるといふのは?
比企 さあ、よした方がいゝでせう。
五郎 どうしてなんです?
比企 いや、金がかゝつて大変だ。設備のとゝのつたところでは、かなり取るからね。考へて見ると、結核なんて病気は立派な社会病で、社会全体に責任が有るんだし、しかもそれに依つて本当に苦しめられてゐるのは、勤労者に多いんだから、国家なり社会なりが、もつと安価に入院できるサナトリウムを、もつとウンと建てるべきなんだ。しかし差し当りの、現実問題としては、仕方が無いんだな。……君んとこ、金は無いんだらう? 失敬だが……。
五郎 無い。しかし拵へますよ。どんな事をしたつて――。
比企 いや、そんな無理はしない方が良い。病院かサナトリウムに入れて必ず良くなるに決つてゐればそれも良いかも知れないが、残念ながら今の医学ではそこまでは断言出来ないしね。仮りに治るとしてもだ、それが治つた頃には又別の形でやられるよ。君が倒れるとか、奥さんが又別の病気にやられないものでもない。君に言ふ必要もあるまいが、結核と言ふのは大概の人が実は持つてゐる。それが病気として現れるか否かの違ひだ。病気として現はれるといふのは、狭くはその当人のそれまでの生活の無理、広い意味ではその家族全体の生活の無理なんだからな。……それを治すために、もう一度無理をするのはよした方がいゝ。もつとも世の中に全く無理のない人間生活なんて無いわけだけど、それも程度問題だなあ。君ん所では、現在でも困つてゐるんだらう?
五郎 ……困つてゐます。僕あ実あズツと二度しか飯を食つてゐない。……でも僕あ美緒を、なんとかして――そりやあなたの言ふ理窟は判るし、それが本当だと思ふけど、僕は、とにかく美緒を、どんな事があつても、これつきりにしたく無い! たまらん!
比企 わかるよ。君としては、さうだらう。……しかし、今のまゝで行つても、駄目と決つたわけぢやないし、第一僕の言ふのは、金の問題も金の問題だけど、それよりも、現在、僕の見る所では、君がかうして附いて実行してゐる奥さんの療養生活は、全体としてどんな病院にもサナトリウムにも劣つてはゐないからなんだ。
五郎 しかし、それがなんにもならないぢやありませんか。……僕あ、彼奴を取られたら困るんだ! 僕あどうしていゝか解らなくなる! 死なしたく無いんだ! なんとか方法はないんですか? なんとか、なんとか、なんとかして――。
比企 ……君がそんなにイライラしちやいかんなあ。……君は家で奥さんの前にゐる時にはあんなに落着いてゐるくせに、此処へ出て来ると、どうしてそんなに調子が違つちまふのかね? 此の前来た時にも気がついたんだが。
五郎 そんな事あどうでもいゝんだ。ホントに頼むから、なんとか、なんとかして――。
比企 困るなあ。……君も、奥さんが病気になつて以来、基礎医学から勉強しはじめた位で、これまで医学的に有効な方法は全部採り尽して来てゐるんだらう。つまり科学的にはベストを尽して来てゐるんだ。それは僕が保証してあげてよろしい。治るものなら、これで治るんだよ。……駄目なものなら、もうこれ仕方がないんだな。
五郎 (ビクツと、小さく飛上るやうな動作)……。あなたには、そんな事が言へるんだ!
比企 なんだよ?……そりや、僕は医者だから、科学の命ずる事を言つてゐるまでなんだ。……そんな風に言ふのは君らしくないよ。
五郎 科学が命ずると言つたつて、では科学が本当はどんな事を命じてゐるんです? 全体、では、あなたは科学を信じてゐるのか。
比企 ハハ、そんな事聞いてどうするの? そりや、信じてゐるとも言へるし、信じてゐないとも言へるよ。でも科学のプロバビリテイだけは――と言ふよりも科学と言ふものが実はプロバビリテイを綜括したものだが、――そいつだけは信じてゐるよ。でなきや医者なんかやつて行けるもんぢや無いからね。だから、変な話だけど、医者と言ふものは病気を治したり出来るもんぢやないと思つてゐる。要するにそのプロバビリテイに基いて患者に対して忠告をしてあげる役目だけだな。
五郎 ぢや、そのプロバビリテイを信じられなくなつた者はどうすればいゝんです? 又はそのプロバビリテイから除外されたり、はみ出しちまつた人間はどうするんです?
比企 もういゝぢやないか、……どうすればいゝと言つたつて、そんな、そりや何もプロバビリテイのせゐぢや無いだらう。
五郎 さうでせうか? 僕は時々、そんなプロバビリテイが段々積み重ねられて行けば行くほど、そのプロパビリテイのために取り殺されて行く病人が益々多くなつて行つてるんぢやないかと言つた様な気がするんだ。外科だけは少し違ふ。僕の言つてるのは内科の事です。
比企 それも程度問題さ。内科だつて或る程度まで実証的なもんだからね。医学が発達するにつれて病人が多くなるとか言ふのは偏見だ。仮りに一部分にそんな現象があつても、現在は科学の発達の点ではまだ過渡期だから、そりや仕方が無いだらう。
五郎 いつになつたら、過渡期でなくなるんです?
比企 いつまで経つても或る意味では過渡期さ。
五郎 過渡期だからですまして居れる者は、それでいゝんだ。それでは、どうしても、どうしても諦めきれない者――つまり自分です――そいつは、いつたいどうすればいゝんです? 何に頼ればいゝんです?
比企 そりや僕も知らん。わからん。
五郎 わからん?
比企 君は、もしかすると医学と言ふものが、人間の生命の全部に就て責任が有るやうに誤解してゐるんぢやないかな。
五郎 さうかも知れない。しかし、そんな誤解を植ゑ附けて来たのも医学です。いや僕あ僕一個の事を言つてるんぢやない。一般社会の事を言つてゐるんだ。社会にさう信じ込ませたのは医学だ。
比企 違ふね。社会――つまり人間の性質にそんな妄信性が本来有るんだ。科学に責任はない。
五郎 あなたは抽象された科学を考へてゐる。ところが、そんな抽象された科学なんか世の中に存在しない。僕が医学と言つてゐるのは医者と言ひ換へてもいゝんだ。
比企 医者は、そりや、自分が必ず病気は治せる様な顔をしてゐるよ。営業だからな。信用を作りあげて置く必要がある。……しかし、もうこんな話は止さう。なんだか馬鹿に寒くなつて来た。君の言つてゐるのは、哲学か宗教の範囲だよ。僕あ科学者だからな。よく解らんのだ。……(怒つたやうに自分を睨みつゞけている相手の眼を避けて)全体君は、人間と言ふものは結局一人残らず必ず死ぬ事に決つてるのを忘れてゐるんぢやあるまいね?
五郎 ……?(と、はじめ何と言はれたか理解出来なかつたらしく相手を見詰めてゐたが、突然にその意味を掴むと喉の奥でグツ! と変な音をさせ、真青になつてキヨトキヨト四辺を見廻した末に、眼を据ゑて空を見詰めて低く唸る)……うゝ!
比企 もう止さう、……どうしたんだい?
五郎 (片手で両眼を掻きむしるやうに撫でる)……いや。うむ……比企さん、……僕あ、美緒を助けたいんだ。美緒ですよ! 美緒ですよ! 美緒だけは今死なしたく無いんだ!
比企 ……。
五郎 僕の言ふ事が気に障つたら、かんべんして下さい。あやまる。あいつに死なれたら、僕あ全体どうすればいゝんだ。僕あ、僕あ此の際、少しでも効果の有る方法なら、どんなものでも、たとへどんなものでもやつて見せる。なんでもいゝ、彼奴を此の世につなぎとめて置くためになら、僕あどんな事でもする! たとへ、どんな事でも! どんなインチキでも恥知らずな事でも。……漢法をすゝめられてゐるんだけど、どうなんでせう?
比企 さう、漢法も場合に依つて良いけど、結局システムこそ違へ基礎的には同じものなんだからな。それに漢法には民間の素人療法や迷信と言つた風のものが大部入りこんでゐるからねえ。
五郎 ……素人療法だつて迷信だつて体験的に効果があれば、それでいゝんぢや無いでせうか?
比企 その体験と言ふのが実は非常に危険なんだ。賛成出来ないな。
五郎 牛の生血やスツポンの生血が良いと言つてくれる者が有るんだけど――。
比企 消化器を害して食慾を失はせるだけだらう。迷つちやいかんな。第一君は奥さんをよくしたい一心で、そんな事を言つてゐるけど、実は君はまつたく科学的なんだ。病気に就て科学以外の非合理的な考へ方は結局出来る人間ぢや無いよ君は。その点僕は安心しきつてゐる。迷つちや、いかん。
五郎 ……輸血をもう一度大量にやつて見たら?
比企 今は良くあるまい。悪くするとひどい転機を採る場合がある。
五郎 葡萄糖を打つたら?
比企 よした方がいゝ。腎臓を疲らせるのは全体として不利だ。
五郎 ……(不意に叫ぶ)ぢや、どうしたらいゝんだ! それぢや、全体どうしたらいゝんだ!
比企 ……なんだい、どうしたんだい急に?……だから現状のまゝベストを尽して――。
五郎 ベストを尽すといふ事は、なんにもしてやらないと言ふ事だ。さうでせう? さうなんだ! そんな風に言ふよりも、もう医学は全く無力だと言つたらどうなんです?(憎悪の籠つた顔でニヤリと笑つて)全体、あんたは昔からさうなんだ。口でこそ社会科学がどうのこうのと言つてゐたが、実はそれも例のプロバビリテイだつたんだ。確信も信念もなんにも有りやしない。たゞなんとなく流行に乗つて新興医学者らしい顔をしたかつただけだ!
比企 君は何を言ふ積りだ?(次第に怒り出してゐる)
五郎 (自分が何を言つてゐるか、筋道がシドロモドロになつてしまつて)さうなんだ。だから、今でも、変な金主を見つけて診療所なんかやつて儲けてゐる現在になつても、ソツクリ以前通りに社会医学だとかなんとか、要するに自分の利益に関係の無い範囲のゴタクを並べてゐるんだ! それが全体、なんだ!
比企 ……久我君、君あそれを本気で言つてゐるの?(此の男として一番こたへる所に触られたと見えて、言葉はおだやかだけれど真に怒つてゐる)
五郎 本気?……いや(フツと我れに返つて)いや今のは僕の言ひ過ぎだから、かんべんして下さい。言ひ過ぎだ。(みじめな姿である)
比企 (青い顔でニヤリとして)君が僕の事をそんな風に思つてゐるとは知らなかつたよ。
五郎 いや、僕が悪かつた。いろんな事で頭がこんぐらかつて、悪くしてゐるんだ。かん
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