からユツクリ分配すりやいゝんですよ。
五郎 いや、美緒が現在の様な有様だから、もし万一の事があつたらと、お母さんとしては心配になるのは無理は無いかも知れないんだ。……でも、兎に角彼奴は恐しく神経質になつてゐるからね。たとへば僕が彼奴の病状を心配してゐるといふ事をチラツとでも感附かせただけで、もういけない。ピリピリツと反射して行くんだな。恐しい位だ。それを押へつけて、彼奴の気持を安静にしとく為には、絶えず病人の神経の届く範囲に先廻りをしたり、裏の裏をかいたり、とにかく彼奴よりも強い神経でピシリピシリとのしかゝつて押へつけて行く以外に手は無いんだ。西洋の医者で「結核は呼吸器病と言ふよりも精神病である」と言つてゐる奴があるが、全くだよ。……それ位なんだからな。
利男 とにかく母には今後その話は絶対にさせない事にしますよ。
五郎 いや、僕あね、なるべく早く、その書換への書類に美緒に印を捺させてしまはうと思つてゐるんだ。……どうせ利ちやんがとめてくれた位で話を控へてくれるお母さんぢや無い。いや悪く言つてゐるんぢや無いぜ。どうせさうなるもんなら一日も早くさうしちやつた方がいゝからさ。

利男 ……さうですか。
五郎 ……今日は、だいぶウネリがある。……沖は荒れてるな。……京子さん、もう泳いだんですか?
京子 ……いゝえ、兄だけ泳いでゐるわ。
五郎 へえ。……(沖を見て)此処からは見えないなあ。
京子 そんなに遠くまで行けるもんですか、あのブイの処よ。
五郎 見えんなあ……。
京子 ほら、赤いのが見えるでしよ? 鴎の飛んでいるチヨツト右の辺、赤いブイの近くよ。
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利男何か考へながら下手の方へ歩み出してゐる。
[#ここで字下げ終わり]
五郎 ……波が高い。……(ボンヤリ沖の浮標を見てゐる)
京子 あら、利男さん泳ぐの?
利男 いや。……さうだな、ボートでも少し漕いで来るかな。貸しボート屋やつてゐるかな? (眺めて)あゝ、まだやつてる。京子さんもどうです?
京子 あなた漕げて? ウネリが高いから、マゴマゴしてゝ、ひつくり返りの、ドブンなんて、ありがたく無いからな。
利男 (苦笑)冗談言つちやいけません。中学時代、これでボートのチヤンだつたんですよ。
京子 さう? そいぢやあ後で乗せて貰ふわ。その辺まで持つて来て、浜につけてね。
利男 かなはんなあ。……(言ひながら上手へ歩み去る)
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 短い間。
 五郎はまだ沖を見てゐる。
[#ここで字下げ終わり]
京子 ……善良な方ね、利男さんて?
五郎 え?……さう。ありや良い男です。
京子 恋愛結婚なんて認めないつて言つたら、憤慨なすつてゐたつけ。
五郎 なんの事ですか?
京子 五郎さん、お顔が真青だわ。眼の中は真赤。酔つてゐらつしやるのね。
五郎 或る程度以上飲むと、近頃、青くなるんです。でも酔つちやゐません。ハハ。……赤ん坊が生れるんです。
京子 え、赤んぼ? 赤んぼが生れるつて、奥さんに?
五郎 いやあ、なに。いや、それは、いゝんですよ。美緒の話ぢやありません。アツハハハ……(言ひながら笑つてゐたが、京子を見てゐるうちに、フツと眼がさめたやうになつて、笑ひをパタリと止めてしまふ)……。
京子 なんですの?
五郎 いや……(ヂロリヂロリと京子の姿を眼で舐めまわしてゐる)
京子 どうなすつたのよ。
五郎 あなた、……目方はどの位あるんです?
京子 いやだわ。そんな事聞いてなんになさるんですの?
五郎 どれ位あるんですか?
京子 ……十四貫五百。
五郎 十四貫五百。思つたより無いな。十四貫五百か。……(まだ京子の身体から眼を離さない。ギラギラとして殆んど残忍な眼光である。画家として久し振りに美しいヌードを見たシヨツクと、永い間抑圧されてゐた男としての刺戟の[#「刺戟の」は底本では「剌戟の」]こんぐらかつたものである)
京子 (少しモヂモヂしながら)……そんなに御覧になつちや困るわ。
五郎 あゝ、いや。……ハハ(と、痙攣する様に短かく笑つて、平手で顔をゴシゴシこする)……失敬。
京子 何を考へてゐらつしやるの?
五郎 え?……あゝ。……僕が今なにを考へてゐるか、わかりますか?
京子 そんな事わかりやしないわ。
五郎 ……美緒の身体の事を考へてゐるんです。あいつの目方の事ですよ。十四貫五百。……あなたは十四貫五百あるが、彼奴はいくらあるかなあ。十貫……いや、そんなには無い……八貫……いや、もつと軽い、七貫位かな。とにかく恐しく、軽いんだ。僕の片手で、持ちあがるんですよ。元来、肥えてゐた方なんで、丈夫な頃は十三四貫はありましたよ。今は七貫位……あなたの半分――。
京子 七貫なんて、そんな……。だつて、どうしてそれがおわかりになるの? かゝへておやりになるの?
五郎 かゝへてやるんです。寝台から静臥椅子にうつす時に。……軽い。……まるで真綿でもかゝへてゐるやうに軽い。……肉がまるで無くなつちやつてゐるんだ。そのたんびに、僕はズキーンとするんですよ。ズキーンとする。……これが以前ヅツシリと重かつた女です。……をんな。……さうだ、彼奴はもう女では無いんです。それでゐて、彼奴はやつぱり女ですよ。妙な気がする。彼奴の身体の事は一切合切、全部、僕は知つてゐる。それでゐて、なんか、とても妙な気がするんです。
京子 お気の毒ねえ。(ホントに同情してゐるのである)
五郎 いや、そんな意味で言つてゐるんぢや無いんです。そんな殊勝らしい気持で言つてるんぢやない!……どうか、かんべんして下さい。
京子 なにをおつしやつてゐるのか、わからないわ。御気分が悪いんぢやなくつて?(心から心配さうだ。此の女は、五郎と二人きりになると、急に女らしく受動的に素直になる。従つて又、利男その他を相手にしてゐた時の高飛車な輝きも失つてしまつて、極めて平凡な女になつてしまふのである)
五郎 なあに、なんでもありませんよ。少しグラグラするだけです。
京子 でも、なんですか、もつと休養なさる様にしないといけないわ。あなたまで身体を悪くなさりでもしたら、美緒子さんだつて結局――。
五郎 そんな事は言はないで下さい。美緒の事なんぞ言はないで下さい。あれは良い奴です。あんな良い奴はありません。しかし、貪欲です。恐しく貪欲です。なにもかも、それこそ何もかも取り上げないと承知しないのです。あいつは死にかゝつてゐます。死にかゝつてゐるくせに、なにもかも容赦しない。全部、それこそ、自分の周囲の人間の呼吸してゐる空気まで、自分のものにしないと承知しないんだ。こつちが息苦しくなつて、息がつけなくつても、彼奴は、まだ取らうとする。僕は、自分が彼奴を大事に思つてゐるか憎んでゐるか、わからない時がある。……いや、美緒ぢやない、美緒を憎むと言ふよりも、彼奴の持つてゐる生命です。生命と言ふものの貪欲さです。生命の本能です。執念深い……そいつは恐しく執念深い。愛情だとか、愛だとか、そんなものでは、もう間に合はないんだ。そんな甘つちよろい物なんか吹き飛んでしまふ。なんか、もつと別な、もつと物凄いもんです。……僕あ、時によると美緒を一思ひに殺してやらうかと思ふことがあるんですよ。
京子 まあ、キビの悪い。何をおつしやるの? そんな――。
五郎 (不意にニヤニヤして)キビが悪いですか? ハハ、さうなんですよ。でも、人間は一刻一刻に死んでゐるんですよ。少しづゝ、一刻一刻に死につゝあるんです。自分でも知らない間に、少しづつ死につゝあるんです。この地面は曾て死んだ人間の死骸で充満してゐるんです。いや、地面それ自体がソツクリ曾て生きてゐたものの死骸なんだ。さうでせう? さうなんですよ。人間の身体だつて、毎日々々死んで行く細胞の墓場です。新しい細胞は、墓場の上にしか生れて来ないんです。……戦争が有つてゐます。戦争が有つてゐます。戦争……それがどんなものだか、あなた解りますか? 解りますか?……赤井に子供が生れようとしてゐますよ。子供?……それが何だか解りますか? 同じ事なんですよ。同じ事なんだ。赤井は向うで倒れるかも知れません。多分、どうもそんな気がします。そんな気がしていけない。えゝい畜生! 彼奴も死ぬ!……その後で子供が生れる。彼奴の子供が生れる。いくら考へても、どんな訳があるのか解らん。しかし、生れる。……あなたの、身体だつて同じだ。美しいですよ。僕は画描きだから美しいものは見える。美しい。あなたの中で始終何か死んでゐるものがあるからです。同じだ。美緒もさうです。美緒も同じだ。えゝい、畜生! ち、畜生!(言ひ放つて片手を振つた拍子にフラフラツとして二三歩ヒヨロける。少し目まひがするらしい)……ウム。
京子 (相手の喋つてゐるのを、びつくりして口を少し開けて見詰め続けてゐたが、五郎が倒れさうなので、思はず寄つて行つて、その腕を掴む)あぶないわ、ホントにどうなすつたんですの?
五郎 なんです?(と却つて変な顔をして京子の顔を見る)
京子 もつと五郎さんもお身体を大切になさらなきや駄目だわ。
五郎 身体?……(不意にまるで小さい子供の様に無邪気にニコニコして相手の肩や胸を見てゐる)……でも、なんでそんな事を言ふんです?
京子 だつて――。
五郎 なんで、そんな事を言ふんです?
京子 だつて――五郎さん、かなり身体をこはしてゐらつしやるわ。
五郎 さうですか。……身体……肉体……。京子さん、あなた、僕を好きですか?
京子 ……(ドキンとして相手を見る)
五郎 え、僕を好きですか? 嫌ひですか?
京子 そんな、そんな事……なんでそんな事おつしやるの?
五郎 好きですかと聞いてゐるんだ!(出しぬけに今迄の子供らしい表情を失つて、右手で京子の肩を掴む)
京子 ……(おびえ切つた顔をして、ブルブル顫へている。急に此の女が無力に小さなものに、同時に何か柔かい女になつた様に見える)……痛い! 痛いわ、そんなに掴んぢや……。
五郎 ……。
京子 (シクシク泣き出す。痛いためでも悲しいためでも無いらしい)……。
五郎 ……ふつ!(相手の肩を掴んでゐた手を離す)
京子 (立つて居れなくなつてヘタヘタと坐つて涙を拭く)
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 五郎はさうして暫く京子の姿を見てゐたが、やがて京子から眼を離して、次第に怒つたやうな顔になり、ジツと立つてゐる。
 京子の涙は、何か訳のわからない甘いものである。静かに泣きやんで、砂の上を見てゐる。
間。
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比企 やあ、久我君も来てゐたね……(と言ひながら上手からやつて来る。海から上つて間がないと見えて、水着が濡れてゐる)……おゝ寒いや。もう駄目だね、海水浴も。……京子、何をしてゐるんだ。そんな所に坐つて?
京子 (ボンヤリしてゐる)……えゝ。
比企 どうしたんだい? 泳いで来いよ。あがつて来ると寒いけど、水の中に居りや丁度良いあんばいだぜ。久我君もどうだい?
五郎 僕は大して泳げないから。
比企 なんだか、青いなあ顔が、少し寝るんだなあ。
五郎 ありがたう。……(まだ少し目まひがするらしい)
利男の声 (遠くから)京子さあーん! 京子さあーん! ボートに乗りませんかあ! 京子さん、ボートに乗りませんかあ!
京子 あ、利男さんよ!(と今迄鎖で縛られてゐたのを、急に解き離されて生き返つたやうになつて跳ね起きて、いきなり声の方へ向つて、ターツと駆け出して行つてしまふ)
比企 ……誰だい?
五郎 美緒の弟が来てゐるんですよ。
比企 ああ、利男君とか言つた? さう……おゝ寒いや。……しかし本当に君はどうしたの?
五郎 うゝん、チヨツト疲れてゐるだけなんだ。大した事は無いんですよ。(頭を振つてゐる)
比企 大変だなあ、君も。
五郎 なあに。……で、どうなんでせう、美緒の具合は?
比企 先刻言つた通りですよ。昨日と大して変りは無い。
五郎 正直に言つて下さい。僕あ本当のことが聞きたいんだ。なんだか彼奴の調子が――病気のぢやないんだ。感情の調子が、近頃益々変な風になつて来たんで、気にかゝつていけないんですよ。気持が段
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