、腹がへるとベラベラと、とめどが無くなった。胃がからっぽになると頭が昂奮するのだなあ。食欲と言語中枢の関係か――
誠 ……その腹がへったを、双葉に、あまり聞かせないで下さいと言ってるんですよ。
三平 しかし、へったのは事実だからね。
誠 そうでなくても、双葉はいつも一人で気をもんでいるんですから――あんまりヤイヤイ言われると、又倒れます。
三平 うむ。……そりゃ、まあ、なんだよ……うむ。ええと、おせいさん、どこい行ったかね?
誠 人が来て、それと一緒に出かけたらしいですよ。
三平 人? じゃ、厨川の方から誰か?
誠 いや、大工さんの――板橋の家を建てた大工の内のおかみさん――どうせ金の催促でしょう。
三平 しつこいなあ、どうも。すっかり焼けて灰になってしまった物の代価を、はたり取られてる。いや今の日本は公私ともに、すべてそれかもしれんなあ。
誠 ……せい子さんの、厨川の方のこと、片附いたんですか?
三平 さあ、まだだろう。
誠 だろうって――人ごとのように言うなあ。
三平 だって君、私とおせいさんは関係が有るが、私と厨川君とは、なんの関係も無い。おせいさんの元の亭主が厨川君であると言うのにすぎないんだからね。おせいさんが厨川へ戻りたきゃ、戻ることを押しとどめ得る者は居ないわけだ。
誠 ……すると叔父さんは、そうさせたいんですか?
三平 私が? はは、そりゃ又、おのずから別の問題だね。
誠 しかし、それがつまり、三角関係じゃないんですかね。
三平 そうかねえ? 私ぁそうは思わん。私があちらへ行く前にしばらくなじんでいた会席料理の娘がその後いろんな目に逢って厨川と内縁関係をむすんでいた。厨川が出征した。その留守を焼け出された。そこへ私が向うから引上げて来てヒョックリ逢って、居るところが無くて困っていると言う。でまあ、昔のよしみ、それに、あれの、なくなった兄と言うのが、ここの兄さんの昔の教え子だって言うしね、まあ、此処へ来たらどうだと言うんでやって来た。それだけの話。もっとも、私自身がこうして此の家にころげ込んで住ましてもらってるぶんざいで、又ぞろおせいさんまで引っぱって来るのが身の程知らずだと言われれば一言も無いがね、ハハハ。しかしまあ、あの人も此処に居れば家事かなんか多少は役に立っているんだから、そこは大目に見てくれるんだな。……そこい厨川が兵隊から戻って来た。そして厨川はおせいさんに自分の所へ帰れと言う、おせいさんは帰るのはいやだと言う。そこにどんなわけが有るのか、私ぁ知らん。あくまで当人同志の問題だろうじゃないか。
誠 すると、叔父さんは、ただそれだけの気持で――?
三平 そりゃ君、私ぁあの女が好きだよ。……昔のこともあるし――好きなことをかくす必要は感じないね。ふふ。……いずれにしろ、君、たかの知れた女一匹――
誠 ……ふん、叔父さんこそ、東洋豪傑風だ。
三平 そうかね、まあどっちでもいいや。だが、君ぁ又なぜそんなに気にするんだい? え?
誠 ……不愉快だからです。
三平 不愉快? なにが?……もしかすると、なんじゃないか……君もあの女がまんざらでもないんじゃないか?
誠 (鉛筆を握って印刷物を見ていた眼をあげて三平を見る)
三平 (ニヤニヤして)駄目だぜ、君みたいな若い者があんな女に引っかかっちゃ。マルキストがいっぺんに台なしになるよ。……あの手の女は、先ず蟻地獄――君みたいな身体だと忽ち命取りだぜ。ふふ……でも、その気が有りゃ、向うを張って見るか?(ひどく陽気になっている)
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(柴田が手にひとつかみの野菜を持って上手の扉から入って来る)
[#ここで字下げ終わり]
柴田 ……ひどいもんだねえ。ふだん草《そう》が、こないだから、こら、こんなになっちもうから、へんだと思っていたら、油虫を蟻がかついで来ちゃ、取りつかして食わしている。(言いながら炊事場へ行って、そこの棚に野菜を置く)
三平 は、は、ははは――なに、油虫だって?
柴田 う?(はしゃいで笑う三平と、青い顔をして三平を見つめている誠を見くらべる)――どうしたね!
三平 やあ、はは、なあにね、私がさ、南米あたりで邦字新聞を出したり、いろんな代理店をやったりして、ゴロゴロして歩き廻りながら、もっぱら、この色ごとと酒の修業にどんだけ精魂を傾けて来たかと言う事をだねえ、誠君は知らんらしいからねえ、年はとってもまだまだ若い者には負けんから、お望みとあれば――
柴田 ははは、なにを、つまらんことを。……そいで、どうだね、役所の方は?
三平 やっぱり駄目ですよ。てんで、なっちょらんたい! これが二十回近くもお百度踏ましといて、いまだに責任のある返答のできる役人が現われんのじゃから。まるでどうも、日本人はホッテントット以下の人種になってしまったらしい。お気の毒ですが、なにぶんの示達があるまでは、在外資金はそのまま置くより仕方がありませんの一点張り。そんなら黙っていないで、当方の事情を訴えて、せめて引揚者の当座の生活資金だけでも肩代りをして支払えるような許可を受けてくれと言っても、駄目。卑屈になり切って、言うべき事も言えない。まるでどうも!
柴田 困るねえそれは。同じような人がずいぶんあるんだろう?
三平 ずいぶんのだんの候のって。何十万、いや東京だけでも――今日も帰りに浅草の寺に寄って見たが、――引揚者収容所です――都内だけでも二十箇所近く有るのが全部超満員――その連中が殆んどまあ、その土地々々の預金はそのままにして戻って来てるんだから。十年二十年、粒々苦心の結晶が、こら、こうして(内ポケットから、書類のたばを出して食卓の上に投げ出す)ただの紙っきれにこそは、なりにけり。
柴田 しかし、その内には、払い戻してくれるんだろう。
三平 その、その内には、だ、私等あ、一人残らず、かつえ死にに死に絶えていたってね。ふっ! その内に戻って来る十万円がなんになります? 今日たった今百円でも二百円でも無きゃ、私等ぁ生きちゃ行けないんだ。私ぁね、今日帰って来ながら、いよいよ闇屋になる決心をつけた。なあに、その気になりさえすりゃ、なんでもない。なんでも肌着を全部二重にして、それをちょうど防弾チョッキみたいに一面に小さい袋になるように縫っといて、それに全部買った米を入れて胴中から足の先まで巻きつけて来るのがあるそうだ。そうすれば一斗五升位は持って来れる。そうして一年三百六十五日汽車に乗ってあちこちしていれば、暮しが立つと言う。こんならくな稼業は無い。第一、そうなると、殆んど汽車の中が宿屋で暮せるんだから、此処の室にこうして厄介にならずに済むからね、ははは。
柴田 ……そりゃまあ、なんだが……此処にはいつまで居てくれても、私らはかまわんが――
三平 しかし、兄さんの方だって、三瓶の方から立退きを迫られているんでしょうが?
柴田 ……そりゃまあ、あけてくれと言っちゃ来ている。しかし三瓶さんの方じゃ、とにかくまあ、疎開先で腰を落着けて居られるんだから――それに此処だって、使えるのはまあ此の室だけで、どうせ三瓶で取戻して見てもチャンと住まえるわけはなし、それを話して当分、まあ、居さして貰うとして。――それよりも、その、君が、闇屋になると言うのは……なんとか他に方法は無いもんかねえ?
三平 そら始まった。
柴田 いやいや、私の言うのはだな――
三平 たいがいにしなさいよ、あなたも。ねえ誠君?(誠、答えず。うつむいて鉛筆を動かしている)そうでしょぅ? 生命をつないで行くために、人間がしちゃいけない事なんか、世の中に何一つ有りゃしませんよ。
柴田 しかし、どうせ闇屋などをしても、ホンの一時のことだろう。それよりも、なんとかこのチャンとした方針を立ててだなあ――
三平 人世、すべて、その一時でないことがありますかねえ。時にこうした有様の現在とあって見りゃ尚の事。昨日は夢の如く、明日はどうなり行くか、双葉じゃないがアラアの神も御存じなしです。チャンとした方針などが有り得ると考えることからして一つの妄想だねえ。強いて方針と言やあ、一刻々々と次々にどんなに奇妙な、どんな奇怪な事が起きてもですね、――たとえばアラフラ海の海底から四斗樽ほどの海蛇が出しぬけに此処へやって来て、一緒にダンスを踊りましょうと申し出てもだね、又、一時間もして不意に私がアモックにとっつかれて、そこの薪割りかなんかで兄さんをはじめあなた方全部を皆殺しにしてもですね、今更びっくりしないと言う事だなあ。
柴田 また、でたらめな事を――
三平 でたらめだとしても、そいつは私のせいじゃない。今の時代がそうなんだ。人間は、何百万のお仲間の人間を殺したばっかりのところでね。
誠 (眼をあげないで)南米ゴロ的な詭弁だ。
三平 (ジロジロと誠を見る)……「南米ゴロ的」は、君の言う通りだ。しかし詭弁じゃないね。
誠 戦争を計画し挑発したのはファッショですよ。
三平 そりゃ、そうのようだがね。結果さ、私の言っているのは。つまり人類だ、人類が人類を殺したと言う全体としての事実は、どういう事になるんだい?
誠 そんな人道主義的な戦争観自体がファッショです。
三平 (……誠の言い方の、静かだが、しかし毒々しい位の真意をこめた調子に対して、相手に眼をやりながら、しばらく黙っている。しかし又、殆んど表面には何の反感も現わしていない淡々たる語調で)ありがたいが、その褒め言葉は返上しよう。私はファッショでさえもないからね。せいぜい国際的ルンペン。……駄目さね、もう。つまり、倭寇のキンを抜かれたやつ――デゼネレートした倭寇さね。ハハハ……(笑いながら調子を変えて柴田に)だが、兄さんも、いいかげんにしたらいいと思う。学問の事など私にはわからんが、兄さんみたいな良心的な歴史学者なんて、これからの日本に存在し得るわけがない。存在する必要もない。又そうなった方が、日本の幸福かもしれんのだからねえ。そもそも、学校なんて一面から見れば要するに生活の資金を稼ぐ所なんだから、そんな所としてハッキリ認めた上でだな、先方で戻って来てくれと言ってるんだから、サッサと戻って行って、元気よくやったらどうです。
柴田 (苦笑)……やあ、私はただの歴史の学究……老書生に過ぎん。私など、実はこれから、もう一度、日本の歴史の勉強をやり直そうと思っているよ。
三平 へえ、まだこりませんかねえ?
柴田 こりる? こりるとは?
三平 だいたい、歴史を見るのに、そんな、いろんな見方が有るんですかねえ? 事実を事実として眺めれば、誰が見ても違いはしまいと思うが――?
柴田 その、しかし、事実を事実として眺めるのにも、眺める人の態度や立場が有る。第一、今迄、事実を事実として眺めるにも、それを邪魔したり圧迫したりする力が多過ぎた。そのために歴史そのものも色々と歪んで来ているわけだ。それが、これからは、まあ、そのような外部からの力が比較的無くなった。正しい公平な日本の歴史が出来あがるのはこれからだろうと思われる。私など、これからこそ、古事記や記紀の類や万葉その他の古典が国民全般に研究される必要が有ると思っている。古い時代に限らない、徳川以後、明治維新以後の近世の事にしたって、ホントに学問的に検討されるのはこれからだね。少くとも検討され得るのはこれからだ。私らはそれをやらなくてはならん。いや、私などに何程の事もやれんかも知れんが、それはまあ、私ら自身は捨石になってもよいからとにかく、これから、やらなくちゃならん。こうしてまあ、さんざんのありさまだが、此の国の将来の事を思うと、参ってばかりも居れない。むしろ、この国が生きるも亡びるのも、これからの事だと言う気がする。そう思うと、私など丁度二十代の、学問をはじめたばかりの時分のような気分になる。まあ、暮しの方は又飜訳の仕事でもやりながら――
三平 そりゃ……そりゃねえ、そんだけ兄さんが若返った気持になってるのは結構だけどですよ、なんだ、気だけ立てて見ても、身体がそんなに弱っていちゃ、どうにもなるまいと思うんだが――それが大事な点だと私は思いますがねえ。第一
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