、兄さんは、これからは今迄と違って、学問の研究を、外部からの力がひん曲げたりする事がなくなったと言うが、私はそんな事はないと思うね。
柴田 そりゃ、細かい事を言えば、そうかも知れんがねえ、しかしいずれにしろ、外部からの力に依ってひん曲げられる事に対して抵抗してだな、ホントの物の真実を守って行くのが、先ず学究の任務じゃから、少しでもその種の外力が減ったと言うのはよろこばしい事で――
三平 違うなあ、私らの考えは。学問などと言うものは、いつまでもその時その時の力に依って動かされて行くもんで、学者と言うものは、その時々の権力でどうにでもなるもの――つまり、学者は一人残らず曲学阿世の徒でさあ。おっと、これは学者の悪口を言っているんじゃありませんよ。悪口でもなけりゃ、褒めているんでもない。学者にしたって此の世に生きている人間ですからな、此の世を支配している力に動かされるのは当然だし、それがあたり前だって言っているんです。
柴田 (苦笑する。しかしすぐまじめになって)……いや、そんな事はないよ。なるほど学問には、その時々の外力で動かされる部分も有るには有る。しかし動かない部分も有る。実は、その動かない部分こそ、学問の本質だ。つまり、勝者からも敗者からも同時に認め得る道理――公平冷静な、むつかしく言えば普遍妥当な、つまり、第三の価値。それが学問の中心だ。そりゃ自然科学だけであって、人文科学にはそんなものはないと言う者も世間には有るが、そんな事はない。現に――
誠 ふ、ふ、ふ……(黙々として聞いていたのが、その時、鉛筆をカラリと置いて低く笑う。柴田、言葉を切ってその方を見る)
三平 そりゃそうかも知れんけど、私ぁそんな事よりもだな、兄さんはもっと何とかして、食う物でも、もう少し食べる算段をしてからだな、そいから学問でもなんでもすると、ねえ誠君――
誠 まあ、いいですよ。ふふ、お父さんは、さっきから僕に言ってるんだ。
三平 なに? なにを?
誠 こないだの議論の続きを、お父さんは僕にふっかけているんだ。
三平 しかし、君……(柴田の方を見る)
柴田 なんだ?……(誠を見ている)
誠 ……(チョットだまっていてから)直ぐにお父さんは、普遍妥当の、第三の価値のと言いますけど……そんな物を持って来て、どんな事を立証しようと言うんです? 大和民族と言うのは、本質的に、そして根本的に、この島に渡来して来て社会生活をやって来たモンゴリヤ系の一群の人間達です。それでいて、僕等の尊厳や価値が一分一厘だって増減したりはしませんよ。大和民族を神聖化したり、皇室をタブーにしたりする必要も必然性もないんだ。待って下さい。……お父さんは、直ぐに民族と言います。しかし、それは全体、なんの事です? 誰を指しておっしゃるんです? いいえ、僕にとっては、民族は、今、現に、此処に手でつかめる姿で生きて働いているわれわれの社会の、これらの人間のことです。苦しい条件の中で生きようとあがいている人間のことです。……お父さんの民族は、どこに居ます? お父さんの国はどこに有るんです? そいつは、普遍妥当に存在しているんですか? つまり、実はどこにも存在してやしないんだ。強いて言えばお父さんの頭の中に存在しているだけなんですよ。
柴田 (立ちあがっている)違う。それは違うよ。
誠 お父さんは愛する愛すると言いながら、実は現実には誰も愛していないんだ。広い事を言う必要はない、現に、お母さんは殆んどお父さんのために犠牲になって――生活の苦しみを一手に引受け、僕等を育てるために自分一人で内職をしたり質屋に通ったり借金にまわったり、しまいに病気で倒れて死んだんです。……僕はよく憶えています。それから信子です。あの若さで、信子が、なぜ死んだと思います? 負けいくさのためじゃありません。信子は、お父さんから、むやみに神秘的な民族主義をふき込まれ、神がかりの精神教育で育てられたために、せっかく医学をやっていたくせに物事を合理的に考える力も、ネバリ強く耐えて行く力もなくしてしまったんだ。だから日本が戦争に敗北したのを、即ち自分が敗北したように思ってしまった。信子は純粋な奴でしたよ。純粋なだけに、ほかの考えようがなかったんだ。……僕が高等学校時分からお父さんに背いて別の方へ歩き出したために、信子はお父さんにお父さんの信念をシャブらされて育ったんだ。つまりお父さんの信念の申し子だった。つまり、お父さんの信念が、信子を殺したんだ。……お母さん、それから信子……それから、こうして僕、双葉、欣二にしても――お父さんは、ホントは誰も愛しちゃいないんですよ。(立って、プイと上手の扉から出て行ってしまう)
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(間――柴田は誠の後姿を見送っていたが、やがて椅子にかけて、自分の前を見つめる)
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三平 ……(先程からジロリジロリと誠の方を見ながら鼻毛を抜いていたが)ふ――む……いかんなあ。
柴田 …………
三平 どう言うんだんね?
柴田 ……う?
三平 いやあ、あれはどうも、此処が(と自分の胸を指して)だいぶ進んで来たんじゃないかなあ?
柴田 ……?
三平 ハハ、どうです、あれにも早くワイフを持たしてやらんといけんたい。(脈絡の無い事を平気で言ってニヤニヤする)
柴田 ……(再び自身の考えの中に落ちてしばらく黙っていてから)私ぁ、そんなにむごく扱ったかなあ?
三平 なに?
柴田 いや……咲子をさ。
三平 姉さんを? いやあ、そんな事あ、ありませんよ。私の方へはズーッと手紙をくれていたから、知っている――姉さんはすべてに満足して、幸福に――
柴田 いや、咲子にしても、信子にしても……それから誠にしても双葉や欣二にしてもだ、これだけ私は気にかけて――正直のところ、あれたちが、うまくやって行くためになら、もし必要とあれば、自分の手足をもいで食べさしてやってもよいと思っている。
三平 やあ、そいつは、しかし、まずいでしょうな。ははは。
柴田 うむ?(相手の諧謔がわからぬ)……いやさ、あれは全体、何を言っているのだ? 私にどうしろと言っているのだ? ……(気が抜けたように空を見ている両眼から涙が流れる。それを拭きもしないで、ボンヤリ坐っている)
双葉の声 ……兄さん、そっちい行って、カボチャの根っこの所を、ふんづけちゃ駄目よ。兄さんてば!――(言いながら上手扉から入って来る。手に畑で採ったふだん草やサツマ芋の葉などを水で洗ったばかりで滴のたれているのを持っている。炊事場へ行きながら)叔父さん、カボチャの花は食べられるんですって?
三平 うん?……そりゃまあ、食って食えない事もなかろうが――
双葉 スープに入れたら綺麗だろうと思うの。
三平 スープか……
双葉 (野菜を、マナイタの上で揃えながら)サツマイモのはじん所、お父さん掘ったんですか?
柴田 サツマイモ? いやあ――(まだボンヤリしている)
双葉 一番向うのウネの五本ほどひっこ抜いてあるの。じゃ、せい子さんかしら。(父の方を振返って見る)
柴田 (やっと我れに返って、少しドギマギして)いやあ――おせいさんも、掘りはせんだろう。
双葉 ……でしょう? まだ、実なんか入っちゃいないんですもの。じゃ又、ドロボウ――ひどいわあ! まだ、鼠のシッポほどにもなっていないのを。おお、おお、代代の聖人様! おしりをつねりたまえ日本人の。(言いながら、手は野菜をきざみ、それを大きな鍋に入れ、バケツの水を注ぎ、ザブザブと洗って、水をゆすぎこぼし、又水を入れてふたをして置き、さてそれから七輪に火を燃すべく、薪を取って手斧でコツンコツンと割る。既に夕飯の支度に入っているのである)どっこいしょと!
三平 みんなドロボウになったのだな。二三日前も電車の中で三十恰好のりっぱな男が二人で工場へ出て働くよりか闇をやっている商人や百姓を脅迫して物資をかっぱらって来るのが率が良いと言う話をしているのさ。(その間に双葉は七輪に火を燃しつけて大きい鍋をかける。その煙)それが、なんと、ぐるりの人がチャンと聞いている電車の中で、かくべつ声を小さくするわけでもない。ちょっと、これには感服した。…〔Engan~ado como a un nin~o, ay, ay, ay!〕
双葉 (三平の歌に合せて)Ay, ay, ay!
三平 Pero nunca se lo digas!
双葉 だけど、せい子さん、どうしたんかな? 早く帰ってくれないと、私、困っちもう。
柴田 たりないかね?
双葉 ううん、そう言うわけでもないけど――。(考え込もうとする自分を振りきるように、二三のフキンを棚から取り、バケツをさげて、上手扉の方へ)
柴田 水か? どれ、私が汲んで来よう。
双葉 お父さんはそこに居て下さい。
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(そこへ上手から、ぬれた手拭で額をおさえながら誠が入って来る。坐り机の方へ行く)
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双葉 ……どうしたの兄さん?
誠 ……うん。(机の前に坐って再び鉛筆をとりあげる)
双葉 お仕事?
誠 なに、又――
双葉 校正なら、私、やったげる。
誠 いいんだよ。今日はチョットだ。
双葉 でも、とにかく、あとでなすったら?
誠 うん。
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(双葉、兄の方を見ながら出て行く)
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柴田 ……(誠の後姿を見守りながら)あとでやったら、どうだ?……疲れている。
誠 ……いいんです。(父の方を見ないようにして鉛筆を動かす)
声 ただいまあ。
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(その声がしてからチョット間を置いて、次男の欣二が奥の出入口からノッソリ入って来る。上等のワイシャツに、麻のズボン、レーンハットに青い靴下、背広の上衣は脱いで左腕にかけている。顔つきも身体つきも、殆んど男装した若い女のようにやさしい青年)
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柴田 ……お帰り。
三平 どうした、欣二?
欣二 (ニコニコ笑って)ええ。……(自分の入って来た出入口の方を振返って)おい君、はいりたまえよ。
三平 ……[#「……」は底本では「…‥」](誰か出て来るかと思って同じくそちらを見るが、誰も出て来ないので)誰だえ?
欣二 ううん。……はいれよ、サッサと。(言い捨てて自分は食卓の方へ行き、帽子を脱ぎ、上衣といっしょに食卓に置き、椅子にかけて、父親の顔をむさぼるように見る)
柴田 誰かお客さんかね?
欣二 お父さん、また、痩せちゃった。
柴田 うむ? いや……(頬を撫でる)
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(そこへ、出入口から圭子入って来る。思い切ってドギツイ、レンガ色の化粧をして真紅に唇を描き、はでなスーツに絹のストッキングに、大型のハンドバックを持った若い女。少しきまり悪いのをかくすために、かえって馴々しすぎる表情)
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三平 やあ!
圭子 今日わあ。(頭は下げないで、胴なかをクネクネさせ上眼使いに相手の顔を正面から見ながら眼に物を言わせる式のお辞儀)しばらくでございました。
柴田 ええと、たしか――(誰だかわからないで、びっくりしている)
欣二 ははは。
圭子 ……(柴田に)私、ズットせん、信子さんとこに寄せて貰っていました加藤――
柴田 ああ信子のお友達の――
圭子 圭子と申しますの。
欣二 コじゃなくって、ケイトだろう。ケティとも言う。(ポケットから小さな紙包みを出し、紙をはがして父の前に差し出す)お父さん、食べて下さい。
柴田 (ドギマギして)なんだ?
敬二 チーズ。買ったんじゃない、貰ったんだ。
圭子 (色っぽく欣二を睨んで)おぼえていらっしゃい、欣二さん!
欣二 なんでもいいから気取って、はずかしがったりして見せるのはよせって言うんだ。かん違いはしない方がいい。僕ぁ、ただ島田の松の後を追って病院へ行ったら、そこに君が青くなって顫えているから一緒に連れて来たまでだよ。
圭子 悪うござんしたねえ一緒に来て。それじゃ私ぁ出て行ってよ。
欣二 ふん。(わきを向いて三平に)双葉は?
三平 そこに居る。(圭子に)まあまあ、おかけな
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