演目の配列などに濁りが生じて来た」と君は言っているが、僕は問いたい、新築地その他の劇団の演目の配列その他が澄んでいたことが有ったか? 演目の配列が澄んでいたと言うことは、それらの劇団の総意が命ずる所に第一義的に緊密に結び附いた演目の配列と言う事を指すのであるが、その様な時期がそれらの劇団に有ったか? 無かった。澄んでもいなかったものが、濁る筈は無いのである。
 だから、この様な言葉で以て君がホントに言いたがっている事は、そんな事では無いのだ。実は、実際に於て君が「その劇団のやりかたに不満を抱いた」ためにサボらざるを得なかった程にダラシの無かったところの新築地劇団の、実際上は存在もしなかった「針路」や「清澄」を今更になってそれが厳然として存在していたかの様に言い作ることに依って、それらの「針路」や「清澄」さの神聖さをデッチあげ、それらの神聖さを歪め、けがすものとしての「食うと言う建前」を有害なものとして、おとしめようとしているのだ。それが君の目的なのだ。これは二重三重の陥穽である。虚妄の上に虚妄を畳み上げ、その上に更に虚妄の言葉を置いて「さあ、これが真理だ。これを拝み、これに従え」と君は言っているのだ。
 なるほど、どんなにダラシの無い全体性に欠けた劇団にも、その全員又は一二の個人が、漠然とした形で、「おれ達は本来、こんな風な演目でこんな風な芝居をしたいんだ」と思う事はあり得る。そしてこの事は、普通考えられているよりも、当の劇団にとっては大事な事がらである。新築地その他の新劇団にも、それは有った。そして、結局は、その様な気分が、非常にダラシの無い現われ方と経過をとって、それらの劇団のその時その時の「やり方」や演目を決定して行った。しかし、もともと、その様な気分は緊密な鍛錬を経て来たものでは無いので、それの生んだやり方や演目が、往々にしてその劇団の経営的な必要と矛盾したり相剋したりした。言葉を換えて言えば、劇団の芸術的意図と経営的必要とが衝突した。そして或る場合には前者が勝ちを占めて後者が無視された。或る場合には後者が支配して前者が第二義とされた。そして全体を通じて見ると、後の場合の方が多かった。
 君の言葉が、この現象を指して言われているものとすれば、その言い方と、それから引き出されている結論との全き誤りと悪意とを問題外にすれば――つまり君の言葉そのものは、それだけとしては当っていることを僕は認める。そして、その限りに就ても僕は次のように言う。
 その様な、芸術的意図と経営的必要との相剋は、あらゆる劇団の場合に避け得られないばかりで無く、それは起る方がよいし、起らなければならぬ事である。なぜならば、劇団の経営という事は、君が思い、かつ言いたいと思っているように、その劇団の芸術運動の外にあるのでは無くて、その劇団の芸術運動の一部分だからだ。経営無くして芸術運動は無いのである。営利劇団に於て経営が芸術的意図や方針の外に存在しているのは、その劇団が芸術運動では無くて、営利の対象であるからだ。つまり商品だからである。芸術運動としての劇団に於ては経営は外に存在してはならぬし、また概して外に存在し得ないものである。従ってこの二つは、劇団の内部に於て相剋するのが当然であり、相剋した方が、より良いのである。相剋して運動全体を駄目にしてしまうものとしてでは無く、相剋した結果として運動全体をより高くより強力になすものとして、相剋は有った方がよいのである。それでこそ初めて、芸術的意図の中で現実から浮き上ってしまったマヤカシモノの「芸術至上主義」[#「至上主義」」は底本では「至上主義」]や、ただの装飾に過ぎない「良心」などが、経営の必要の中に正当に含まれている観客大衆の健康な嗜好や意志に依って叩き出され、矯正される。同時に、経営的必要の中に含まれている誤った事大主義や大衆追随主義などが、芸術的意図の中に正しく含まれている真の文化・芸術への高き意志に依って叩き出され矯正されるのだ。双方の偏向が互いに矯正される可能性が、そこから生れるのである。勿論、この二つの相剋は一つ一つの実際上の結果としては、時に依って妥協の形で現われる事もあるだろうし、又、征服被征服の形で現われる事もあろう。その様な妥協はしなければならないのだ。その様な征服被征服はあった方がよいのだ。なぜならば、言葉のホントの意味ではその様な妥協は決して妥協と呼ばるべきもので無く、征服被征服と呼ばるべきものでも無いからだ。その事に依って当の劇団が一つの全体として、より健全に仕事がして行ける――即ち芸術面でも経営面でも無理なく一歩々々とより高い方へ近づいて行ける事だからだ。言うまでも無く、その様な歩みは非常に遅々としか進まない。たとえば、旧築地小劇場が「土方伯爵家の財産を食いつぶす」ことに依ってなし得たような「芸術的に高く純粋な」仕事を、それ程急速にやる事は出来ない。同時に、あらゆる金儲け主義劇団がすべての良心と誠実と善意を侮辱する事に依って成しとげているような「食えて尚余りある」仕事を、それ程急速にやる事は出来ない。そして、やれないのが本当なのだ。やってはならないのだ。なぜなら、右にあげた二つの行き方は、それぞれ全く不健全であり、そのまま「亡びの道」に通ずる事がらであるからだ。
 遅々たる歩みではあっても、絶えず打ち叩いて来る経営的必要(つまり食う必要)の抵抗に向って芸術的意図の本質を守り抜いて行き、同時に、絶えず激発して来る芸術的意慾(つまり純粋な高い芝居をやりたいと言う慾望)の抵抗に向って経営的最低線を確保して行く――この二つを統一的に調和的に実践する努力を忍耐強くやって行くことのみが、真に健全なる「栄えの道」である。そして、そうであってこそ、その芸術的意図は正しく芸術的意図と言う言葉に値いするし、その経営的必要は正しく経営的必要と言う言葉に値いする。
 そして、右の様に堅実な芸術的意図も、右の様に堅実な経営的必要も、従って勿論、この二つのものの調和統一に対する忍耐強さも、新築地その他の新劇団には薬にしたくも無かったのである。有るものはただ、或る時は芸術的意図だけを文学青年的、芸術至上主義的、感傷主義的に抱きしめて他を顧みず又別の時は経営的必要だけを商人的、ユダヤ人的、サラリーマン根性的に抱きしめて他を顧みぬと言うテンヤワンヤだけであった。そして、経営的必要のために芸術的意図のホンの少しばかりが差し引かれると、「俺達の芸術運動の針路は曲ってしまった。濁ってしまった」とわめき立てるか(丁度君がしているように)又は芸術的意図のために経営的な困難が少し起きると「これでは食えんから、もう駄目だ」と泣きベソを掻く(丁度君がしているように!)と言う、殆んどヒステリー患者に類する狂躁状態だけが君達を支配したのである。この狂躁状態は君の裡に今尚続いている。そしてそれが君に、此の章の冒頭に引用したような言葉を吐かせ、虚妄の上に虚妄を築かせているのだ。僕が「この言葉はそれ自体としても奇怪に響く」と言ったのは、その事だ。
 次に「特にそれを君が言うと尚更奇怪である」と言うのを説明しよう。
 説明する必要から、百歩を譲る。で、仮りに君の言う「新築地では食えなかった。食えないものを無理に食おうとしたために新築地の針路は曲げられ、濁った。その食えないと言う事にも堪えられなかったし、針路の曲りや濁りにも我慢出来なかったので自分はその様な仕事から身を引いていた。しかし尚、演劇への愛情のやみがたいものを持っている自分達は、今の場合こうするのが最善だと思うので、食う道を別に持ちながら良い仕事をしようと思って苦楽座を結成した」と言う言葉を、そのまま文字通りに真実として肯定して見よう。……さあ丸山定夫よ、水に落ちて溺れようとしている君を救うために僕は一本の藁シベを投げ与える。すがり附きたまえ。やがて直ぐに僕はその藁シベをも君の手から取り上げて見せる。乞う、次を読め。
 そこで、苦楽座結成に至る君の論理のすべてを僕は肯定した。あとは、君自身の論理を使って行く。苦楽座は、食うための手段を他に持った者同志の劇団なのだから、差し当り苦楽座自体の仕事の収益で以て食わなくとも済む。従って、その方針や演目の配列は食う必要を顧慮しないで実施出来る。と言うよりは、それが取り柄で苦楽座は始められたのだ。すれば、苦楽座の方針や演目は君等座員達の芸術家としての芸術的意慾を第一義的に具体化したものである。
 そこで苦楽座の旗挙公演のやられ方(方針)と演目の配列を見ようではないか。
 それはスター・システムでやられた。演目は各スター達の「これは俺の出し物、これは俺の出し物」と言うので決められた。俳優が足りないのは、あれやこれやの雑色の不統一な俳優達が掻き集められた。又は、どう言う理由か僕には判らぬ理由で(なぜなら苦楽座はそれで以て食う必要は無いのだから従って「当てる」必要はないのだから)「大いにポスター・ヴァリューを考慮して」人気だけ有って演技力を殆んど持たぬレヴューガールなどまで掻き集められた。稽古日数は、ひいき目に見ても充分とは言えなかった。三つの演目の間に一貫した方針も調和も統一も無かった。その演目の一つ一つも意義や美しさに於て欠けていた。つまり良くなかった。(この事に就ては、もし君から質問が有れば、良くなかった理由を具体的に述べる事が僕は出来る。また、それだけの責任を自分の言葉に負いたいと思う)
 準備期間が足りなかったとか、脚本が他に無かったからとか言う弁解は、この場合有り得ないのだ。なぜかと言えば、君達にとって食う必要こそ芸術的方針や演目を歪めたり濁らしたりする最大の理由なのだから、その食う必要を顧慮する必要の無い苦楽座が、誰が考えても芸術的方針を歪め演目を濁らせるところの準備期間の不足や脚本の不足を我慢しながら芝居をやる必要は初めから無かったのだ。従って、苦楽座旗挙公演の、このやられ方や演目が、君達の芸術的意慾の第一義的な現われと見てよいのである。(記憶せよ、僕がこの結論にたどり附いたのは、君自身の論理に依ってである)
 これから先きは、僕自身の見る眼だ。さてそれで僕の眼には、この様な芝居のやられ方が、真直ぐな方針に基いたものとはどうしても見えないし、この様な演目の配列が澄んだものとは映らないのである。むしろそれは曲った針路――と言うよりも初めからクシャクシャに曲りくねったボロクズの様な針路、早く言えば針路とは言えない針路に依るものの様に見えるし、また、それは濁った演目――と言うよりも初めからドブドロの様に濁った演目、早く言えば澄むとか濁るとか問題にならぬところの演目の様に見える。その曲り方や濁り方は、君の「食う必要のために曲った針路を取り、濁った演目」に堕した新築地劇団の方針や演目に較べても、苦楽座旗挙公演のやられ方と演目は、より曲って居り、より濁っているとしか僕には、見えないのである。しかも、ショッパナからである。これも、もっと具体的に実証せよとあらば僕はするつもりだ。
 すると僕には、君の「食えないから……」と言う文句から始まって展開された言葉と論理の全過程が、ひっくり返り、こわれてしまったように思われる。言うまでも無く、君にも同様に思われる筈だ。
 従って、あにはからんや! 芸術方針を曲げたり、演目の配列を濁らしたりする原因は、君の言う「食えないのに、無理に食おうとする」からでは無かったのだ。少なくとも、食えないからだけではなかったのである。それごらん。君の手から最後の藁シベを僕は取り上げてあげた。君は、どうする? どう答える?
 そこで、前に別の言葉で言ったように、或る劇団の芸術方針の歪曲や演目の濁りは、他なし、その劇団の芸術的意慾の衰弱から起ると僕は思う。衰弱した芸術的意慾は、ホンの少し痛めつけられても悲鳴をあげるものである。チョットばかり「食えなくなって」さえも、それに堪え切れないのである。
 かつての新築地その他の新劇団はいろいろのやむにやめない原因から、殆んど慢性的に衰弱した状態であった。そして君達の苦楽座は、別
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