日本がこれを餓えさせることがあるものか。又事実、餓えた者はいないのだ。
「いや、それでも餓える恐れがある」と言うならば、それを強いて事実を曲げようと意図する者か、又は殆んど故意にわが国を誣いようとする[#「誣いようとする」は底本では「誣ひようとする」]徒に近い。でなければ、「今日本が必要としている演劇」と言うのが真赤な嘘であって、実はその様なもっともらしく神聖な言葉の隠れ蓑の中で、私利と私慾を計ろうとする徒輩か、一般的・自由主義的・国際主義的「良心」――即ちいつなんどきでも「敵性」となり得るしろものを国民の間にばら撒こうとする徒輩であろう。
 僕は一時の昂奮にかられ、のぼせ上って、この様な事を放言しているのでは無い。ごらん、僕を。曾て、自分だけでは真面目なつもりでも客観的には全く量見ちがいをして一時左翼的思想に頭を突っ込みそして、その誤りに気附くやサッサと其処から抜け出して来たばかりでなく、その後と雖も物を書く筆を折りもしない無節操漢であり、しかも一年にせいぜい二三篇の戯曲を書き得るに過ぎない程に遅鈍にして病弱なる怠け者である此の僕でさえも、普通の意味でコツコツと戯曲を書いてさえ居れば、わが日本は餓えさせないで生かして置いてくれているのだ。勿論、それは先輩知友のすべてに厄介をかけながらだ。現に君からも物質的にも精神的にも助けて貰っている。しかし、その先輩知友も君も、一人残らず「日本」なのだ。いや、それこそ僕にとっての「日本」それ自体なのだ。将来とても、日本は決して僕を餓えさせはしない。その点で僕は全く楽観的だ。
 かくの如き僕にして然り。まして、君も徳川夢声も高山徳右衛門も藤原鶏太も八田尚之も、それからそれに類する殆んどすべてのわが兄弟達も、僕より有能であり有徳であり健康であり勤勉であることは間違いが無い。しかも、それらの人人が力を合せて「国のために」なる仕事(演劇)をしようと言うのに、餓える恐れが有る?
 僕には信じられない。事実として信じられない。僕がそれを信じるという事は、僕が日本を信じられなくなった時だ。そして僕は日本を信じているのだ。だから丸山定夫よ、馬鹿も休み休み言えと言うことになるのである。馬鹿と言われて腹が立つならば、丸山定夫よ、君の全心身をあげて苦楽座をやった末に、餓死して見せてくれ。

      5

 言うまでも無く僕が「どんな仕事であれ、それに全心身を打ち込んでコツコツやって居さへすれば、事実として食える」と言っているのは――その「食える」と言うのは、文字通りの意味で言っている。生活がやって行けるという意味である。富豪のように、重役のように、金利生活者のように、スタアのように、贅沢に暮らせると言う意味ではない。
 まして芸術家(ここでは俳優や劇作家のこととする)は、もともと自分の好きな事をしている専門家である。農業者や工員その他に比して、より高い収入や、より贅沢な暮し方を自分の方から要求しようと言うのは間違っている。
 君の「まず食わなければならぬ」と言う言葉が、もし贅沢に(即ち日本国民の平均生活費の三倍も四倍もの生活費を使って)暮さなければならぬと言う意味であるならば、先ず君は言葉の使い方を知らないと言わなければならぬし、更にその様な君の考え方は間違っていると言わなければならぬ。
 君達は「かつて新劇運動に参加し、それを続けて行くために窮乏の暮しに堪えていた」それが遂に「堪え切れなくなって第一線を離れ糊口の業をするように」なった。そして現在、君達の大部分――と言うよりも殆んど全部が、僕の概算に依れば平均約二百円から三百円の月収を映画その他から得ている。苦楽座の同人諸氏に至っては大体三百円から千円に至る月収を得ている。それはそれでよい。君達にはそれだけの商品価値が有るのだから、多過ぎるとは言えない。むしろ、それでも足りない位だと思う。
 ただ、君達は、いつの間にか、その様な収入に馴れた。それを手一杯に使って暮す暖かさに馴れた。その暖かい席から自分の尻を持ち上げるのが、おっくうになってしまった。しかも、その様な席から「窮乏していた新劇時代」を振返って見ると恐ろしくなる。その時代に別に餓死に近い目に会ったわけでもないのに、恐怖は君達に「食えなかった」などと言ううわごとを言わせるのだ。
 しかも、君達の芸術慾や演劇愛は、まだ死滅したわけでは無いので、君達を駆って何かやらせたがる。現在の暖かい席に落着いて居れない。そうかと言って、暖かい席を離れ切りにもなれない。いきおい、その席に坐ったままで、又は半分ばかり坐ったままで、君達の言う「良心的」な「純粋」な芝居を「いじくり」はじめた。それが苦楽座だ。そして、その様な虫の良い自己の態度を自ら弁護するために、この席を離れてしまって全心身を賭して芝居をやれば「食えないから」と放言しているのである。
 君達をその様にさせている不安や恐怖や危懼の心理は、僕にもわからぬことはない。
 しかし君達のその様な態度は、丁度ヌクヌクと安楽椅子にふんぞり返って居られる金持が、道楽に魚釣りに出かけて、「魚が一匹も釣れないでは、俺は食えなくなる」と心配しているようなものだ。また、ダンケルクから敗退したイギリス軍が、英本土まで逃げればよいものを、恐怖のあまりカナダの方まで逃げ去ってしまったあげく、カナダの安全さに馴れてしまって、「英本土に戻りたいが、戻るとドイツ軍に殺される」と心配するのに似ている。しかし、まだそれだけならよい。許すべからざるは、その様な心配を言葉に出して呼号する事に依って、現に魚を釣って生計を立てている本職の漁夫、又はこれから本職になろうとしている漁夫の子達を全く有害な不安に陥れたり、全軍の将兵に全くいわれの無い恐怖を与えて戦意を失わせてやろうとしている点だ。つまり、真剣に「高き」演劇に挺身し、又挺身しようとしている良き演劇人達を嘘偽の――少くとも真偽不明の言説を以て萎縮させようとしている事だ。しかも、それを「良心」や「純粋」や「国」の名に於てしている事だ。
 君達、虚妄にとりつかれた「新劇くずれ[#「くずれ」は底本では「くづれ」]」どもは、何かと言えば過去を振返って「生活の苦難」を言う。苦難?
 どこに、苦難と言うに値いするものが有った? 酒が飲めない、御馳走が食えない、一ヶ月三十円しか収入がない、三日食えなかったことがある……等々々。それが苦難か? 苦難と言う言葉が泣くであろう。われわれの志は、たかがそれ程の事を「苦難」と称して自ら誇り、しかもその事から尻込みし、今後とも尻込みする程に浅薄なものであるのか?
「芸」のため「道」のために、文字通り一生を粉骨し砕身して尚足らずとした先人達に、われわれは恥ずべきである。先人の事を言わずとも、現に、われらの目前に於てわれらの兄弟達である将兵諸氏が、どの様な状態の中で戦ってくれているかを想い見ればよい。食も無く水も無く、炎熱又は酷寒の道を一日に十里十五里と歩み行き、しかもその末に敵の十字砲火の中に身をさらす。苦難とはその事だ。それが苦難と言うに値いする事である。われわれ芸術にたずさわる者達が、芸術の事に専念するために味わなければならぬ少しばかりの不自由を苦難などと言うのは僣越の限りであろう。
 又、偉大なる先人や将兵諸氏の事を言う事が懼れ多いとならば、言わずともよろしい。現在の国民大衆がそれぞれの業務にセッセとたずさわりながら、どれ程の労苦をしのいでいるか、そして、どの程度の生活をしているかを見てみるがよい。
 そして、演劇人と雖も国民大衆の一人々々である。一般の国民大衆の平均生活以上の生活をしてもよい資格は無いのだ。同時に、一般の国民大衆と同程度の生活(大体六十円から百円迄位の生活)をしようとさえ思えば、どの様な演劇人でも、コツコツと演劇の仕事にはげんでさえ居れば、それがどの様に「高い」演劇であろうと、どの様に「低い」演劇であろうと、チャンと暮して行けるのだ。現に暮して行けているのだ。
 三百円も千円もの収入を得て贅沢に馴れスタア意識に毒されてしまった阿呆共が、自分で自分の「伝説」に縛られてしまい、「良い仕事のためにならば千円の月収が百円になってもよい」とは思わないで口先きだけは「良い仕事」をやると称しながら、千円の月収にかじり附いている――これを、これこそ怯懦と言う。千円の月収のある者が百円の月収のある者を見て「とてもそれでは食えない」とデマる――これを、こそこそインチキと言う。
 君は、その様な意味で怯懦であり、その様な意味でインチキであるのだ。そして君以外の苦楽座同人諸氏、それから新劇くずれ俳優の中の或る者達、それから今の世に時めいているスタア格の俳優達の殆んどすべてが、そうである。今、われわれが一丸となって戦い抜かなければならぬ未曾有の国運の中にあって、自分の坐り込んでしまった「特等席」を離れることは「良心」の名でも「高いものの」名でも「国」の名でも、いやでござると言い放っている事を意味している。殆んどそれは獅子身中の毒虫の行為だ。
 なるほど、新劇――芸術的に良心的な、その手段に於て高い演劇――の観客は、現在のところ、他の演劇の観客に較べて、非常にすくない事を僕も認める。しかし、その劇団の経営・製作・持続などがよろしきを得るならば、――と言う意味は、理想的にうまく行けばと言うのでは無くて――専門劇団として普通の平均水準まで行けばである――今わが国に専門的新劇団の三つや四つを常置存続させて行くに足る程の数の観客は存在していることを、僕は断言する。せよとあらば、その計数の概略をも示すことが出来る。
 勿論、その様な劇団には、現在映画会社その他がスタア級の俳優に払っているような高額の報酬は払えないであろう。又、それらの劇団は、その成員の一人々々に、ただ時々痙攣的に片手間的に劇団活動に参加することを許しはしないであろう。全幅的に恒常的に永続的に劇団活動をすることを命ずるであろう。
 そうすれば、それらの劇団はその成員全部に、少くとも毎月四十円から百円までの月給なり分配金なりを支給することが出来る。つまり、全員は、食える。勿論、その創立初期に於ては、又時に依って或る時期に於ては、種々の原因から赤字を出すかも知れぬ。しかし、すべての仕事には、時に依って赤字や借金は附随するものだ。赤字や借金の存在が即ち「食えない」と言うことにはならないのである。借金して食って行きながら仕事をして行くことも「食える」内なのだ。理窟ではない。事実として、そうではないか。
 いつでも、そして、いつまでも黒字ばかりでやって行ける事業や運動が世の中に在ると思うか。君の頭の中から、すべての妄想と恐迫観念のクモの巣を払い去って、事実をありのままに見るがよい。

      6

 君は更に、かつての新築地劇団その他を回想して、「食えるときめて割出した人件費を毎月捻出しなければならぬ苦しさから、やがて知らず知らずの間に針路が曲るようになった。仕事……演目の配列などに濁りが生じて来た」と言っている。
 これは僕には非常に奇怪な言葉に響く。それ自体としても奇怪であるし、特にそれを君が言うのは尚更奇怪である。奇怪で、そして、まちがっている。なぜか?
 先ず、新築地劇団その他の新劇団に、針路と名づけるのにふさわしいものが有ったか? 無かった。有るものはただ、社会と国家の実際生活から遊離し得るだけ遊離し切ったエセ知識階級の一人よがりの「芸術的良心」と「進歩的気分」とが許し得る限りの右往左往と、あれやこれやの選択と、それから、実際生活の責任と自信とからくる全く見離されたルンペンの頭が描くあれやこれやの物への無反省無計画の追随とが有るだけであった。これも言えとならば、実際の実例をあげて証拠立てることが僕に出来る。それは、なるほど「芸術方針書」などと言う紙の上には在った。また、外部に対する言葉の上だけには在った。しかし、実際に於て――つまり、その劇団の個々人と全体を実際上統制し統一するものとしての針路は無かったのである。そして、無い針路が曲り得るか?
 次に、「
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