俳優への手紙
三好十郎
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(例)18[#「18」は縦中横]
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1
丸山定夫君――
本誌〔演劇・昭18[#「18」は縦中横]〕昨年十二月号に君の書いた「答えと問い」を読んだ。その中で君は、先頃から僕が君にあてて出した手紙に就て君の考えたことを述べている。
その真率な調子に、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]僕は頭を下げた。しかもそこに書かれている事は、昨日や今日、ヒョイと思い附かれた即興的な感情では無く、永い過去から現在に至るまでの良心的俳優としての君が経験して来た事実から生み出された考え方――言って見れば、君の身体に叩き込まれた所から出ている「音」である。それは殆んど運命的な径路と時日を要して君の裡に少しずつ少しずつ蓄積され形成されて来た思想の切断面である。
僕は君のために、よろこんだ。君が、君としては珍らしくムキになって来ていることが解り、ああ丸山もいよいよボヤボヤして居れなくなって来たと思い、わが友丸山定夫の素顔を近々と見る思いがして、君に対して僕が抱いて来た永い敬愛の念を新たにしたことである。
僕の気持はうれしいと言うよりも、むしろ、ありがたいと言うに近かった。君の意見自身の是非のことではない。君のムキな態度のことである。君にこの様なムキさが失われて居ず、そしてこの様なムキさを君が持ちつづけて行ってくれるならば、それは、やがては君自身をも、それから僕をも、それからその他の演劇人達をも、より高い、より確乎とした境地へ引き上げてくれる事が出来ると思ったのだ。
願わくば、このムキな態度を持ちつづけてくれ。逃避したり、はずしたり、詭弁に[#「詭弁に」は底本では「詭辨に」]陥ちたり、自嘲に堕したりしないでくれ。君は君の文章の中で「一つの劇団の活動は永続させることが何よりも大事だ」と言っているが、そしてそれは確かに真理であるがしかし今の場合、それよりも尚一層大事なことは君自身のこの様なムキな態度が永続してくれることだと僕は思う。
2
さて、僕は近来益々「言説」の無力さ無意味さを痛感する。よしんば、その言説がどの様に正しくても、それが言説だけとして存在している限り、殆んど何の役にも立たない。場合に依って徒らに世間を騒々しくさせるだけだと言う意味で有害でさえあると思う。要は身を以て実行することにある。また、身を以て実行していれば、その余のことを、あげつらっている暇は無いのだ。
僕は劇作家だ。戯曲を書くことに、自分の貧しい力を集中すれば足りる。言いたい事があったら自分の作品で言う。自分の作品で語れなかった事、言い足りない事を、作品以外の所で言い散らして見てもそれが何になる? それは卑怯であり未練である。と同時に、どう足掻いて見ても、言い足りることにはならない。言えば、僕と雖も見る眼を持ち考える頭を持っているのだから、世上の現象の一つ一つに就て自分なりの見解は持ち合せている。時に依ると、これはチョットした達見であると自惚れてもよさそうな意見を抱くことがある。しかし、それを言って見ても何になる? その言説を即刻実践するだけの充分なる勇気と客観的な力を持たず、かつ、その言説から依って起る現実の事柄に向って身を以て処そうとするだけの充分な決意を持たぬ者が、よしんばどの様に高邁な正論を吐いたとしても、それが何になる? お国のために、何の役に立つか? 人々のために、何の役に立つか?
全体、われわれには理屈が多すぎるのだ。今われわれに必要なことは、一知半解の事に就て無責任な「批判」を吐き散らすことではなくて、信頼するに足る指導者を見出して、その者の号令を黙々として躬行することなのだ。もし万一、批判を敢えてしようとならば、口舌を以てせず身を以てすればよし。それこそ、真の批判であり、主張である。
特に、曾て過去に於て重大な思想上の過誤に陥ったことの有る自分などは、既に久しくその様な過誤を清算し、卒業し現在に於ては根本的に全く健全な地盤の上に生れ変り得ていると自ら確信しても、尚、なるべく、よけいな言説を吐くべきで無い。やむを得ざるに発する以外は、沈黙すべきである。僕はそう思っている。つまり、僕は謹慎中の人間だ。他に対してと同時に自分自らに対しても謹慎中だ。
この様な考えと、この様な考えに基いた僕の沈黙は昨日や今日はじまった事では無い。現に、君も知っているように、この五六年、僕は人に向って「言説」の口を開いたことは殆んどない。稀れに戯曲作品を発表する以外に、人さまに向って言う事など僕には無いし、又、言う資格も無い。将来とても、これは同様であろう。
だから今此処にこの手紙を書くのも、その辺のことを僕が思い返したためでは無い。僕がこの手紙でどんな事を述べても、それは相変らず無益に近いであろう事も、又、なんら事新らしい言説にも成り得ない事も僕は知っている。それを、しかし、敢えてしようとするのは、第一に、君のムキさに対して何も答えないで済して置くのは失敬だと思ったのと、これを機会に、君の提出している問題をめぐっての僕自身の「告白」をしたい慾望を僕が感じたためである。それに君から公けの場面で話しかけられたのだから、それに対し僕も公けに答える責任が多少は有るわけで、従って幾分「やむを得ざるに発した」ものであるわけだ。
いずれにしろ[#「いずれにしろ」は底本では「いづれにしろ」]、既に「言説」では無い。そのつもりで読んでくれ。失礼な言い方だけれど、ただ言説の範囲内だけで「論理的」に君の意見を叩きつぶして見せる事だけならば、僕にとっては言わば一挙手一投足の労で足る。しかし、その様なことをしても、君にとっても僕にとっても、なんの役にも立たぬ。僕が此処で述べたいのは、僕の――そして多分は君をも含めての――「告白」である。
言辞が、たまたま論争的になることがあっても、僕の本意に非ず、君よ許せ。
そこで、事の順序として――と言っても、めんどうくさいから結論から先きに言うが――
君が「答えと問い」の中で述べている意見は、根本的に全く、まちがっている。
3
「今の日本にこそ高い演劇が必要だ」と君は言っている。それは、よい。僕も全くそう信ずる。
今、われわれが真に高い演劇を生み出し得るか得ないか、又は高い演劇を生み出すための鞏固な準備をととのえ得るか得ないかは、少し大げさな言い方かも知れぬが、対英米の文化戦争で勝つか負けるかの境目を作る因子の一つになる。そして是が非でも勝たなくてはならないのだ。この様な事を僕などが今更らしく言うと人々の耳には滑稽に聞こえるかも知れぬが、そのためには、われわれは自己の職能の中で、ひたむきに努力しなければならぬことは自明だ。
君達が劇団苦楽座を結成したのも、結局は君達がそれを感じて立ちあがった姿であると僕は見た。大いに、よしと思った。さすがに丸山定夫であり、徳川夢声であり、高山徳右衛門であり、藤原鶏太であり、八田尚之であると思った。つまり君達を立ちあがらせたものは、演劇文化の「兵士」としての意識だと僕は思ったのだ。
ところが、この「兵士」達は立ちあがるや、いきなり、各自が幾分ずつ[#「幾分ずつ」は底本では「幾分づつ」]大将になろうとしはじめた。つまり、スタア意識で動きはじめた。また、この「兵士」達は、立ちあがるや、いきなり、いくらかずつ[#「いくらかずつ」は底本では「いくらかづつ」]各自の「稼業」の暇々に、そして大多数の稼業の暇々が好運にも一致した時だけ「戦さ」をしはじめた。つまり、各人が映画その他で稼ぐ暇々に芝居をすると言う事をはじめた。また、この「兵士」達は立ちあがる時に「戦死」の覚悟の代りに、どう転んでも、絶対に戦死の心配はないと言う「安心」をいくらかずつ[#「いくらかずつ」は底本では「いくらかづつ」]抱いた。つまり、苦楽座がもし失敗すれば、いつなんどきでも稼業の映画その他に舞い戻ればよいのである。
それを見ていて、僕の心には、次第に疑問が生れ出した。この様な兵士達にホントの戦さが出来るであろうか? つまり、今日本が必要としている高い演劇を末永くやって行けるだろうか? この様な「兵士」達は、あまり立派な兵士で無いのではなかろうか? つまり、こんな演劇人達には良い演劇運動を背負って行く事は出来ないのではなかろうか? ……その様な疑問である。
君達にスタア意識があり、稼業があり、暇々があり、食いはぐれがないという安心があると言う事が良い事か悪い事か僕にはわからない。
また、君達を支配しているものが、その様な個人主義(スタア意識)や道楽意識(稼業の暇々に「純粋」な仕事をすること)や利害の打算(どう転んでも食いはぐれぬと言う安心)のみであるとは僕は思わぬ。やはり君達を動かしている気持の中心は、演劇文化を豊かにする事に依って国を富ませ強くしようとする意志であると思う。また、君達の仕事は漸く始まったばかりであり、そして一つの現実的な仕事を始める際には、現在われわれの置かれている地位や条件が理想的なものでなくても、そこから出発して事を起す以外に方法は無いのであるから、現在君達の持っている地位や条件の中に含まれている矛盾をとがめ立てすることよりも、今後、君達が君達の中心的意図と善意に基いて生成して行こうとする方向を是認し激励してやる事の方が大切であることも、僕は知っている。(そして、僕がこの手紙で以てしようと志している事は、結局に於て、それである。乞う通読せよ)
しかし、そうであればあるほど、われわれは、われわれの兄弟がその中心的意図や善意を達成して行くのに、どう考えても邪魔になると思われる矛盾、場合に依っては、その中心的意図や善意を遠からずして放棄せざるを得なくなるに至るべき素因となり得る矛盾を自らの裡に持っている事に気附いたならば、それを指摘してやるだけの無慈悲さを持たなければならないのだ。ましていわんや、君の文章を以てこれを見れば、君達はその種の矛盾を剋服しようとはしていないばかりで無しに、却ってそれらをより強く掻き抱こうとしているらしい事が察知されるに於ておやである。
「今の日本にこそ高い演劇が必要だ……そのために私たちは役立ちたい」と君は言う。これは大望だ。同時に至高の発願である。よし。たとえ、その大望その発願が達しられなくても、それは問うに足らぬ。ただそれに挺身躬行すること自体の中に、われわれ演劇人が総がかりになって精進するだけの光輝と価値が存する。だのに、君達は、それと同時に一人々々スタアであり続けようとする。稼業に暇が有る時だけ、それをやろうとする。いつなんどきでも逃げ込める場所を自分一個のために留保して置くことに依り、安心しながら、これを果そうとする。果してこれが大望と発願に値いするか? 君の大望と発願は、唯単なるキャッチフレーズか口頭禅の類ではあるまいかと僕が疑うのに無理があるだろうか?
われわれは神に祈る時に、すべての持物を置き、個の心の一切を放棄し、手をすすぎ口をゆすいでこれをする。それは法式ではなくて、われわれが神に祈ろうとする心のひたむきなものが、これを自ら命ずるのだ。事の自然なのだ。そして、それでこそ神はわれわれの祈りを嘉したまう。また、僕は知っている。戦場に於ける一人の工兵が、ただ一本の橋梁を此方の岸から向うの岸に泳ぎ渡す時に、自己の心身の既往の持物の一切を放棄断絶して、死ぬとも生きるとも思わぬまでの境にまで自己を自己の任務に集中する。これも、この兵士を強うるものがあってするのでは無い。国に尽そうとする一片の心があって、これを自ら命ずるのであろうと思う。事の自然なのである。そして、それでこそ兵士は自分の任務を果し得る。また、神への祈りや、兵士の事を言わずとも、われわれが日常生活の中でも、たとえば、何事かを真に強烈に得た
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