いと望んだ時には、往々にして、その事のために前後の一切を忘れることがあるし、まして、その事に関連した利害得失を没却し尽し、又、尽してこそ真に大きな利得を得る――つまり望んだものを手に入れることが出来る。これも事の自然なのである。
そして、今「高い演劇」は君達にとっての「神」では無いのか? 高い演劇を生み出して行こうとする事は今君達にとって国に尽そうとする志ではないのか? 高い演劇を担って行きたいと思うことが今君達の真に欲していることでは無いのか?
しかも現在君達は、スタア意識も道楽意識も生活の安全保証も捨てようとしない。そこにはどんな種類の断絶も自己放棄も無い。在るものはせいぜい「映画の仕事が暇になったから、その暇をなるべく有益なことに使おう」または「映画の仕事の報酬の中から少しずつを[#「少しずつを」は底本では「少しづつを」]割いて(良心的な仕事)をしよう」と言った程度のシミッタレな「善意」だけだ。君達が払おうとしているものは君達にとって、殆んど言うに足りない程の代償である。それ程の代償で君達が購おうとしているものは「今日本が必要としている高い演劇」なのだ。虫が良過ぎると思う。あまりに虫が良過ぎる。「あれも欲しい、これも欲しい」なのだ。結局どちらかが嘘なのだ。どちらかが遊びなのだ。引いては、どちらをも嘘で遊びにしてしまおうと君達はしていることになるのだ。
金持の旦那が、自身の品位をきずつけない範囲で暇々に、自分の財産にも身体にも心にも危険で無い範囲内で、義太夫にお凝りになる。それは、よい。自由であろう。しかし、それは、どこまで行っても――たとえその旦那の義太夫修業がそれ自体としてはホントに真剣であり、その成績が水準以上になったとしても、これを道楽と言う。たとえそれが「善意」に基いていてもだ。道楽はどこまで行っても道楽なのだ。そして、道楽は世の中に有って悪いものでは無い。しかし、その旦那が、その旦那である自分の地位を捨てないままで、文楽の紋下を望んだとしたら、どうなるか? 本職の義太夫語りは怒る。怒っても、しかし、旦那が無理に紋下に坐って語ったとしたら、どうなるか? その旦那は、遠からずして、血へどを吐いて引きさがらなければならぬであろう。
君達は、その旦那だ。いや、旦那よりも更に悪い。義太夫を道楽に語りはじめようとしている本職の義太夫語りだ。即ち、芝居を道楽にやりはじめようとしている本職俳優なのだ。これを見れば本職演劇人は二重に怒る。僕が君達に対して抱く怒りは、その様な怒りである。それから又、僕が君達の前途に対して抱く心配も亦、その様な心配である。つまり、僕は君達――わが兄弟達に遠からずして血へどを吐いて引きさがらせるような事をさせたく無いのだ。
君は「道楽だと言われてもよい」と言っている。馬鹿を言うな! 君達が「今日本に必要な高い」演劇のために役立ちたいと決心して本気で立ちあがったのが真実であるならば、それが道楽だと言われてよい事があるか! 絶対によく無い! ドロボウもしないのに人から「ドロボウ」と言われてもよいのか? 謙遜と卑屈とは違う。君達は、実は、その様に謙遜らしい卑屈な言辞を以て自分達のシミッタレな根性を蔽いかくし弁解しようとしているに過ぎないのではないか?
今の日本が必要としている高い演劇を創り出し、それに役立とうと言う志は、現在の演劇人にとっては、最高にして至純なる目的である。それは、われわれが自己の持物の一切を放棄し、更に自己の心身の全部をあげて取りかかるのに値いする目的である。しかも、そうしても尚、果して達成する事の出来るか出来ぬか判らぬ位に困難な目的である。その様に光輝ある困難な目的に向って発心し発願しながら、君達は、それに向ってなにほどの代償を払おうとしているか? 全心身は勿論、払おうとはしていない。持物の全部を賭けようともしていない。ただ、君達の持物の一部分――その本業である映画その他の仕事で得た金の中から、自分の生活費を差し引いた残りの金の、そのまた一部分と、それから君達の「暇々」と、それから、君達を動かす動力としての善意では無くて君達の装飾品としての「良心」それだけだ。たったそれだけで君達は、この最高至純の目的を手に入れようとしているのだ。それは、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]愚かであり、そして、まちがっている。
4
「しかし、そうしなければ、食えない。食えなければ、良い仕事を永続的にはやれない。そして永続しない仕事は、結局、良い仕事にはならない。だから、先ず[#「先ず」は底本では「先づ」]食う心配を無くしてから、とりかかるのだ」と君は言っている。
一応もっともらしく聞こえる。それに、前にも書いたように、君には、君自身の体に叩き込んで来た、「新劇では食えなかった経験」がある。これは今、言葉の上だけで否定されただけでは、君にとっては思い直しようの無い事であろう。かつ、僕自身も亦君の言う「新劇では食えなかった経験」をして来たし、現在でも或る意味では、それを経験しつつある者の一人だ。
しかし、敢えて僕は否定する。僕は言う。それは嘘だと。まあ聞きたまえ。
それは僕が、言葉の上で否定するのでは無い。事実が、目に見える在りのままの事として否定しているのだ。まあ聞け。「食えない」と言うことを「食えなくなるであろうと想定する観念」や「食えなくなるかも知れぬ不安」や「カツカツに生きて行けるだけの貧乏」と解するのは、まちがいである。それはスコラだ。本当は「食えない」と言うことは「餓死する」ことなのだ。
そして、昔から今に至るまで、新劇――と言って悪ければ、演劇を良心的にやっていて、そのために餓死した者が一人でも居るか? 僕は知らぬ。何かをしていて、また、よしんば何をやっていても貧乏する者はいるし、又、その貧乏の果てに病死する者はいる。人間は誰に限らず一度は死ぬのだから。しかし、良心的な演劇をやっていたために、その事だけのために餓死したと言える人は一人も居ないのである。事実としてだ。君の眼を蔽うている「不安」や「恐怖」や「伝説」の色眼鏡をはずして[#「はずして」は底本では「はづして」]事実そのものを見たまえ。遠くを見る必要は無い。君自身を見たまえ。それから僕を見たまえ。過去から現在に至るまで、どんなにわれわれが演劇のために打込んでいた時でも、餓死はおろか、君も僕も、二日位飯の食えない時は有ったが、七日間飯の食えない事は無かったではないか! また、家族や友人を餓えの果てにのたれ死にさせた事は一度も無かったではないか! また、病気になっても金が無くて医者にも見て貰えないし、薬も飲めなかった事はあっても、その病気のために君も僕も倒れてしまいはしなかったではないか! 事実を見るがよい。「ひどい貧乏」のことを、そのまま食えないと言うのは言い過ぎであるし、ただの感傷である。結局は、それは嘘なんだ。そんな感傷や嘘から出発して或る事を究明しようとしたり結論を下そうとするのは、まちがいである。「でも、芝居の仕事をやって居れぬ程まで貧乏すると言う事は、結局、演劇人にとって死である。僕の言っているのは、その事だ」
と、君は言うかも知れぬ。正にそうである。そして、君が君の新劇余力論の殆んど唯一の拠り所としている理由も、これである。これまで、君の言う「善意」に出発して演劇の世界に入り、努力しても、経済的な窮乏のためにそれが続けられなくなって演劇を捨てざるを得なくなって行った人達が随分ある。その事実を僕は認める。
「だから、自分達は生活の道を他で立て……云々」と君は言う。「だから」以後を僕は認めない。ばかりでなく、その様な話の運び方は、サギを烏と言いくるめて、自分自身の虫の良い量見を弁護しようとする態度だと思う。なぜか?
この場合も、事実がこれを証拠立てる。君が挙げている、これまでの新劇団なり新劇人達が「自分達を守るためにはこれで以て食って行かなくてはならぬ」と思い、腹をきめ、真剣に挺身したことがあるか? 僕は無いと思う。いや、思うでなしに、事実無かった。
たとえば、君が実例としてあげている曾ての築地小劇場にしろ、それから新築地劇団にしろ、新協劇団にしろ、その最盛期に於てさえ、劇団全体としても成員の個々人にしても、たとえば歌舞伎の人達や新派の人達や前進座の人達や新国劇の人達、更にムーランルージュ一座やエノケンやロッパに較べてさえも、挺身の度合いは低くかった。その事実を細かに具体的に述べよとあらば述べるだけの資料に僕は事欠かぬ。一言に言って、僕をも含めて、これらの新劇団の成員は殆んど全部、金持の与太息子でなければ芸術的ルンペンであった。その観念に於ても行動に於ても、そうであった。演劇のために「真剣に」そして「持続的に」努力しているとは、どうしても言えない者達が大部分であった。口に「芸術」や「美」や「良心」や「階級」や「正義」をとなえても、それに依って自己の全生活を統一することも出来ぬはおろか、たとえば、そのためにたった一日の飯が食えなくなっても忽ち悲鳴をあげてうろたえ廻るような弱虫であり、また、たとえば、そのために守らなければならぬ稽古の時間一つ守れない者達であった。なるほど一回々々の公演の演目や稽古の点では歌舞伎や新派その他よりも「良心的」らしく見えた時もあった。しかし、その良心を持ち続けて永続して生かすことにかけては殆んど無力で怠慢であった。その他、等々、挙げれば限りが無い。しかも、この者達の挙げる「口舌」の壮大さはどうであったろう。口先きだけでは殆んど宇宙大の目的を云々しながら、実際に於ては、エノケン一座やインチキレヴューの半分の挺身もしなかったのだ。それは丁度君が現在「わが日本のために必要な高き演劇」を担うために、実は君の持っている全力量の七分の一か八分の一を出して苦楽座をやろうとしているのに似ている。
それでいて「食えない」と言う。食えないのが当然なのである。君が「食えなかった新劇団」として挙げている新築地のしていたようなやり方――エセ知識階級の持っているあらゆる高慢さとルンペンの持っているあらゆる怠慢さを以て、せいぜい一年に三回か四回の公演、しかもとぎれとぎれの手段と気分を以て行われる演劇活動を以てしては一時不完全にでも食えた方が不思議なのである。「これこれでは食えない」と言いたいのならば、一事を専念に持続的にやって見た上からにしてくれるがよい。懸命にもならないで、「食えない」などとは、片腹痛い言い草である。それはまるで不良少年がホンの時々二三日ずつ、しかも道楽的な方法で正業に従事して見て、その結果「これでは食えない」と言ってその正業そのものをくさすのに等しい。勿論、僕は、他のみを批難しているのでは無い。僕自身も一時その様な不良少年であった。君も亦そうであった。君と僕との違いは、現在、僕はその様な不良少年(青年? 又は中年?)にはなりたく無いと思っているに反して、君が尚も性こりも無く不良青年でありたいと志している点だ。即ち僕が苦楽座ならびにすべての苦楽座的出発点に決定的に反対しているのに反して君は苦楽座の出発点を極力是認し、かつ、すべての苦楽座的道楽演劇を弁護することにヤッキとなっているのだ。
全体、現在のわが日本は、非常に良い国だよ。神がかりを言っているのでは無い。又、急に「国士」にでもなった気で言っているのでは無い。又、抽象的観念的に「高級」なことを言っているのではない。誰の目にも見える即物的なありのままの事実として僕は言っているのだ。わが日本は良い国だ。見たまえ、わが国民にして極く普通の意味で忠良な人間でさえあれば、上は「演説使い」から、下はシャツのボタン穴をかがるだけの事しか出来ぬ半職人に至るまで、餓えては居ないのである。自分の仕事を、普通の意味でまじめに行っている者ならば、一人として道に餓えて倒れ死んだと言う人は居ないのだ。
ましていわんや、「今日本が必要としている高い演劇」――言葉を代えて言えば「国家的」「良心的」演劇をやろうとする者をやである。どうして
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