なのだから、その食う必要を顧慮する必要の無い苦楽座が、誰が考えても芸術的方針を歪め演目を濁らせるところの準備期間の不足や脚本の不足を我慢しながら芝居をやる必要は初めから無かったのだ。従って、苦楽座旗挙公演の、このやられ方や演目が、君達の芸術的意慾の第一義的な現われと見てよいのである。(記憶せよ、僕がこの結論にたどり附いたのは、君自身の論理に依ってである)
これから先きは、僕自身の見る眼だ。さてそれで僕の眼には、この様な芝居のやられ方が、真直ぐな方針に基いたものとはどうしても見えないし、この様な演目の配列が澄んだものとは映らないのである。むしろそれは曲った針路――と言うよりも初めからクシャクシャに曲りくねったボロクズの様な針路、早く言えば針路とは言えない針路に依るものの様に見えるし、また、それは濁った演目――と言うよりも初めからドブドロの様に濁った演目、早く言えば澄むとか濁るとか問題にならぬところの演目の様に見える。その曲り方や濁り方は、君の「食う必要のために曲った針路を取り、濁った演目」に堕した新築地劇団の方針や演目に較べても、苦楽座旗挙公演のやられ方と演目は、より曲って居り、より濁
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