言っているのだ。
なるほど、どんなにダラシの無い全体性に欠けた劇団にも、その全員又は一二の個人が、漠然とした形で、「おれ達は本来、こんな風な演目でこんな風な芝居をしたいんだ」と思う事はあり得る。そしてこの事は、普通考えられているよりも、当の劇団にとっては大事な事がらである。新築地その他の新劇団にも、それは有った。そして、結局は、その様な気分が、非常にダラシの無い現われ方と経過をとって、それらの劇団のその時その時の「やり方」や演目を決定して行った。しかし、もともと、その様な気分は緊密な鍛錬を経て来たものでは無いので、それの生んだやり方や演目が、往々にしてその劇団の経営的な必要と矛盾したり相剋したりした。言葉を換えて言えば、劇団の芸術的意図と経営的必要とが衝突した。そして或る場合には前者が勝ちを占めて後者が無視された。或る場合には後者が支配して前者が第二義とされた。そして全体を通じて見ると、後の場合の方が多かった。
君の言葉が、この現象を指して言われているものとすれば、その言い方と、それから引き出されている結論との全き誤りと悪意とを問題外にすれば――つまり君の言葉そのものは、それだけと
前へ
次へ
全66ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング