演目の配列などに濁りが生じて来た」と君は言っているが、僕は問いたい、新築地その他の劇団の演目の配列その他が澄んでいたことが有ったか? 演目の配列が澄んでいたと言うことは、それらの劇団の総意が命ずる所に第一義的に緊密に結び附いた演目の配列と言う事を指すのであるが、その様な時期がそれらの劇団に有ったか? 無かった。澄んでもいなかったものが、濁る筈は無いのである。
だから、この様な言葉で以て君がホントに言いたがっている事は、そんな事では無いのだ。実は、実際に於て君が「その劇団のやりかたに不満を抱いた」ためにサボらざるを得なかった程にダラシの無かったところの新築地劇団の、実際上は存在もしなかった「針路」や「清澄」を今更になってそれが厳然として存在していたかの様に言い作ることに依って、それらの「針路」や「清澄」さの神聖さをデッチあげ、それらの神聖さを歪め、けがすものとしての「食うと言う建前」を有害なものとして、おとしめようとしているのだ。それが君の目的なのだ。これは二重三重の陥穽である。虚妄の上に虚妄を畳み上げ、その上に更に虚妄の言葉を置いて「さあ、これが真理だ。これを拝み、これに従え」と君は
前へ
次へ
全66ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング