て。……廣島でなくなられた事は、すぐ知つたんですが、今まで、あがれませんで――」
急に、泣きだすのではないかと言う氣がした。すると私は例の、立ちあがつて外へ出て行つてしまいたくなつた。Mを失つた悲しみは、私にとつて、涙を流して泣けるような種類のものではなかつたのだ。もつと複雜で、悲しみというよりも、怒りに近い氣持だつた。……しかし青年は泣きはしなかつた。私はいくらかホッとしたが、彼はどうしたのか、それきり、だまりこんでしまつて、いくら待つてもなにも言わない。膝から一尺ぐらいの床の上に視線をやつたまま、身じろぎもせず、十分以上たつても、口を開く樣子がなかつた。なにか、わずらわしくなつて來た。
「……それで、僕になにか用があるんですか?」
彼はこちらの言葉の意味がのみこめなかつたようだつた。問い返すような目色をチョッとしたが、すぐにそれは消えて、ただポカンとこちらを見ている。私は、はじめてその時その男の目の中をのぞきこんだ。そして、なにか、ドキッとした。そんな目を私は今までほかで見たことがない。實にイヤな――と言つて、どこがどうと説明しようが無い――つまり――。最初書いたような、下等動物が追いつめられて、自分を殺そうとしている者を見まわしているような目つきになつていた。いつそんなふうに變つたのか、わからない。もしかすると變つたのでは無く、最初からそうだつたのを私が氣がつかないでいたのか?
「へえ」と、かすれ聲を出して、それから、たよりないトボケたような低いユックリした調子で「……あの、歸つて來て、こうしているんですけど……もう、どうしていいんだか、まるきり、わからなくなつて――」
そこで言葉を切つて、ニヤリと笑うようなことをした。
目の前にポカッと穴があいたような氣がした。それは、どんな復員者のどんな生ま生ましい戰場の話や復員後の暗い生活の話を具體的に聞いた時よりも、私にこたえて來た。私はだまつてしまつた。なんにも言う氣になれなかつた。急に背中がゾクゾクして、すこし吐氣がして來たのをおぼえている。窓を明るくしていた夕日の名殘りがスッとうすれて、いつの間にか室内は薄暗くなつていた。靜かな室内に時々ポタンポタンと音がするので、目をやると、彼のキチンと坐つたズボンの膝と膝の間の僅かなスキマの床板が點々とぬれている。滑稽なほど大粒な涙だつた。ボンヤリと見開いたままの異樣な目から、ダラダラと、いくらでも落ちて來た。………二人とも時間というものを忘れてしまつて、シビレたようになつていた。そこに、玄關先きから綿貫ルリの聲が響いてこなかつたら、二人はいつまでそうしていたかわからない。
「コンチワァ。ごめんください! あがつてよろしうございます、センセ? 綿貫ルリ」
ルリという語尾を投げつけるように響かせて、明るい聲だつた。それを聞いて、私はホッとした。この場のやりきれなさから助け出されたような氣がした。同時に、しかし、後になつて氣が附いたことだが、それで、この男と二人だけの空氣が打ち切られることが、なにか惜しいような氣もしたのだから、人間の心というものはヘンなものである。
3
「今日はね、先生、どうしたらいいか相談に乘つていただきたいと思つてあがつたんですの。いいえ、最初先生から、あんだけとめられたのに、自分でだまつて入つてしまつといて、今ごろになつてこんな事を言つて來るなんて、自分かつてだと思うんですけど――いえ、後悔しているんじやありませんの。あれだつて私、いろいろ勉強になるから、自分では、これでよいと思つているんです。どうせいつまでもあの劇團に居たいとは思つていないんですから。ですから、それはそれでいいんですけれど――」
綿貫ルリは室に入つて來るなり、坐りもしない内からベラベラとやりだした。小松と言う舊子爵家の次女として育つた娘で、二十二才だと言うが、身體つきや態度は、まだ少女に近い。顏だけは上品、と言うよりも堂上華族の血を引いているせいか、ほとんどろうたけ[#「ろうたけ」に傍点]た瓜ざね顏で、古く續いて淀んだ血液の疲れを見せて、白磁のようなスベリとした皮膚をしていた。それが考えもしないで口を突いて出て來る言葉を小鳥がさえずるようにしやべる。先生と言うのは私のことである。終戰後、或る人の紹介状を持つて私を訪ねて來て以來、思わない時に出しぬけにやつて來ては、ほとんどいつも、家人へ案内も乞わないでズンズン私の室に入つて來ては、勝手なことをペラペラ話して歸つて行くのだつた。いつでも、なにかしら昂奮している。それが、子供が輕い上等の酒を飮まされて醉つてはしやいでいるような具合で、見ていて快よいので、私も強いて避けなかつた。その日は、薄いピンク色のクレプデシンのワンピースの、腰の所を青いエナメルのバンドでグッとしめつけ
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