インクであつても、たいした違いは無いかのようであつた。一々こまかい反應を起せなくなつているのである。國友の「そのうち又逢おうね」という言葉が、なにか殘虐な復讐を意味していること、そして、この種の男がいつたん復讐を決心したが最後どんなことがあつてもそれは實行されるものであつて、それがどんなに無慈悲なものであるか、などを私はよく知つていた。そのために、貴島の身の上を心配する氣が起きたのでも無い。貴島や國友がどんな事になつたとしても、それが自分にとつて、なんだろう。全部がただいとわしい――言つてみれば、愚かしい三文芝居でも覗いているように白ちやけて見えたのである。ただ、事がらのわけがわからないのが、氣持が惡い。意味のわからない夢を見た後のように不快だつた。
だからその時、一方で「めんどうくさい、歸つてしまおう」という氣もしていながら、そうはしないでD商事のビルディングの方へ再び引き返して行つたのも、僅かばかりの冷たい好奇心のようなものと、とにかく綿貫ルリの事でわざわざ來たのだから、そして、今會つておかなければ又いつ貴島をとらえる事ができるかわからないと言つたような氣持――それも、それほど熱心なもので無い半ばただ義務を果すだけだと言う程度の氣持を他にしては、おもにその感覺的な違和を埋めようとする動作に過ぎなかつたようである。ほとんどなんにも考えないで私はビルディングの二階にスタスタもどつていた。酒の醉いはすつかりさめていた。
D商事の内部は相變らずシーンとして人の氣配は無かつたが、今度は電燈がついてドアのすりガラスが明るい。押すとあつけなく開いて、入つてすぐの所がチョット鍵の手に受付臺になつており奧は三間四方ぐらいの室内に四つばかりの事務テーブルが並んでいる。よくある平凡な小會社での退勤後のガランとした感じで、ただ後になつて氣がついたのだが不相應に上等の厚いジウタンが敷きつめてあるため、歩いてもまるで足音がしない。
その奧の正面のテーブルに倚り、スタンドの光に照らされてこちらを向いて、貴島がションボリとかけていた。まるで元氣が無く、グナリとして、顏なども急にしぼんだように見える。ここに戻つて來てから、ただジッとそうして椅子にかけたままでいたらしい。…………一目見て私は、輕い目まいのようなものを感じた。國友を斬つたのはこの男で無く、逆に斬られたのがこの男だつたような錯覺だ。それほど弱り果てたように沈んでいる。その感じはなにか決定的なもので、市井の傷害事件などとはつながつて行かない、もつと深いものだつた。
それはホンの一瞬の間に私の受けた感じに過ぎなかつた。しかし、いくぶんハズミのついた心持でその室へ入つて行つた私から、自分でも知らぬ間に、傷害沙汰についての差しあたりの好奇心のようなものが、いつぺんに消えてしまい、後になつても貴島がそれを言い出さないままに私の方からもそれに觸れずにしまつたのも、最初の一瞬に受けた感じのためであつたらしいのである。
貴島は眼をあげてこちらを見たが、すぐには私だということがわからないようだつた。ほとんど死んだように靜かな無感覺な顏で――そして例のあの眼つきをしてボンヤリこちらを見ていた。そのうちにヤット私を認めた。かくべつ驚ろきもしない。ごく自然にニッコリして「ああ」と言つて立つて來た。
「先日は、どうも――」
10[#「10」は縦中横]
もうイヤな眼つきは消えており、弱々しい位に柔和な動作と表情で私に椅子をすすめながら、
「二三日中に又、おたずねしようと思つていたところでした。……先日はうまく言えなかつたもんで――」
「いや…………すると、こないだは、なにか?」
「いいえ、いろんな、この、聞いていただいたり……、そいから、おたずねしたい事などあつて伺つたのが、なんにも言えなかつたもんですから――しかし今日は、よく……」私がわざわざ訪ねて來たことを言つて、うれしそうな顏である。拍子ぬけのするような素直さであつた。「すぐわかりましたか? なんしろ完全に燒けちまつた所で、こんなチッポケな建物ですから」
「ずいぶん搜した。……實は晝間一度來たんだけど誰も居ないようですね」
「そうですか。そりや……みんな出拂つていて僕も用たしに出かけていたもんですから。失敬しました。……全部で五六人しきや居ないもんですから、よくそういう事があるんです」微笑しながら言う樣子が、先程の國友とのことを萬一にも私が見たのではないかとチラリとでも思つているらしいところは無い。
「どういう仕事をしているの?」
「ここですか? 一種の請負業みたいなもんです。横濱の方に運送だとか荷役などの店を以前からやつていまして、人手が相當動かせるもんですから。そいで東京のここへ出て來て、いえ、こつちでは運送の請負だけじやありませ
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