ンカチだろう、白い物を出して國友に渡すと、身を開いて、こちらへ足を踏み出した。
「……待ちな」言いながら國友がこちらへ振り向いた。その顏が、右の額口から、眉のわきへかけ頬から耳の下あたりまで、一文字に、インクでもぶつかけられたようにベトリとすじが附いている。トツサにはそれが何だかわからなかつたが、すぐにギョッとした。斬られたばかりのキズだ。夕闇のために黒く見えるが、タラタラと血を吹いて、みるみる擴がつていた。斬つたのは、その相手の男にちがい無いが、いつの間に、どうして斬つたのか? 待ちなと言われてその男は、歩き出しかけた足をとめ、グルリと國友へ振り返つて、今までと逆の位置になつた。
「チョッと聞いておくがねえ、これは、君んとこのオヤジからそう言われて……つまり、言いつかつてした事かね?」國友の聲は落ちついていて、ふだんとチットも變つていない。むしろ、ふだんよりも語調がユックリしている。顏のキズには手もあげないままである。
「……」相手は口の中で何かつぶやいてから「いやあ、僕の一存ですよ。……チラクラして、うるさくなつた――」
「うるさいと?」
「あなたは當分、ここいらに來ないでほしいんだ」
「……すると、濱の方の仕事に手を出すなつて言う事かね?」
「僕あ、なにも知りません。どうでもいいんだ、あんた方の商賣の事は……、ただ、當分、外に出ないでいてほしいもんだから…………そのハンカチは消毒してあります」
 キズを拭けと言うのらしい。國友は、左手のハンカチへチラリと目をやつたようだつた。
「わかつたよ。そのうち、又逢おうね」
 血に染つた顏でニヤリと笑つていた。言いようの無いほど不敵に見えた。
 それきりでしばらく互いの顏を見合つていたが、やがて相手の男はチョット腰をかがめてから、身をめぐらして、私の前を通り――私は自分でも知らぬ間に、電柱のかげにかくれるようになつていた。――スタスタと、D商事のビルディングの方へ歩み去つた。それが貴島勉だつた。實は聲をハッキリ聞いた時から、それが貴島である事に氣附いていたのだが、あまり意外な光景にぶつつかつたためか、目が見ているものに意識が追いついて行かず、現に、私の前數歩の所を、例の青白い彼の横顏がスッと通り過ぎて行くのを見た後まで、まるで夢を見ているようだつた。そのくせ、一方、それほど意外なような氣もしていない。國友の前身と貴島という人間、そして、貴島のD商事は直ぐ近くにある――考え合せると、今の光景がどんな事を意味しているのかまるでわからないままで、それほど起り得ない事が起きたような氣もしなかつた。……國友は、去つて行く貴島の後姿を見ながら、宵闇の中にしばらく立つていた。どこにも昂奮しているような所は無かつた。私がこつちから見ている事には、まるで、氣附いていない。やがて、左手のハンカチを顏へ持つて行くのが見え、血を抑えながら、靜かな足取りで、繁華街の方向へコツコツと去つた。

        9

 まるで、なにかの映畫の一シーンだけを見さされたようであつた。印象は刻みつけるように強烈でありながら、――意味はわからない。二人の取りかわした言葉を、一つ一つの語調の微妙なところまで復習してみても、ハッキリしたことは、わからなかつた。ただ、ボンヤリと推察できることは、D商事の社長と國友の間に仕事の上でのモツレが有り、それについて國友がたびたびD商事へ訪ねて來ている、それがしかしD商事にとつては望ましくない事で……しかし、來させないために顏を斬るというのは? 「オヤジから言いつかつてしたのか?」と國友に問われて「うるさいから、僕が一存で」と答えた貴島の調子にウソがあるようには聞えなかつたが、いずれにしろ社長の「秘書」が社長を訪ねて來た者を斬る――そういう世界の、その黒田という社長なり、D商事という會社、國友の前身、それから斬られた後での落ちつき拂つた態度など――いつさいを含めて彼等の仕事がどんな種類のものであるかの大體の見當は附く。社會にはいつでも、ちようど無電の電波が人間の眼には見えないでも空中に無數に飛び交い張りめぐらされているように、普通の人にはまるで氣づかれないで裏の世界の網が張られている。そのような網のホンの一個所に偶然に私が觸れたのらしい。しかし貴島という男はどうしたのだろう? そのような世界の網の中に居る人間のようには思われない。
 ……私は、電柱のかげに立つたまま、かなり永いこと動けないでいた。傷害の現場を見たことでびつくりしたためでは無かつた。以前から、時によつて自分も登場者の一人として、もつと荒々しい光景を目撃したことは何度もある。それに、その當時の、言つてみれば尊重すべきものをすべて失いつくして、バラバラに分解したまま乾いてしまつたような私の心にとつては、流れたのが血であつても
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