表現できないものはあるまいと思われる造作の顏いつぱいに、ほとんど少年のような純粹なアケッパナシの悲しみを浮べながら、頬は涙でぬれていました。それを見ていて、僕も泣きたくなりました。
 Mさんは直接には、僕の童貞のことを言つているのですけれど、しかし、ホントはMさんはそんな事を言つているのでは無い。もつと深い、もつと、どうにも出來ない、われわれ全體の運命のようなものの事を言つている。愚かしい殺し合いのために、青春が浪費されている。………それなんです。それが、くやしくつて、腹だたしくつて[#「腹だたしくつて」は底本では「腹たたしくつて」]、しかたが無いのです。その氣持の中にはMさん自身の青春――それは過ぎ去つたものでありながら、しかしまだMさんの中に生きているもの。なぜなら、Mさんは年こそ中年ですが、すべての點で僕らと同じ青春を持つていた人です。――その青春を惜しむ心だつたと思います。それはMさんにとつて僕の事であると同時にMさん自身の事でした。自分も人も引つくるめて、くやしくてならないのです。しかも、今こんなふうになつて來ているのに、いくらくやしがつて見ても腹を立てて見ても、一切が無駄だ。そのために、悲しみも怒りも、持つて行きどころが無く、尚いつそう深くなる。……そのようなMさんの氣持が僕にもよくわかるのでした。……そうして、見つめ合つたまま、どれ位の時間がたつたか、僕はおぼえていない。しかし、あの瞬間を忘れない。僕は忘れることができない。僕が日本や日本人を、ハッキリと意識的に愛した瞬間が一度でも有つたとしたならば、あの瞬間でした。あの瞬間だけだつた。Mさんを通して、はじめて僕は日本を愛したのだ。Mさんは俺の師でしたが、その時から師よりももつと大きなものだつた。僕の眼であつた。僕の母であつた。Mさんはあの瞬間に僕に日本をハッキリと見せてくれた。日本人である僕自身を見せてくれた。だから、自分と言うものを産んでくれたとも言える。父が無意識のうちに僕の中に育てあげてくれたものを、Mさんは見せてくれ、知らせてくれ、意識させてくれた。――
 氣が附くと、同席者のよつぱらつた男女が、Mさんが泣いているのを見て、からかつて、笑つていました。それらを睨みまわしてMさんは
「よし! 俺にまかして置け貴島! 俺の言う通りにしろ! 言う通りにしないと、きかんぞ! いいか、俺にまかせろ! 行こう!」
 と言つて立ち上りました。それから、Mさんは急に火がついたように、あわて出されたのです。その姿は實に眞劍で、そして眞劍であればあるほどコッケイに見えました。その晩、まるで驅けるようにして、あちこちとMさんは僕を引つぱり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]されたのですが、しまいに、
「ダメだ! もつと早く、なぜ言わないんだ、バカ! しかし、そうだ、君の出征は明後日だから、まだ明日一日ある。よし! 明日、君んとこへ行くから待つていろ!」と言われて、別れて、そして、その次ぎの日の午後、又Mさんに連れだされ、方々歩きまわり、その途中であなたの所に寄り、その後、夜おそくなつて、變な所で僕はその女に逢わされたのです。

        29[#「29」は縦中横]

 その晩の自分の氣持がどんなものであつたか、今思い出そうとしても、僕自身にもハッキリしません。
 第一、Mさんを僕がどんなに尊敬していたにしろ、そんな變テコな目的(?)を持つているMさんの後からノコノコついて歩いた自分の量見がわからないのです。Mさんの調子はホントに眞劍でした。あなたも多分ごぞんじのように、あの人は、ホンのチョットした遊びをするにも、それに全身を打ちこんで無我夢中になつてやれる人でしたが、あの晩の調子と來たら何かギラギラと燃えているような具合で、イライラと、あわて切つて、僕が何か言つても耳にも入れてくれないのです。例の通り酒は入つているようでしたが、フザケたような所は無くなつていました。「もういいじやありませんかMさん! 僕あ、もういいですよ!」と僕が引きとめにかかろうものなら、眼を怒らして、
「グズグズ言うな! 生れて來たからには、人間として飮みほすべき盃だけは、全部飮みほさなきやならんのだ。だまつて、ついて來い!」
 僕をどなりつけるMさんの顏に何かホントに嚴肅と言つてもよいような影が差しているのを僕は見ました。……僕はだまつてくつついて行くしかありませんでした。
 それに、僕の中にも性慾はあるのですし、前にも書いたように、童貞を尊重したりはしていないのですから、女を知るという事に興味を持つていなかつたなどとは言えない。案外心の底の方では、Mさんの言う通りになつて見ようという氣が動いていたのかも知れません。いや、たしかに、動いていました。ウズウズと、どこか自分の身體の隅で、それを望
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