いつ!
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(走つて出て来るお雪。幼児に乳をやつてゐた所を飛出して来たと見えて、ハダシに、幼児を抱いたまゝ。その後から伝七)
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雪 兄さんつ! (駆け寄つて行きさうにするが幼児に気附いて、墓地の草の上にそれをソツと臥《ねか》せて置いてから、留吉の方へ走つて、いきなり兄の手に武者ぶりつく)兄さん、あにをするだよつ!
留吉 寄るな! もう我慢ならねえんだ。
雪 いいから放して! 兄さん!
留吉 俺あいい! 俺あ、どうでもいいんだ! お雪、此奴あお前の事を屁とも思つちや居ねえんだ! 今日と言ふ今日は、此の野郎、どうするか! こらつ! (妹を振りもぎつて、更に利助を掘割の中へ叩き倒す)こん畜生!
雪 違ふ! 違ふ! 違ふよつ! 兄さん、そりや、違ふ!
留吉 お前は引込んで居れ! これでもか!
雪 違ふと言つたら! 兄さん! 違ふつ!
留吉 違ふ? 何がだ? 何が違ふんだ?
雪 兄さんにや解らねえんだ! 私等の事あ、兄さんにや解らねえんだ! 此の人が死んだら、私も生きちや居ねえだよ! 好きなんだよ! 此の人だつて、心《しん》から私のこと好きなんだよ!
留吉 ……嘘だ! ぢや、なんで、あんなにいぢめるんだ!
雪 いぢめるんぢや無え! 仕事がうまく行かねえので、当り所が無えで、私に当るだけだつ!
留吉 へつ、何を言つてゐやがる! お前は退いてろつ! (もう既にヘロヘロになつてゐる利助を更にぶんまはしはじめる)野郎、来いつ!
雪 解らねえんだ、兄さんにや! 兄さんの馬鹿! 兄さんの馬鹿! (叫んで、留吉に向つて掴みかゝつて行く。それは既に兄を押止めると言ふ程度を通り越して、利助の為めに真剣に兄と闘ふのである。もう叫声をあげてゐる余裕も無く、無言で兄の顔を引掻く。自身も、留吉から殴られてコメカミの辺から血をにじみ出させてゐる)
留吉 そいぢや貴様――(とヒヨイと妹の凄い位の真剣さに気附いて、振上げた手をそのまゝに、黙つてしまひ、妹の顔をマヂマヂと見詰める)……。な、……なんだ。
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(永い間。――少し離れて睨み合つてゐる兄妹。お雪の眼は敵意に満ちたものである。地上にへたばつてゐる利助は勿論、轟も津村も伝七も、先程から釘附けになつた様に二人を見守つたまゝ口が出せないでゐる)
(墓地の方から静かにきこえはじめる非常に非常に良い声。お雪の幼児が泣き出したのである。それは、此の緊張した空気の中に、しみ渡つて行くように響いて来る……)
(フイとそれに気が附いたお雪、スタスタと幼児の方へ行き、草上に坐つて抱き上げ、頬ずりをしてやつてから、黙つて、白い胸をスツとはだけて、幼児に乳房をふくませる)
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雪 ……(涙の流れ出した顔。兄の方を見て)兄さんの馬鹿。……永いこと、田地のことや、お金のことばつかりに夢中になつてゐたんで、兄さんにや、人の気持がわからなくなつてしまつただ。……おゝ、よしよし。
留吉 ……でも、さきおとゝひは、あんなにお前泣いた。……それを――。
雪 (時々しやくり上げながら)……利助は兄さんよりや、私にや大事だ。……私等女の気持、兄さんにや解らねえ。……わかるもんかよ。……利助の心持だつてわかりやしねえ。仕事はうまく行かねえ、金は無し、世間からあいぢめ付けられる――気が焼けてヂレヂレするもんだで、つい私に当るだよ。悪いなあ、利助ぢや無い。利助の気持知つてゐるなあ、私だけだ。……兄さんにや解らねえ。……(幼児に乳を飲ませながら、静かに言ひ続ける。頬に涙。それを呆然として見守つてゐる留吉である)
利助 (掘割の傍にペツタリ坐つたまま)お雪!
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(留吉は先程から黙つてお雪を見詰めたまゝ、お雪と利助の言葉を聞いてゐる間に、次第に妙な気持になつて来る。何か、この場の事件と非常に良く似た事が、過去にあつた様な気がして来るのである。それが、もう少しで思ひ出せさうでゐて、思ひ出せない。こめかみを抑へてブルン、ブルンと頭を振つてゐる。果ては両掌で顔を蔽ふ。
暫く止んでゐた器械鋸の音が、奥の工場の方から、この時キユーン、キユーンと響いて来る。留吉頭をピタリと止める。……あの時の貨物列車の響と、此の鋸の音の相似)
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利助 ……(フラフラと立つて、お雪のゐる丘の方へ行きながら)お雪――。
留吉 ……(顔からヒヨイと両掌を離して見ると、お雪の方へ歩いて行く利助の姿が、あの時、お香代に助けられた自分自身の姿ではないか。電撃を受けでもしたやうにブルブルツと震へて、五六歩丘の方へ利助の後を追つて叫び声を上げる)ああ!
利助 お雪、済まねえ! 今迄、俺が悪かつた。
留吉 ……済まねえ、お雪! 俺が今迄悪かつた! お香代! 俺が悪かつた、お香代、お香代!
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(立つて居れなくて地面に坐つてしまひ、号泣する)
(先程から三人の騒ぎにドギモを抜かれてハラハラしながら見守つてゐた轟と津村と伝七が、留吉の此の様子で、気でも狂つたのかと、石の様になつてゐる。ばかりでなく、お雪も利助も留吉の様子にギヨツとする)
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雪 ……(立つて来つゝ)どうしただよ、兄さん――? どうしたの、しつかりしてよ! (兄の肩に手をかける)
留吉 ……(顔をあげて、妹を見る。はじめ少しキヨロキヨロして、次に妹の顔を穴のあく程マヂマヂと、何か非常に不思議な物を発見した様に見詰めてゐる)
雪 どうしただよ、兄さん? お香代さんと言ふのは誰?
留吉 う? ……うん。
津村 (やつと元気を取戻して)留吉君、そいでだな、斉藤の方の話は――。
利助 (お雪のコメカミのキズから血のにじんでゐるのを見付けて)あゝ、お雪、いけねえ!
雪 あんだよ? (コメカミにさはる)
利助 痛くは無えのか? どれどれ!
雪 あゝにチヨツとすりむいた。
留吉 (その妹夫婦のする事を見守つてゐたが)……利助、……俺あ悪かつた。
利助 ……? あに、いいよ兄さん。俺あ酔うと、かうだ。始終ムシヤクシヤしてゐるもんだから、酒がこじれるんだ。俺が悪い。もう此奴を殴るなあ、止めだ。
留吉 なに、殴る位、かまわん。しかし、なあ、離縁だけはしてくれるな。俺が頼む。どうか可愛がつてやつてくれ。
利助 心配かけて、済まねえ! (男泣きに泣く)兄さん、実を言やあ、俺あ、お雪が居てくれなからうもんなら、もうとうに負けちやつて、首でも縊つてゐる男だ。
留吉 ……『うまく人間の皮をかぶつた』と言つてたな、……ケダモノか。……そうかも知れねえ。人の心持もなんにも解らなかつた。
雪 兄さん、お香代さんと言ふのは、どうした人?
留吉 なあに……。俺あな、お雪、百姓するなあ、もうやめた。お前達夫婦は、どんな事があつても別々にならねえで頑張つてやれ。先刻なあ、此の児が其処の親父やおふくろの墓の上で泣いてゐるのを見たら安心――と言ふか、なんか、そいでいいやうな気がした。墓なんかどうでもいいよ。人間、お互ひに苦しからうと、みじめだらうと、かうと思つた土地で松杉を生やす事だ。(懐中から二重にも三重にも巻立てた胴巻を出して)これお前にやる。
雪 ……あんだよ?
留吉 やるから、利助に使つて貰へ。二千円ばかりある。
雪 んでも、兄さん田地買戻すんぢや無えの?
留吉 こんな風になつちまつた所で、今更タンボやつて見たつて、なんになるものか。
雪 でもさ、そんなに苦労して溜めたものを――。
留吉 いいよ。いつそ俺あ嬉しいんだ。(利助に)だがなあ、製板所の事あ、カンシヤクを起さねえで、しつかりやつてくれ。村の人達が安心して働いて行けるやうにな。
利助 済まねえ! 必ず、やるとも! ぢや此の中から千円だけ貸して貰ふ。ありがてえ! 俺あ――。
轟 利助君よ、よかつた! おめでたう!
津村 留吉君、斉藤さんの方は、どうするかねえ?
留吉 五年間の夢だ。馬鹿々々しい。ハハハハ、夢を見てゐたんだ。せつかくだが、もう止した。どんなに綺麗でも、夢は夢だ。ハハハ。
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(製板所の方から、器械鋸の音が響いて来る。
――幕。
鋸の音は残る。やがて、その音にダブつて列車の響。それが永い事続いてゐて、フト止んで――)
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[#5字下げ]5 蔦屋[#「5 蔦屋」は中見出し]
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晴れた日の午前十一時頃。例の通り黒々と煤け返つた店内ながら、掃除をした後と見えて万事が整頓されてゐる。
畳敷の上り端にポツンと置いてある柳製のカバンの真白さ。傍に赤いフロシキ包みが一つ。ズツと離れて長食卓の一番前寄りに掛けて頬杖を突いて此方を見てゐるお香代。これから他行《よそゆき》するらしく髪も結ひ、割にキチンとした装である。酒を飲んだと見えて空のコツプが肱の前にある。
遠く炭坑町らしい物音。
[#ここで字下げ終わり]
磯の声 (奥の部屋から)お香代ちやん! 棒縞のメリンスの単衣は、もうカバンに詰めたつけねえ? (タンスを動かしてゐる音)……いくら捜しても此処にや入つてゐないよ。もう詰めたの、ねえお香代ちやん! ……(言ひながら奥から出て来る。手に二三の帯や衣類を抱へてゐる。店内を見るがお香代が動かないので眼に入らず)あら、どつか行つたんだね……いいや、私が入れといてあげる。……(独言しながらカバンを開ける)
香代 ……(忘れた頃になつて)え? なんですの?
磯 なんだ、居るぢやないの。いえね、メリンスで棒縞のが有つたろ?
香代 あれは島田さんとこのお婆さんにやつてしまひましたよ、ズーツとせん。
磯 まあ、もつたい無い事するねえ! あれでも置いときや未だ結構一夏位着れるのにさ。ま、いいや。……あの、そいからね、これは私の使ひ古しでなんだけれど、締めておくれ。地味であんたにや少し可哀さうだが、物はこれでも博多なんだから。
香代 ありがたう。……そんな事、なさらなくてもいいんです。
磯 いえね、お前が今度の住替へで色々と無理をしてゐる心持あ、私にも解るつもりだよ。別に大したお世話をしてあげた訳でも無いのに、私の事を考へてくれるお前の志しを思へば、何とかもう少し恰好を附けてあげなきや済まないんだけど――。
香代 ……そんな事、ありませんよ。
磯 女世帯を張つてかうしてゐると、人の知らない苦労があるもんでね……近藤さんとの事にしたつて、私が好きこのんでの話ぢや無いものね。女なんて、一人でおつぽり出されりや、弱いもんさ。どうかね、私がお前の事を、そねんだり、……なんかしてこんな目に会はせるとだけは思つておくれで無いよ。
香代 とんでも無い、お宅からの前借は未だソツクリ残つてゐますし……それに近藤さんに金を借りたりしたんですから、私が悪いんですよ。自分で望んで他所へ行くんですから、おかみさんが気の毒がつて下さる事はありません。
磯 さう思つてくれりや、私はありがたいよ。そいで残金の百七十円は、先方へ行つて鑑札が下りれば、お前にぢかに渡してくれる話になつてんだからね。……これからお前も大変だ。港町と言やあまた此処いらとは一倍人気も荒いだらうし、お客も性の知れない人が多い。身体だけは大事にしておくれよ。(泣いてゐる)
香代 ……(これは泣くなどと言ふ気持はとうに通り過ぎてしまつてゐる)おかみさんもお大事に。
磯 そいで三吉ちやんの方は、どうして来たの?
香代 昨日いたゞいた金をソツクリ置いて来ましたから、半年一年うつちやつといても育てて呉れるでせう。先方でも割に可愛がつてくれますしね。私の身の上にもしもの事が有つたら、うちの子にしてもよいと言つてゐるんです。ハハ。
[#ここから2字下げ]
(表からより子が、買つたばかりの安物の小さいバスケツトを下げて戻つて来る)
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より たゞ今。栄町迄行つて、やつと有つた。眼が飛出るぢやないの、これで二円五十銭ですつてさ!
磯 しかし、こりやなかなか良い品ぢやないか。
より 二円にまけろと、いくら掛合つても、まけやしない。
磯 お前、香代ちやんに
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