するならば、私にはおもしろくないだろうと思う。そして、おもしろくない抵抗論が多すぎるように、私には見えます。
 一つのことを考え、押し出し、論ずるのに、それをする人の全生活や全生命を底の方まで貫いてなされるのでなければ、論そのものが、無意味であると同時に無力でありましょう。腹のタシにならないのです。それは空論です。肥え太ったブルジョアがソファによりかかりながら、飢餓についてする空論はコッケイです。しかし現に飢えている人間が、自分が飢えているという事実を抜きにして、それとは無縁のこととして、飢餓について空論を弄することだってあるのです。これは二重にコッケイだし、ミジメです。その二重のコッケイな、ミジメなことをわれわれの抵抗論者たちは、やりすぎているのではないでしょうか?
 その証拠に――証拠というのもちょっと変ですが――多くの抵抗論者の論文を読んでも、その論者の主体のあり場所がわからないことが多い。また、論の主旨は理解できても、それを一つの知恵として実践しようとすると、われわれはどうしてよいか、わからなくなる。
 一例をあげます。勇敢でしつような抵抗論者としての清水幾太郎《しみずいくたろ
前へ 次へ
全41ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング