、この手の心法をふくんでいます。老荘や道教や禅や真言、それから道元《どうげん》や日蓮《にちれん》や親鸞《しんらん》などのメトーデ、それから茶道の歴史上にあらわれている巨大な師匠たちの様式など、その、代表的なものでありましょう。
ところが私のやつは、そのような高級なものではさらさらありません。臆病のあまり、怖いのをがまんして何とかやっていく必要から、考えに考えたはてに、たどりついた方式です。方式というよりも、ばかな猿が人のくれたラッキョウの皮をはいではいではぎ終ったら、中には何もなかったので悲鳴をあげて、それからは、どんなものを人がくれても、その中には何も入っていないと、はじめから思って皮をはぎはじめようと思うにいたったというようなことです。
最初から、なんの期待もなんの望みも持たないようにして、しかし、もしかするともしかして、その中に食えるものが、ごく僅かでもあるかもしれないとの、ほのかな希望だけは捨てきれないで、それをしてみようということなのです。じつにミジメな話です。しかし私にはそうしかできないのです。ですから私の抵抗論は、最悪のことを予想したうえでの、しかしながらごく微量の希
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