党も、いまの政府からいろいろ圧迫をくわえられたりはしていても、それでも合法的に存在している政党ですから。
 それとも、あなたまたはあなたの属していられる集団の思慮は、もっと深いところにあって、将来共産党を中心にする広汎な人民戦線みたいなものを考えていて、それの結成のときに、あなたを有力な調整者のような者にするために、そのときまであなたを、わざと党の外に置いておくというわけなのでしょうか?
 さて、以上のいずれのばあいであっても、私などがそれについてトヤカクいうべきではない。ただできるならば、じっさいは右のいずれであるかを、すこしばかりハッキリ知っておきたいと私が願うだけのためです。それは、今後に予見できる日本の大きな動揺に、私が不安を感じているためだとも言えますし、そのための私なりの準備をしつつあるためだとも言えます。
 あなたは日本大衆にたいして大きな影響力を持っていられる。イザというばあいには、日本大衆の多くがあなたにみちびかれて、どこかへ歩いていくでしょう。私などもあるいはその大衆の一人かもしれません。だからあなたが、大衆をどこへみちびかれていくのかを知っておきたいし、知ることを要求する権利があると思います。また、大衆指導者には、それを知らせる義務があると思います。
 たとえば徳田球一がみちびいていこうとするところは、われわれにハッキリしている。共産主義革命です。だからそれを望む者は徳田にみちびかれていくがよい。
 みちびかれていった先に、これまでの特権階級やブルジョアや地主を断罪するための人民裁判所や、プロレタリア独裁政権のための政府や、ノルマさえ守っていれば当てがってもらえる労働者の幸福や、コルホーズや、強制労働収容所や、秘密警察の殺戮《さつりく》や拷問等々がそこにはあって、「自由の女神」や、フォード工場や、「飢える自由」や、政府の政治をどんなに否定的にでも批判する自由等々がそこにあるはずはありません。だいたい見当がつくのであります。
 ところが、あなたがみちびいていかれるであろうところがどこなのか、そこに何があるのか、どうもよくわからないのです。しかし、日本の現体勢にたいするあなたの批判は、あらゆる領域にわたって、かなりシンラツに否定的です。そこには、一つ一つの問題について、これをこう直せばこうなるから直したがよいといったふうの意見やヒントはほとんど与えられていないで、あれもこれも根こそぎまちがっていて、その根本を叩きこわさなければ問題にならぬといった式の、皮肉の味に満ちた絶望みたいなものだけが与えられていることが多い。そして、そこから先は、ポカンとなってしまって、どうしてよいかわからなくなっているようです。
 私どもが、ある一つの問題について、あなたの意見になるほどなるほどと賛成しながらついて歩いていっていると、どこまでかいくと、さてどうしてよいかわからない場所に投げだされています。だが私どもは、どうにもしないでいるわけにはいかない。そこで、どうにかしようとすると、それまであなたにみちびかれて歩いてきた論理の道筋としては、共産主義または共産党員としての実践の道以外は残されていないようにみえる。だから、なかにはその道にはいっていく人もあるでしょう。しかし、かならずしもそんな人ばかりではない。共産主義を一つの思想としては是認しながらも、実践的な体系としては肯定しえない人も多い。そういう人は、そこのところで、ちゅうちょして立ちどまり、問いかける目つきで周囲を見まわすでしょう。
 そこにあなたの姿が見つかれば問題ではありません。ところが、あなたの姿はそこにはない。人か物かの陰にかくれて見えないのかもわからないが、とにかく見つからない。その人はオヤオヤと思い、それまで自分をみちびいてきてくれたものは一種の「ポン引き」のようなものだったのかと思ったりするばあいもあるでしょう。
 私のばあいがそうです。もしあなたが実際上、共産主義を実践なさっているか、共産党員であったならば、あなたは私にそんなふうには見えず、チャンとした一人の思想家に見えるでしょう。共産主義や共産党に私が賛成できないことにかかわりなしにです。そして、一個の思想家らしい人のことを、ときどきとはいいながら、ポン引きに似たものと思うのは、私にしてもつらいことです。お願いですから、あなたがじつは、共産主義者であるか共産党員であると言ってください。すくなくとも、あなたと共産主義、または共産党の関係を聞かせてください。
 しかし、もしかすると、このような私の考えかたの全部が思いすごしかもわかりません。というのはあなたはホントの意味ではマルクシストでも何でもなく、何かの必要から、マルクシズムを採用しているだけの人かもわからない。イデオロギイとしてマルクシズムを持っているのではなくて、ただ、単に世界や社会を説明する一つの知的用具として、それを採用しているのに過ぎないのかもしれない。
 それにしては、しかし、あなたの批判の言葉は、たいがいのばあい、本気すぎ熱烈すぎるようにも思いますが、でも私は、ホントはカトリック教を信じてもいないくせに、カトリックの神を持ちだして神罰のことを言って本気に熱烈に不良青年を叱っていた人を見たことがあります。もしそうだとするならば、このばあいなんの問題もありません。あなたがただ単なる一人のソフィストにすぎないらしいというだけのことです。
 ソフィストは、どこにでもたくさんいますから、とくに問題にする必要はありません。ソフィストはスカンクに似ていて、相手になっていじくっていると、こちらの手まで臭くなりますから、手を引っこめることに私はしています。

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 清水幾太郎様
 あなたは勇敢でしつような反戦論者であり、再軍備反対論者です。いくつかの論文で、あなたは反戦と再軍備のことを、いろいろの角度から論じられています。あなたの論旨と論のやり方とは精密で熱烈です。私はことごとく大賛成でありました。私も戦争および再軍備に反対の意見を持っているからです。私はたいへんよろこび、勇気づけられ、なるべく深く読みこもうと努力しました。すると、あなたの反対論と私などの反対論とのあいだに、根本的に違うところがあるらしいという気がしてきたのです。
 私自身の平和論や再軍備反対の意見はこれまでほうぼうに書きましたから、ここにくどくどしくは書きませんが、それは私の抱いている主義や学識などから生まれてきたものではなく、もっと本能的でそして常識的なものです。要約しますと、私はどんな名や理由のもとにだれによって行われる戦争にも反対であり、いつだれがだれにむかってするどのような種類と程度の軍備にも反対です。ところが、あなたのは、それとは少し違うような気がします。そうです。「気が」するという程度で、ハッキリどこがどう違うか私にはわからないし、言えない。しかしそれにもかかわらず私にとっては、これはどうでもよいことではありません。
 私にそういう気がするのは、たぶん、つぎの二つの理由のためらしいのです。第一は、あなたの反戦論と再軍備反対論が、あなたの反米論と表裏一体をなして展開されているため。第二は、前記のようにあなたがマルクシストまたは、マルクシズムの方法を、たぶんに採用なさっている人であるためです。もちろんこの二つの理由は相互にからみあっていて切りはなしては考えられません。
 第一のことを説明します。日本は独立を回復したが、しかしその独立は条件つきのもので、アメリカとのあいだには安保条約があり、日本内地には強力な、数多くのアメリカ軍事基地がある。ということは、現実的に日本はある程度までアメリカの軍事力の下にあるということだし、同時に日本が再軍備されたうえで、アメリカまたはアメリカをふくむ自由主義諸国が、他の国へむかって、もし戦争をはじめることになれば、たぶん自然に、日本はそちら側の戦力に組みこまれることになろうということです。だから、戦争や再軍備に反対しようとする者は、実際上では、アメリカおよびアメリカの日本支配に反対せざるをえないわけです。そういう反対者もたくさんいます。私もその一人です。
 ところが、それとは違った反対も多いようです。どう違うかというと、ちょうど右を逆にした反対者です。アメリカまたはアメリカ資本主義またはアメリカ帝国主義(と彼らのいうもの)などに反対したいために、そのアメリカのイニシアチブのもとに、遂行されるかもしれない戦争と戦争準備のいっさいに反対するという反対者です。いうまでもなく、そういう反対者は、反米的イデオローグに多い。別の言葉で言うと、ソビエット圏諸国の側に立つ者です。マルクシスト、共産党員、共産党同調者などのほとんど全部がそうだと思います。
 この人たちにとっては、自由主義諸国、なかにもそれらを主導しているアメリカのすることなすことのたいがいが気に入らない。もちろん、なかでも、その軍事力が気に入らない。それはある意味で当然です。この人たちにとっては、戦争自体がイヤというよりも、また、そういうことの手まえで、今後起りうる戦争で、アメリカが、ソビエット圏諸国を攻撃したり打ち負かすことがイヤらしいのです。そして、あなたも、そのような反対者の一人に私に見えます。そして、そのことは第二の理由としてあげたあなたが、マルクシストまたはマルクシズムの採用者であることと強いつながりがあると思います。
 そして、想像します。敗戦と同時に日本を占領したのが、もしアメリカ軍でなくてソビエット軍だったら、どうだったろうと。まえの種類の反対者はどうしたであろうか? あとの種類の反対者はどうしたであろうか? いろいろのばあいと、いろいろの姿が想像できます。複雑微妙であって、いちがいには言えない。
 しかしたぶん、あとの種類の反対者たちの多くは現在しているような形や意味では、戦争や再軍備に反対してはいなかったのではないだろうかとの想像が、かなりの確率で成りたちうるような気がします。そして、あなたは、どんなふうになさっていたでしょうか? たぶんは現在のようには戦争や再軍備に反対なさってはいなかったのではないか? もしかすると、戦争と再軍備に積極的に賛成なさっていたのではないか? 失礼な想像でありますが、これはただイヤガラセをしようとの悪意にもとずいたものではなく、ハッキリした理由のあることです。その理由とは何か? じつはそのことが、第二の理由の説明になります。
 というのは、マルクシズム=共産主義の実践要項のなかには、その理論体系から押しだしてくる必然として、かならず武力が取りあげられる。共産主義の革命理論がここにあって、かしこに武力があり、革命の必要に応じて、かしこの武力がここに持ってこられるのではない。理論そのもののなかに、また理論が必然的に生みだしたものとして武力がある。武力を暴力と呼んでもよいし、それが発動したときの関係が大がかりのばあいには戦争といってもよい。ただ、それは、プロレタリア階級の解放や独裁権力確立のためのものでなければならぬとされている。
 そういう武力=暴力=戦争ならば彼らは積極的に肯定する。共産主義者がいて、武力=暴力=戦争を肯定するのでなく、彼が共産主義者であること自体が武力=戦争を肯定するということを含んでいる。そういう主義がマルクシズム=共産主義です。
 マルクシズムの原典や理論家たちの本から、経済闘争から政治闘争にわたる、階級闘争に関する理論や、いくつかの帝国主義戦争論その他の理論を引きあいに出しながら、このことを私なりに証明することはできそうに思いますが、いまはその時間もなく、またあなたにむかって、そんなことをするのは、シャカに説法と同じで、不必要なことでしよう。
 要するに、マルクス主義はあらゆる戦争に反対しうるものではなく、反対していない。むしろ逆に、ある種の戦争には積極的に賛成するもので、現にしている。彼らの各種の憲章に、つねに主格として登場するのは「労働者と農民と兵士[#「兵士」に傍点]」です。
 実際的にもマルクシ
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