何か悪い事でもしたのか?
あの人は誠実だ、正直だ、善良だ
転向したのも転々向したのも
ギリギリいっぱいに追いつめられて、やむを得ずした事で
人をだまそうと思ったり、自分一身の利益を得ようと思ったためではない
それに世間には転向者はいくらでもいる
戦争中に右翼に行って戦争に協力し
私や徹男さんや、たくさんの国民を
戦争に向って煽り立てたことにしても
あの人だけに罪が有ろうか?
煽り立てられた私たちにも半分は責任がある
いいえ、むしろ私たちのダラシのなさが
あんな指導者を生みだしたのだ
敗戦後、あの人の再転向の姿を見て
信ずべきものの一切を失い、錯乱し、虚脱して
こうしてダラクの淵に沈んだのも
すべては私がダメだったからだ、すべては私一人の問題だ
あの人をとがめる資格は私にない
とがめるならば私は私自らをとがめなければならぬ
そうだ、それはそうだ、わかっている、知っている
知っていても、どんなにそれはしっていても
私はお前さんを生かしておけないのだ。
だけど待て
そんな事をしても何になるのだ?
そうすれば徹男さんが生き返って来るのか?
又、世の中のタメにでもなるのか?
ヘ! バカな事はやめるがいい!
転向といえばおかしげに響くけれど
考え方や生き方の、時々変らぬ人がどこに居るのだ?
転向は、実は成長かもわからないのだ
そうだ、しかし、そうだとも
人間は変る、弱い、まちがいやすい
転向はしかたがない、許されてよい
ムッソリーニがいったという
青年時代に社会主義者にならぬ者は腰ぬけだ
同時に、大人になってから国家主義者にならぬ者は阿呆である
しかし、そのムッソリーニが、もう一度口のはたを拭いて
左翼になってノコノコ出て来たら、どうなるの?
転向者はそれでよいが、転々向者は許せない!
しかし美沙子
お前はあの男の思想の内容を知っているのか?
左翼の思想のどこがどんな具合になって右翼につながって行き
それが又、どこがどんなに発展して左翼に流れこんで来たのか?
して又、あの男の昔と今の思想そのものが
どんなふうに、まちがったものを含んでいるのか?
問題はホントはそこに在るのではないのか?
そうだ、しかし私はあの男の昔の思想と今の思想を知っている
すくなくとも或る所までは知っている
しかし私にはそんな思想のなかみはどうでもよい
また、ほかに転々々々々向者が何百万人いようとも知った事ではない
ただこの私、この私――緑川美沙という一人の腐れ女が
ただあの男――山田教授という一人の男といっしょには生きておれない
あの男を、かつて尊敬し、信じ、愛した気持の高さと
同じだけの深さで今あの男をケイベツし、憎み、咒っているという事だ
どんなリクツを持って来ても、どんな理由を持って来ても
これはドカンと私のうちに根をおろしてしまって動かない
もう、しかたがない。
ムックリと一週間のベッドから起き出すと
母からもらった短剣を出して見た
戦争中にトギ屋に出して研いである
突けば心臓を貫いて余りがあろう
青く澄んだ刃の奥に私の顔がうつっている
そこから覗いている眼は冷たく
静かに私の方を見ている
たしかに私は昂奮はしていない
自分でも物たりないほど落ちついていた。
お母さん、あなたのくれた懐剣で
私は人を刺すのです許してください
あなたは一番大事なものはミサオだといってこれを私にくれました
その翌日からお前さんを私はつけはじめた
お前さんのしている仕事と、毎日の動静の全部を
キレイに調べあげた。
お前さんは、たくさんの文化団体に関係したり
政治的な運動にもつながっていて
やれ学校だ講演会だで
ほとんど毎日外出する
三日に一度は夜になる
私がねらうのは、その夜だ
踊りの仕事や男たち相手の稼ぎを半分にへらしてしまい
まっ黒なスーツに紺のコートで闇にまぎれて見えぬよう
上等のラバソールの軽い靴を買って、近く寄っても足音のしないよう
お前の家の近くの駅の横の電柱のかげに立っていると
これから出かけて行く時は右の方から
家へ帰って行く時は左手の駅の出口から
駅前の果物屋の電燈の光の中に
お前さんの端正な横顔と青い背広がスッと浮ぶ
四五軒やりすごして私はつける
闇の中をツツツと追うて
一二歩のうしろに迫ってもお前は気がつかぬ
学者らしい、思想家らしい重々しさで、すこし右に傾けられたお前の頭の中には
これから出かけて行った先での講演や討論で
人々を教え説き伏せ言い負かすための方法や、
帰る時には今日一日の自分の指導や講義や交渉が
どんなふうに成功し、効果をあげたかの満足と
妻と子供がどんなに温かい御馳走と、ほほえみを用意しているかの期待などをつめこんで
スッキリと長い脚を気取らぬふうにユックリと気取って運ぶ。
暗い町の四つ角のあたりで
夜におびえて帰りを急ぐ女学生か女事務員のように
お前のわきをスレスレに小走りに通り過ぎた女が幾人もいたことに気がついたの?
雑誌の座談会や、新聞社の文化講座の帰り途の焼けビルの横ろじからツイと出て来て省線駅のガード下まで
お前のうしろに寄り添うて行った女がチョイチョイ居たのを
お前は、ただのパンパンだと思ったようね?
ほの暗い電燈の光のとどかぬ駅のプラットフォームの隅で
連れの男と熱心に何か話しているお前の背後に
紫色のカーチフを眼深かにかむって、ションボリと立っていた、くたびれたダンサアか女給が眼につかなかったの?
お前は夢にも知らないのだ
その時、私の右手がポケットの中で短剣のツカを握りしめていることを
お前の背中の左がわのどのへんが、ちょうど心臓のまんなかにあたることを
くりかえしくりかえし研究し練習して、私が知りぬいていることを
その気になりさえすれば好きな時に
ただ一突きでお前をたおす事ができることを
逃げて見ろ、あがいて見ろ!
どこへ逃げてもどんなにあがいても
そこは私の手の平の中だよ。
自由に、好きかってに、どんな事でも考えて見るがよい
どんな事でもして見るがよい
ピストルを用意してもよいし、神に祈ってもよい
みんなみんな、この私の手の平の中だよ。
三月になっても私がお前に手をおろさないのは、
猫の鼻の先にいつでも食える鼠を遊ばしておくように
すこしは楽しみたかったせいもあるが
それよりも、お前を殺そうと思った自分の気持が
ホンの一時のものかどうかを、ためしたかった
殺してしまってから、どんな意味ででも、どんなカスカにでも自分が後悔しないか?
そんな事を、短剣をお前の背中に擬しながら
自分で自分に考えさせて見たかったからだ。
それはない。たよりないほど、それはなかった
それが證拠に、お前を殺すことにきめた時から
私は食べる物がうまくなった
酒の味もおいしくなった
踊るのも唱うのも上手になったし、
男たちの腕の中でも、燃えかたが強くなった
フフ! 女のからだが、生れてはじめて、うずき走って、ふるえ出して思わず低く叫んだために
その夜の男はよろこんで私にルビーの指環をくれたのが
私がはじめてお前をつけて、短剣をお前の背中にかまえて見た晩だ。
虫ケラをひねりつぶすように私はお前をやれるだろう
今となって完全にお前の命は
私の手の平の中のオモチャだよ。
そうして三月の間お前の後をつけて歩いているうちに
私はおかしな事に気がついた
お前が外出する十度に一度ぐらいの割合で
月に一度か二度、その日の用事をたした後で
妙にお前がソワソワと落ちつきを失って
歩きながらもキョロキョロとあちらを見たり、こちらを見たりしているかと思うと
不意に自動車などに飛び乗って
それきり、どこへ行ったかわからなくなる事がある。
はじめ私は急に何かの用を思い出して、そこへ行くのだろうと思った
それにしては、なぜあんなにソワソワするのだろうとも思ったが
一度偶然にそういう時のお前をつけて見る気になって
その夜はお前が輪タクに乗ったのを幸い
私も直ぐに輪タクに飛び乗ってつけさせた
行きついた所は京橋裏の築地寄り
いや、あれはもう築地に入っている所かもしれない
川に添った裏通りの
表から見れば古いビルディングだが内部は空襲でこわれたままに
応急にガタガタと仕切って作ったアパートだった
そう、今となってはあれでも高級の部のアパートか
お前は車をおりるとキョロキョロと前後を見まわしてから
コソコソと、その建物に入って行き
一階の廊下の突き当りの左側の室のドアをノックしてから中に消えた
それを見すまして私はすぐに入って行き
ドアの前に立って耳をすますと中で女の声がして
それにお前が何か言っている
ドアのわきを見ると五号室とあって小さな名刺に田川と出ている
私はしばらくそこに立っていてからユックリ歩んで帰りかけたが
その時表から此処に住む人らしい人が入ってきた
トッサにどうしようと私は迷ったが、
見ると、直ぐわきに二階にあがる階段がある
腹をきめて、わざとユックリと落ちついた歩きかたで階段を昇った
人が見れば、二階に住んでいる誰かを訪ねて来た客に見えよう
昇りつめるとカギの手のおどり場になっていて
下の廊下からは見えないので、そこにしばらく立っていてから帰るつもりでフッと見ると
おどり場のわきの壁が焼夷弾でも受けた跡かポッカリと口を開けて
申しわけに二三枚の板が打ちつけてあるだけ
すかして見ると、その奥はまっくらで、天井裏になってるらしい
位置の関係から、それが今見た下の五号室の天井になってるようだ
頭にキラリと来るものがあって、よっぽど、その穴にもぐり込んで、天井のスキ間から
のぞいて見ようと思ったが、いくらなんでも出来なかった
そしてその晩はそのまま戻ったが
ハナから知らねばなんでもなかったのが
なまじすこしばかり知ったために、よそうと思っても思いきれぬ
しばらく経ってアパートの管理人に会って遠まわしに聞いて見ると
「五号の田川さんというのは、そうですねえ
何をなさる方だか、よくは知らないが、まあ顔役といったような方ですかな
今、刑務所に入っています
なにチョッとしたサギかなんかやったと言いますがね
奥さんはもと新橋へんの小料理屋に出ていた人で
現在は一人で暮して田川さんの帰りを待っていると言うわけだが
男の客がよく来ますよ
きまって来る人が三人ばかり居る様子で、
とにかく、まあ、うまくやっているんじゃないですかね
へへへ、そのへんの事は、よく知りません」
ゲスな中老人の口のはたのせせら笑いで
女の暮しの正体はいっぺんにわかった。
しかし、そんな女の所へ山田教授ともある人がなぜに来るのだろう?
妙に知りたい。嫉妬のようなものが私の内に起きた
完全に自分の手に握っていて
どこの隅まで知りつくしていると思っていたお前さんが
私の知らない所で、私の知らない事をしている
よし! と思った。その次ぎにお前が外に出て急にソワソワしはじめた時に、私は大急ぎでタクシイに飛び乗るや
そのアパートに先まわりして
今度は迷わぬ、まっすぐ階段を昇って行き、
そこらに人影のないのを見すまして
おどり場の穴の闇にスッともぐりこみ
ミシリとも音のせぬように用心に用心しながら天井裏の横木をさぐって
息を殺して、こうやって、しゃがみこみ、下からの光でポッと明るい
天井のスキまから下を見る
思った通りに五号室らしいが
いきなり、ギョッとする真近かさで
いぎたなく、着物のスソをチラホラと股のへんまでのぞかせたまま
こうやって、若い女が眠っている姿
これがその女か?
顔はあまり美しくはないが、太りじしの伸び伸びとした良いからだ。
女一人の部屋の隅に脱ぎちらした着物があったり
枕元には食い捨てた皿小鉢やタバコの灰皿がそのままになっている
間もなくドアにノックの音がして
女がやっと眼をさまして返事をすると
お前が入って来た。
吸いつくように息を殺してのぞいている私の眼の下で
お前が最初に何をしたか?
なんと、靴をぬいで上にあがるや、ものも言わず
眼をこすりながら、まだ横になった女の
ここからも見える、うすよごれた足の裏の土ふまずの所へ
いきなり顔を持って行き
鼻をふくらませてキッスをした。
する
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