方向にスタスタと歩いた
その川は、これまでに、たくさんの人の命を呑んだ川
そうだ、あの時私も飛びこんでもよかった
しかし不思議なことにその時はそんな事は考えつきもしなかった
生きるとか死ぬとかの、もっとズッと向うの方へ歩いていた
川は、畑や林や森かげを縫い
ポツリポツリと家々の影をうつし
秋の終りの人声と物音をひびかせて
まだ暮れきらぬ夕空を映して
たそがれの東京の町なかへ流れ入る。
流れと共に私も町なかへ入る
川も私も何も考えない、何も感じない
水がだんだん暗くなって来る
私の姿もだんだん黒くなって来る。
どのへんだったか、おぼえがない
しばらく前から聞こえていた足音が近づいて
「おい君、どうしたんだ?」
声に振り向くと、ヨレヨレの復員服と
アカづいて青黒い顔色で明らかに
復員したばかりの男だ
「病気かね?」と言う
答える気にもならず又歩き出すと
うしろからユックリとついて来ながら
「そんなにヒョロヒョロして歩いていると
たおれて川へおっこちるぜ」
それに私は答えなかった、よけいなお世話だと思っている
男は別に怒ったふうでもなく、また、それ以上馴れ馴れしく近づいて来る様子もない、野良犬のうしろから野良犬が歩くように
無関心に、ただなんとなく同じ方向へ歩いて行く
長いこと、どちらからも口はきかない
しばらくして、ゴソゴソと音がするので目をやると
男は雑嚢から何か出してそれを噛みながら歩いている
やがて「よかったら、これ食わないか」といって
コッペパンを一つ鼻の先に突出した
ムカッと嘔吐を感じて私がそれを睨んでいると
男はフフフと笑って
「遠慮しないでいいよ
これ食ったからって代をくれとは言わん
ひもじい時あ誰だって同じこったもんなあ
へへ、第一、こいつは俺にしたって、かっぱらって来たもんだ
恩に着なくたっていいよ
お互いに、敗戦国のルンペンじゃねえか。
しかし無理に食ってくれと言うんじゃない、いやかね?」と言って、
パンを引っこめそうにした
その時、どうしたわけか私は手を出して
さらうようにしてコッペパンをつかみ取ると
黙って、いきなり、それにかぶりついて食べはじめた
味もなんにもないゴリゴリのパンを。
男はべつに笑いもしないで
自分も自分のパンを噛み噛み歩き
そうして二人は暗くなった町中に入った
その夜は私はドロドロに疲れはて
ある盛り場のガードのそばの掘立小屋に泊った
男が無理にさそったからではない
彼はただ淡々と、しまいまで自分の名も言わず
私の名を聞こうともせず
引きとめようともしなかった
ただ、「行く所がなければ泊んなよ」と言うだけ
そして私はアパートへはもう帰りたくなかった。
そして男といっしょに寝て
なんの喜びも、なんの悲しみもなく
からだを彼に与えた。
彼がそれを要求したのでもなく、私が求めたのでもない
綿のようにくたびれ切った二匹の犬が
からだを寄せて寝たというだけ。
なにかがすこし痛んだだけで、快感は微塵もなかった
男もそうではなかったか
彼は五分の後にはスースーと眠ってしまい
そして翌朝私が目をさまして見ると
残りのコッペパンを一つと、金を六十円、私の枕もとに置いて、居なくなっていた
それきりあの男は私から消えてしまった
あれは、まるで風のような男だった
風は私の頬を吹きすぎて
なにもかも執着しないおだやかな冷たさで
どこかを今でも歩いている……
その次ぎの夜から私は、そのガードの下に立った
男が寄って来る時もあれば来ない時もある
男たちは私を妙な所へつれて行く
焼跡の草むらに導いて
いきなり、ねじたおす男もいる
金をくれる男もあれば、くれない男もある
中には前の男のくれた金をソックリ奪って行く男もあった
すべては私にとってどうでもよかった
頭が完全にしびれたようになっている
山田先生の書斉で話を聞いているうちに
電気がショートでもしたように頭の中を紫色の光が走って
ヒューズが切れて飛んだ!
それ以来、頭の中が、こわれてしまって
なんにも考えられなかった。
おかしなことに、そうして二カ月ばかり
いろんな男たちを相手にしている間に
どの男にもまるで興味は持っていないくせに
ホンのすこしずつだけれど、私のからだが喜こびを知って来たことだ
女のからだというものの下劣さ!
いえ、人間の肉体というもののキタナサ!
しかし、それもどうでもよい事だ
だから、それから間もなく私が
ハダカレヴュの踊り子になったのも、すべてが偶然で
なろうと思ってなったのではない
ガードの下で会った男たちの一人に
アルコール中毒のレヴュの男ダンサアくずれが居て
私のからだをつくづくと見て、ダンサアになることをすすめて
いきなりレヴュ小屋のマネエジァの所へつれて行った。
舞踊の基礎と、発声法は
G劇団にいる頃に本式に習ってある
だけどレヴュ小屋の踊りや唄は、それとは違う
ただ音楽だけはわかるので、ただそれに合せてデタラメに
踊ったり唄ったりしただけ
ところが私のその頃の、何がどうなっても同じ事と言った気持が
唄にも踊りにも投げやりな変った味をつけるのか
舞台に立ったその日から人気が立って
小屋では私をスタアあつかいにする
ダンサアくずれのアルコール男は私のことを天才だと言って
目の色を変えて世話を焼き
手を取るようにして踊りを教える
その教えかたといったら!
どんな舞踊の教科書にも書いてない
どんな教師も教えない――
第一に、人間の前で踊ると思うな
男の下腹部の前で踊れ
いや踊ってはいけない
自分のはだかを、ただ男のペニスをねらって動かせ
それだけが古往今来ダンスというものの本質だ
それに役立つことならばどんな身ぶりでも、どんな動作でもやって見ろ。
そう言って狂ったようになって教えてくれる。
この男こそ、もしかするとホントの天才かもわからないと思ったことがある。
私は踊った
三月の後には、それでけっこう一人前のソロ・ダンサアになっていた
私の暮しは楽になり、母にも金が送れるようになる
レヴュ小屋でもらう給料は僅かだが
いろいろの所からお座敷がかかる
パーテイやキャバレのアトラクションの仕事がある
あちらこちらパトロンが附いて
気が向けば、あのパトロンや、この客と
ホテルに泊り、温泉に遠出する――
間もなくレヴュ小屋のつとめはやめて
ここのクラブのソロ・ダンサアに契約し
きまった仕事はそれだけで、あとは好き勝手に飛び歩く
気が附いた時は私という者は
表はダンサアの、実は高級ピイになっていた
いいえ、それを後悔する気など、こっから先も起きなかった
かくべつの喜びも感じはせぬが
歯を食いしばって、意地になったり
深刻ぶって無理をする気は微塵もない
ただズルズルと何も思わず
ズルズルとドブドロの一番底に沈んで行き
沈んだ自分を、自分でふみにじりたかっただけ。
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(フッと我れに返ってニッコリ笑う)
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とうとう言ってしまいました
あなた方の前で趣味の悪い、
言うまいと思っていたのに、ツイ言ってしまいました。
だけど、ここまで申し上げてしまった上は身もふたもありません
クダクダと手数のかかる話はいたしますまい
そうなんです
そのままで行けば、すべてがそれで過ぎたでしょう
新興成金か何かを選んで結婚でもするか二号になるか
案外に、普通に幸福に身のおさまりをつけていたかも知れません
なぜなら、そうしていても、徹男さんのことも兄のことも
先生のことも、めったに思い出しもしなかった
ですから、それから半年あまり過ぎて
なんの気もなく通りかかった或る講堂の表に出ていた
左翼関係の講演会の立看板に
山田先生の名を見つけ出して、それを聞いて見る気にヒョイとなりさえしなければ
こういう事にはならなかった
くやんでよいか、喜こんでよいか、悲しんでよいか
いまだに私にはわからない。
切符を買って中に入ると
共産党の人がしゃべっていて
それがすむと山田先生が出る。
久しぶりの先生の顔はツヤツヤと輝いていて
なつかしいような、うらめしいような
前の人の背中のかげにかくれるように身をちぢめ
私はドキドキと先生を仰ぎ眺めてばかりいて
初めの間は先生の話がわからなかった
そのうちにだんだんわかって来た
それは終戦後、憲法の上では基本的人権が認められるようにはなったが
実際の事実の上では人権は確立されていない事を
失業者の実態や、独占外国資本の支配力などに関係させて話されていて
先生らしく、一方で学者としての冷静な数字をあげながら
それでいて美しい詩の朗読でも聞くように
人をマヒさせて一方の方へ引きずって行くところがあった
論證のしかたも言葉使いも完全に左翼のもので
鋭どく熱があった。
先生の書斉に最後に行った時に
来客たちと話していた先生は
終戦後、間がなかったせいか
言われることも、どこかしらオズオズした所が有ったが
今日の先生は既に疑いようのない左翼の理論家で
テキパキと確信に満ちていた。
私にはそれがわかった
思えば久しくこんなような言葉を聞かなかった
聞きながら私は死んだ兄の顔をマザマザと思い出していた
兄さん、兄さん、なつかしい、かわいそうな兄さん!
あなたが昔、私に教えてくれたので
今私は山田先生の話を理解することができるのです
そしてそれは私の幸福ですか、不幸ですか?
兄さん、私は泣きたくなります。
そのうちに、徹男さんの眼が私に近づいた
山田先生の声の中に徹男さんの声を聞いた
かわいそうな、恋しい徹男さん
私は今、こういう心と、こういうからだになって
あなたの兄さんの講演を聞いています
あなたの兄さんは、戦争中に、
右翼の国内革新論の講演をなすっていたのと同じような熱と火と美しい言葉で
左翼の論説をなすっています
あなたは戦争中の兄さんの理論に引きずられ、信じ切り、悔いを知らずに出征し
そして今あなたの骨は、どこかの海の底の岩かげに横たわっているの?
そうして私は、こうしてからだも心もくずれこわれて
腐れかけて坐っています
何かいうことがあった徹男さん
カタカタカタと骨と骨とを打ち合せて
私たちの前におどり出ていらっしゃい!
こうなった私と、しゃべり立てているあなたの兄さんの前に!
ちきしょうッ!
憎しみが、ギリギリと憎しみが
腹の底から突き上げて来る!
人も自分もまっくろになり
ドクンドクンと胸いっぱいに脈を打ち
耳が聞こえず、目が見えなくなったまま
どれくらいの間、私は坐っていたのだろう
気がつくと、そこらいちめん息苦しく
私は息がつけなくなり、チッソクしかけていた!
山田先生の声はまだつづいている
人民民主戦線――?
人民戦線だって?
それは、なんだ! なんのことだ?
とにかく、私は息がつけない、苦しい
助けてください、空気が欠乏して来る
兄さん、徹男さん、助けてください
いいえ、先生――なんだって?
山田先生?
そうか、山田先生、お前さんか?
だしぬけに、私の頭がシーンと静かになり、
ああ! と思った
そうだ、お前さんといっしょの空気を吸っているわけには行かないんだ私は
お前さんといっしょに呼吸してはおれないのだ私は
お前さんが生きている世の中で私は生きておれない
私は死ぬのは、まだイヤだ
お前が死ね。
…………
そして、私はあの男を殺す気になっていたのです。
それから一週間、クラブもお座敷もパトロンも、みんなことわって
アパートのベッドで毛布を頭からひっかぶり
考えに考えぬいた
先ず、人を殺すのは悪いぞと思った
しかし、悪い? 何が悪いの?
牛を殺して食って、悪いかしら?
いいや、人間は牛ではない、悪いとも!
だけど、悪くたって、それがどうしたの?
――善い悪いが私にとって――人ではない、この私にとって、善い悪いがなにかしら?
悪いことは知っている、知っていても
山田先生、お前さんは生かしておけないのだ。
しかし待てよ
こんなふうにあの男を憎んでいる私の憎しみそのものが
まちがった所から生れたものではないだろうか?
山田先生が私に対して
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