昔のぞいた三世相かで見たことがある
それともあれはダンテの神曲だつたか
どつちでもよい
死んだ人間が
トボトボと一人で渡る
暗い川だ
冷たい風と共に
俺は歩いた
死を前にひかえた人間には
あのように空白な瞬間があるのか
白紙のように
なんにも書いてない
なんのシミもない
なんの喜びもなんの悲しみもない
その上を
俺の足だけが動いた
ただ一つ
俺の胸のどこかに
輕い恐れがあつた
それは
やりそこないはしないかという不安だ
やりそこなえば
全部はおかしくもない喜劇になり終つて
人々は俺を許さないだろう
どんなことがあつても
やりそこなつてはならない
そう思つて俺は
ポケットの藥びんを握る
藥びんのガラスの冷たさが
俺の手のひらに吸いついた
…………
もうよかろう
俺は草の中に立ち止まる
近くに 二三本の木立があつて
すかして見ると
それが黒い疎林に續いているようだ
天地をこめて
夜露が降りていた
俺は草の中に坐り
藥のびんと
ウイスキーのびんを出して
膝の上に置く
びんの中のウイスキーが
チャプリとかすかな音をたてた
この藥を ウイスキーで流しこんで
しばらくジッとしていれば
ことはすむ
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