いで立っている人を唯単にそれだけの理由で真に権威あるものと信じてしまったり、十人中の九人が「こうだ」という事を内心「そうでは無い」と思ってもそう言えないばかりで無く、いつの間にか自分が「そうで無い」と思ったのがまちがいだと考えるようになったり、自分および他人が実際において進歩的であるという事がどのようなことであるという事によりも、一般から進歩的であると言われる事の方により多くの関心を持ったり、したがって又一般から「進歩的だ」と言われている者の中の退歩性やまちがいを指摘すると或る種類の人たちが直ぐに「反動だ」と言うからそれをホントの反動かと思ったり、それを逆に言うとホントの反動になってしまうことを恐れるよりも他から反動だと言われることの方をよけいに恐れたり――つづめて言えば、衰弱しきった精神カットウのさなかにあるから、事がらをチョクサイに認め、認めたものを端的に言い切ることができにくくなっている。だから、特に現在、言って見れば、時の動きの力関係の中で丘を背負って立っている宮本百合子の、又同時に彼女のこのように強固に複雑なコンプレックスの中に、多分宮本自身にもそれから或る種類の人々にも気に入りそうにはないところの「ブルジョア気質」を識別したり言い立てたりすることは困難であるし、そして実を言えば好ましいことでも無い。まったく、こうしてこれを書きながらも私は、なんという言いにくい事を、「悪趣味」に、言おうと俺はしているのだろうと我れながら不愉快に感じながら書いている。
しかし早かれおそかれ、いつかは誰かが、これは言わなければならぬ事だと思う。それに、私の目には、そう見えるのだ。そう見えることを、そういうことは、しかたの無いことであるばかりで無く、ムダな事では無い。自分勝手な例を引くならば、童話『ハダカの王様』における子供のように、王様がハダカに見えたらハダカと言い切ってもよいし、言い切った方がよい。万一、実は王様はキモノを着ていたのだったら、その子供の目は節穴だったという事になるだけだ。宮本のブルジョア気質を指摘する私の指摘にまちがいがあったら、私の目は節穴だと言われてもよかろう。その覚悟はしている。
もうすこし続ける。
4
宮本百合子という人は、これまで、かつて一度もホントの意味で「打ちくだかれ」たことの無い人のように私に見える。「打ちくだかれ」るということは、具体的現実的に絶望的状態におそわれて、そこで実際において絶望するということだ。絶望的状態におそわれたり、絶望したりすることは、誰にしても望ましいことでは無い。避けられるものならば、極力避けた方がよい。現にたいがいの人が避けようとする。しかし、いくら避けようとしても、避けられない事だってある。そして人は苦しんだり不幸になったりする。だから宮本が打ちくだかれた事が無いのは、宮本にとって幸福な、おめでたい事だ。よろこんであげればよい事であって、どうひねくって見ても彼女にケチをつける理由にはなりっこ無い事である。だから、それはそれでよい。
しかし、私はこの事に関して次のような二、三の事を考える。
第一に、そのような人が近代的な意味における芸術創作活動をする、しなければならない内的な必然性――というよりも芸術創作への衝動をどうして持ちつづけるのだろう、どこから生み出して来るのだろう? という事だ。私にはその点がよくわからない。なぜなら、私の持っている芸術及び芸術家についての知識から言っても、私自身の経験から言っても、「打ちくだかれ」た人、そしていつでも何かの意味で「打ちくだかれ」つつある人だけが、内的な必然として芸術を生むし、生まざるを得ない者だからだ。つまり、打ちくだかれた人、打ちくだかれつつある人以外の人が、なぜに芸術活動をしなければならないのか、私にはわからないからだ。もっとも、それ以外の動機や衝動から生まれる芸術も無いことは無い。それは第一に戦いに勝ってガイセンしてくるギリシャ人の口から、ひとりでに流れ出して来る「戦勝の歌」のようなもの、第二に原始人や子供が再現本能やモホウ本能や生産本能からほとんど無意識に生み出す絵や歌や句のようなもの、第三に時間と物質にめぐまれた人間が趣味的に習慣的にそして虚栄心の満足のために生み出す手芸美術や華道芸術のようなもの、第四に或る種の倫理的タイプのインテリゲンチャが、社会的・政治的なゾルレンを観念的に自分に課して、その目的に添わんがために生み出す文章芸術のようなもの。――四つとも、たしかに芸術ではある。しかし近代的な意味での芸術ではない。すくなくとも、人間の営みの場で高度の必然性や存在価値を要求し得る芸術では無い。もちろん、近代的な、そして高度の必然性や存在価値を要求し得る芸術にも、前記四つのものの要素は含まれている。しかし、支配的にドミネイトするものは、それらでは無い。自我内部の本質が外界とふれ合いつつ生き動いて行く過程――その過程の中の最もいちじるしいモメント、モメントが自我が「打ちくだかれ」るという事がらである――が、イヤオウなしに、ノッピキならず、そうせざるを得ないという形で、そうしないとその後の自我の存立が危くなったり欠如してしまったりするから、つまり極端な言い方をすれば「そうしないと生きて行けないから」生み出して行くファンクションである。それが軸だ。そして私には宮本百合子は打ちくだかれたことの無い人のように見えるので、前記四つの動機や衝動の中のどれか一つか二つ、又はその全部が組み合わされた所から小説を生みだしつづけている人のように思われる。そして、彼女の小説のすべてが、その根深い所で、ある時は修身教科書になったり、ある時は[#「ある時は」は底本では「あの時は」]戦勝の歌になったり、ある時はカッタツで勁い自由画になったり、そしてたいがいの場合に「この人を見よ」式のナルシシズムの要素を多分に含んだ自伝風のものになったり、そしてそのすべての場合に堂々たる自信に裏打ちされているのは、そのためのように思われるのである。それは、けっこうな事である。しかし、そのような芸術が、或る種類の人間たちにとって、芸術としての第一義的な興味と意義をあたえ得ないのも、やむを得ない。或る種類の人間たちと言うのは、社会にギリギリ一杯の所で生き、その中で往々にして自己の弱さと低さを痛感し、しかしそれでもできる限り強く正直に正しくそして幸福に生きようと力をつくして努め、つとめつつも往々にしてそれがうまく行かないで「打ちくだかれ」ている人間たちのことだ。そのような人間が、世の中にいっぱいいる。むしろ、今の世の中は、そのような人間たちで満ち満ちているといえよう。私もその一人だ。つまり、だから、私にとっては宮本の小説は、誰かが言った「第二芸術」なのだ。それは、或る程度まで美しい。立派である。どっちかと言えば有った方がよい。しかし無くても困らない。結局有っても無くてもよい。
第二に、宮本の政治的イデオロギイのことだ。彼女の左翼的イデオロギイは、ニセモノでは無いように私に見える。しかし、今言ったように、彼女は「打ちくだかれ」たことの無い人に見える。だから、彼女の左翼的イデオロギイは主として観念的・知性的・論理的な思惟から生れ育って来たもののようである。だから「純粋」で「精密」で「勁」い。それは、やっぱり或る程度まで貴重なものである。しかし、それはホントに純粋で精密で勁いと言えるだろうか? 疑うのは悪いけれど、そこの所が私には、よくわからない。今年の四月号の「婦人公論」に宮本顕治が「わが妻を語る」という副題で、宮本百合子のことを書いている文章の中に、この事に照応する一節がある。
「同時に、かたよった幾種類の意見(――宮本百合子についての)もある。たとえば、彼女が中流上層の小市民の娘として育ったことが、彼女の文学的社会的成長のめぐまれた条件であるかのようにいう批評家がある。しかし彼女のような階級的立場に立ち、また革命家(――宮本顕治自身のこと)の妻として苦難な道にたえるためには、出生の中ブルジョア的環境は、むしろ挫折をさそい易いマイナスの条件でもあることは常識である。それだけにより多くの努力と堅忍が[#「堅忍が」は底本では「竪忍が」]彼女の生き方には求められたのだ」
この事は、或る程度まで、たしかに、そうだ、当っている。しかし私は読みながら、悪意からで無く、笑ってしまった。なぜなら、この文章はよく読んでみると、次ぎのようにホンヤクできそうに思われたからだ。「百合子は小金持の娘に生まれたんだから、そのまま打っちゃって置けば、ブルジョア女文士かブルジョア奥さんになってしまう筈だし、それが当人に一番ラクだったろう。しかし、当人がしっかりしていたから、苦しいのをガマンして左翼になったのである」と言ったふうに。そして、たしかに、その通りにちがい無い。苦しいのをガマンして、そうなったのは、えらい。だが、もうすこし、落ちついて考えて見ようではないか。
たしかに、そうなるために宮本百合子は苦しかったにちがいない。しかし、その苦しさと言うのは、主として観念的な苦しさではなかったろうか? 実際的な、又は肉体的な苦しさは、あまり無かったのではないだろうか? もちろん私は、実際的、肉体的な苦しさの方が、観念的な苦しさよりも、より苦しいなどと言おうとしているのでもなければ、考えているのでもない。しかし、人生について「ハンモン」しながらキレイな着物を着てゴチソウを食っている金持のお嬢さんの苦しみよりも、着る物も食う物も足りないために、いかに生きるべきかに具体的に苦しんでいる貧乏な女工の苦しみの方が、もっと苦しいし、そしてホントの苦しみであると思う者である。だから、「金持の娘に生まれ育ったことが彼女の文学的社会的成長のめぐまれた条件であるかのようにいう批評家は、まちがっている」というような考え方や、「出生の中ブルジョア的環境は、むしろ挫折をさそい易いマイナスの条件である」というような断定や、「それだけにより多くの努力と堅忍が彼女の生き方に求められた」というような言い方は、マルクシストにしては珍らしい「精神家」的感傷であり、いくらかコッケイな傲慢さであって、一言に言うと、それこそ「まちがっている」と私には思われる。宮本百合子がえらいのは、わかった。しかしどういうわけで、こんなアホらしい事まで言って、えらいえらいと祭りあげる必要があるのか、私にはわからない。仮りに、貧しい家に生まれ育ち、文字通り刻苦勤労して自分の汗の代価で自ら食って来た女が、宮本百合子が到達しているような所へ到達したとするならば(もっとも、そんな女は、たいがい、宮本百合子みたいな人間にはならんだろう)、その方がズットズットえらい事だと考える方が、もっと自然なように私には思われる。また、そのような女が自己の肉体と精神の、経験と思惟の全一の中から掴み出して育て上げた政治的イデオロギーの方が、ホントは、更に純粋で更に精密で更に勁くて、ズットズット貴重だと考える方が、もっとリクツに合っているようだ。
なぜ私がこのように思うかと言うならば、コッパズカシイけれど、白状する。ゲーテが言ったという言葉(言葉そのものは、すこし違うかもしれないけれど)「赤貧の中に、深夜ただ一人で、ひときれのパンを自分の涙でしめらせて食べた事の無い人間とは、共に人生を語るにたりない」というのを、実にバカらしい程素朴に、しかし自分のこれまでの全生活の流れと深みを貫ぬいた実感として、その通りだと思いこんでいる人間で私があるからだ。そして、政治的イデオロギイも、人生の一部分である。人生は二つや三つのイデオロギイよりも大きいのだ。
だから私が、宮本百合子の堂々たる雄弁を聞いたり読んだりする位ならば、それの千倍ほどの敬意と興味と愛をもって、たとえば小林多喜二の母親のセキの音を聞きたいし、又たとえば、ケーテ・コルウィッツの一枚の版画を見たいし、又たとえば物言わぬ老百姓女のカカトのアカギレにさわってみたいと言ったふうに思うのもやむを得ない。
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