人の女が、ある男と結婚し、そして破婚するに至る話が書いてある。もちろん破婚した後に書かれたものである。かなり立派に、かなり巧みに書いてある。そして、よく読んでみると、かなりエゴイスティックに下等に、そして、かなりヘタクソに書いてあることもわかる。その立派さも巧みさも、そのエゴイスティックな下等さもヘタクソさも、私の見るところによるとブルジョア気質特有のものである。
先ず、そこでは、伸子とその夫を、共に等距離において眺め、共に長所と短所を持った人間としてどちらにも味方しないで取扱かうと言うリアリズム文学的「公平さ」が一貫している。いるらしく見える。それが立派だ。立派そうにチョット見える。そして、実はエゴイスティックで下等だ。それが立派そうに見えるだけに尚のこと下等だ。と言うのは、作者は、作品の大前提として、又作品の基調として、この夫の男を全く許しがたく否定しており、この伸子を言葉の上では否定している個所においてさえも徹底的に肯定している。つまり、この作者の目は実は公平でもなんでも無いのだ。それは、公平ゴッコだ。その関係がなかなか複雑微妙みたいな形をとっているから、ウッカリしていると、見えそこなう事だってある。
私の知っている奥さんに、自分の使っている女中を「おナベや、こうするんだよ!」といったような物言いをして、ウソもカクシも無く「専制的に」こき使う人がいる。又、もう一人の奥さんは、女中に対して「あなた」と言い、すべて用をさせるにも「人間的」に「民主的」にやる。そして実際においては前の奥さんと同じ程度に、いや非常に往々に前の奥さんよりも更に専制的にこき使う。だから前の奥さんに使われている女中の方が後の奥さんに使われている女中よりも、まだしも人間としての資格と権利を、よりたくさん認め許されており、したがってノビノビと自由で幸福であった。そんな例があった。そのどちらが良いとか悪いとかでは無い。言って見れば、どちらも鼻持ちがならない点では似たり寄ったりだ。しかしすくなくとも前の奥さんの方が正直でだけはある。後者は、二重の虚偽に立っているだけに、より手ごわく、「進化」した形であり、より尖鋭に当世風であり、つまるところ「選手的」にブルジョア的だと言えよう。
宮本の『伸子』における公平ゴッコは、彼女の持っている抜きがたいブルジョア気質の、一ひねりひねった現われであるように私には思える。その証拠を、もうすこし、作品自体から引き出してこよう。
この中の夫は、最初から、極端に言えば第一ページ目から、将来伸子との夫婦仲がうまく行きそうにも無い「必然性」を背負わされて登場する。実にたまったものでは無いのである。つまり、後半に至って伸子をジャステファイするための用意が第一ページ目からしてあるのだ。このカンジョウ高い「計画性」は、先ずブルジョア以外のものでは無い。しかも、そのような男を好きになった――すくなくとも、それと、いったんは結婚する程度には好きになった伸子がその選択と愛情においてバカでもなければ、まちがってもいなかったと思われる程度の――思われるに必要にして充分なる程度以上でもなければ以下でも無い好もしさを持った男として押し出されている。つまり、伸子がどっちに転んだとしても、非難されるのは伸子でなくてすむように、二重三重に布陣してあるのだ。それらが、恐ろしく手のこんだ近代リアリズム小説作法的「必然性」の定跡で武装してある。つまり、伸子(したがって深い所で作者)は、絶対不可侵に神聖に守られているのである。実に用意周到だ。この種の用意周到さはブルジョア的気質に一番特有である。別の言葉では、これを、ズルサという。次ぎに、以上のことからもわかるように、この伸子は(したがって、深い所で作者は)いつでも、そして遂に、彼女自身をしか愛さない。おそろしく厳格に――時によってヒステリックにモノマニアックにさえ自分自身だけを愛する。他を愛することからひきおきる自我の軟化や忘却やトウスイや自己放棄などは、ほとんどこの女には無いかのようである。その夫との愛情の成育から結婚に至った生活の中に現に多少でもそれらがあったのであったら、よしんば、それらの一切が既にくずれこわれてしまって、その全体を否定的にしか振り返り得ない回想の中でさえも、それらは浮びあがって来るのが自然だし、浮びあがって来れば、この作品のそれにあたる個所々々に、無意識にさえもそれらの後味がにじみだしてくるのが自然だろう。それが、ほとんど無い。すくなくとも、私には、感じられなかった。伸子と夫との夫婦関係は、主として、ただ、伸子という女が、より大きな人格になるために、どうしても通過しなければならなかった煉獄または修養場のようなものとして設定されているきりである。夫は、ただ、伸子を、よりよいウドンに作りあげるために使われるノシボウみたいに持ち出されているきりだ。実際において、こんな事があったのだろうか? 私にはほとんど信じられない。ほとんど信じられないけれども、やっぱりこんな事があったのだろう。と思う他に、どのように思う手がかりもわれわれには与えられていないから、しかたが無い。とにかく、この伸子の厳酷なエゴイズムと、それを結局において徹底的に是認している作者の態度と、共にブルジョア気質の一特色だと私は思った。
3
次ぎに、その生活感情と表現における「好み」や「趣味性」や「習慣」という点でもこの作家が強くブルジョア気質である証拠であると私に思われる個所や要素を、此の作品の中に、無数に指摘することができる。その例をただ一つだけ。作中、終りに近く逃げ去って行きかけている伸子をなんとかしてつなぎとめようと焦慮した夫が、泣いて迫りながら「まだあなたは私を愛している?」と言って伸子に抱きつく所がある。それが、[#ここから横組み]“Do you still love me ?”[#ここで横組み終わり]と書いてある。そこの所を読んでいて、私はゾーッと総毛立ち、ムシズが走って、しばらく、とまらなかった。そしていろいろに考えてみた。第一に考えたことは、作者は、これによって、この男の異様に強直し、病的に西洋化した人柄を描いて、それに対して伸子の感じている嫌悪又は違和の実感を読者にまで移入しようと思ったためだろうかと言うことであった。第二に考えたことは、しかしそうならば、そのような人柄の男を、すくなくともその前には結婚するに至る程度には「愛した」伸子がいるのだが、するとその伸子はどういう人間であった事になるだろう? なぜなら、伸子は何からも強制されたり、ハメこまれて、この男と結婚したのでは無く自ら選んでそうなったのであり、又この男の性質が結婚後、急にそのようなものに変る筈は無いだろうし、事実変ったようには書いて無い。第三に考えたことは、もしかすると作者は実際その時にその男がそういう英語で言った事をおぼえていて、それをただ単純に書き写したに過ぎないのかもしれないという事だ。そして、もしそうならば、このような異様さや「ハクライ」が、この作者にとっては別に異様にも「ハクライ」にも感じられない位の日常茶飯になっているからであろう。ということは、そのような作者の状態そのものが異様で「ハクライ」だからだろうと思われる。以上三通りに考えてみた。そして、第一のように考えても第二のように考えても第三のように考えても、そのいずれもが、非常に強くハッキリとブルジョア的な「好み」と「趣味性」と「習慣」を現わしている事がらだと思った。
次に、この作者がこの作品の中でトギすましている冷酷さ。全く無反省な敵本主義的な冷酷さが、私には強い印象を与える。実にそれは小気味が良い位のものである。この伸子やこの作者が無反省であるなどと言えば、人はチョット変に思うかも知れぬ。しかし、よく読んでみようではないか。なるほど、伸子も作者も、あらゆる個所でいろいろの反省をしている。又は、しているらしく見える。しかしそれは、いつでも伸子の立場を根本的には危くしない範囲内でのみなされている反省である。だから、それはホントは反省ではない。ばかりでは無い、逆にそれらは「兇器」になっている。というのは、とにかく形の上では伸子はムヤミに「反省的」な人間として描かれており、その伸子に相対する夫は珍らしく「無反省的」な――というよりも精神的にひどい盲点を持った人間として描かれているために、読者の目の前でキズを受けるのは、いつでも夫であり、とくに扱われている問題の性質上しまいに行くにしたがって、この夫は完膚無きまでに手キズを負わされてくる。その手段と経過と結末は、二重三重に念入りで、ほとんど残酷といってもよい位である。それはダムダム弾式の残酷さだ。入り口は小さく、それとなく見えるが内臓をズタズタに引裂く。むしろ、この作品が、たとえば「別れたる妻が別れたる夫に送る手紙」と言ったふうの形と態度で書かれ、その中でその妻が直接的に夫の非を鳴らし、悪をあばき、嫌悪と憎悪を叩きつけた方が、まだしも、相手の男を傷つける事がこれよりもすくないであろうと思われる。これは冷酷というものである。そしてこの冷酷さは近代的リアリズム小説作法が命じている冷酷さとはちがう。近代的リアリズム小説作法の命じている冷酷さは、作中の人物のことごとくを、ホントに等距離に置いて、同時に突き離して見るという事である。『伸子』においては、そうなってはいない。これは、ただ単に非人間的なまでに念入りにエゴイスティックな、二重にマキアヴェリ風な冷酷さである。そしてそれはもちろん、ブルジョア気質のチョウコウの一つだ。
チョウコウは、まだ他にも有るが、あまり長くなるから、ここには書かぬ。私が宮本百合子をブルジョア気質の作家だと思う理由の説明としては、さしあたり、これ位で充分であろうと思う。そして、ここでは便宜上、『伸子』という作品一つだけを取り上げて説明したのであるが、しかし、以上あげたような特色は、多かれ少なかれ、又、場合によっては濃かったり薄かったり、裏返されたりして、精巧なヴァリエーションを付けられて、他のおおかたの作品に共通して現われている。『伸子』がそうであるように、宮本の作品の大部分が自伝的要素を多く持っているから、このことを認めるのは、それほど困難では無い。ただし、実は、それだけに又、それら全作品に現われているこれらの特色やチョウコウは、彼女の政治的イデオロギイ(それはたしかに、それ自体としては、かなり尖鋭にタンレンされたものである事は事実のようである)や、彼女のリアリズム小説家としての創作技術(これまたたしかに、それ自体としては、かなり高度にエラポレイトされたものであることを、認めないわけには行かない)や、彼女の人間としての重厚さ(――人は彼女について、この点をあまり言わないが、私はこれを彼女の持っているもののなかで、ほとんど最高に貴重な資質だと思う。重厚さと言うのを、「シブトサ」と言ってもよい。「保持力」と言ってもよい。「強健な生命力」と言ってもよかろう。あらゆる意味でウスッペラで無いことだ。率直で、シッカリと堂々として、ネバリのあることだ。――そして、もちろん、おもしろい事に、この重厚さもブルジョア気質の重要な性属――すくなくとも、オーソドックスなブルジョア的出生と生活と教養の中からオトナになって来た人間に概して特有な属性であることを見おとしてはならぬ。――これで、私が「ブルジョア的」という語を、唯単に一面的に否定的な意味にばかり使っているのでは無いという事が、ハッキリわかってもらえたろうと思う)――などと、非常に強固に複雑に組み合わされているために、それだけを明瞭な形で認めるのは、別の意味で、かなり困難だとも言える。それに、われわれ近代の――とくに現在の日本のインテリゲンチャは、いろいろの種類の被サイミン性や強迫観念やオクビョウさや雷同性などに深く犯されていて、たとえば、大きな声でシャベル人の方が小さな声でシャベル人よりもえらいのだと思いこんだり、権威あるもののように堂々とたじろがな
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