恐怖の季節
三好十郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)背骨《バックボーン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]
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大インテリ作家
「演劇に関するエッセイを書いてください」
「おことわりします。演劇について論評したりする興味を失っていますから」
「それなら、文化や文芸などについてのエッセイはどうですか?」
「しかし、つまらんですよ、私の書くものなど。私は、単純な言いかたでしかモノの言えない人間です。今の雑誌などでは、単純なわかりやすいモノの言いかたをすると、人がバカにしたり、ビックリしたりするでしょうから。バカにされるのは私の方ですから、かまいませんが、ビックリするのは、人さまですから、やめにしたほうがよいでしょう」
「それはそうです。実際、今の雑誌の論文類は、書きかたがむずかしすぎます。われわれも、よく執筆者にやさしく書いてくれるように言っているんですが、なおりません。実際われわれ自身が読んでもよくのみこめないような論文などを雑誌にのせる時には、読者への責任という点で考えこまざるを得ない時があります。ですから、いいじゃないですか、その単純なところで書いてください」
「でよければ、書きます。しかし一カ月だけなら、イヤです。悪口も書きますから、一回コッキリで書くと、イタチの最後ッペみたいになって、卑怯でもあるし、言いたりないし、それに私の本意にも添わぬことになりますから、五、六カ月間、私の好き自由なことを書かせてくださるなら書きましょう」
「けっこうです。で、どんな事を書いてくださいます?」
「この十年あまり、ぼくらは、いろんな物を食わされて来ました。あまり食いたくないものも、食わされて来ました。すこしちがった意味で、現在もそうです。胃の腑が妙なふうになっています。なんとかしないと、気分が悪いし、カラダのためにも良くない。それには、吐くのが一番だろうと思います。いきおい、私の書くことは、ヘドないしは、ヘド的になりますよ。どうせキレイなものではない。ただ吐きっぱなしにはしたくありません。吐いた物の中にも、もう一度洗って煮て噛んで、のみこんで消化すれば滋養になるものが、まじっているかも知れない。そんなものが有ったら、ヘドの中をかき捜し拾いあげて、食います。今のぼくらの身分では、きたないなどとは言ってはおれません。つまり、こうなんです。ぼくらは、この十年二十年を虫のせいや、カンのせいで生きて来たのではない。それぞれ、セイいっぱいにやって来たのです。その中に、取りかえしのつかない、否定的な事がらが、どんなに充満していたとしても――事実充満していましたが――それを否定するあまり、また、すべての否定に附きものであるところの感傷的、英雄主義に酔って、この十年二十年の内容の全部――つまり、ぼくらにとって肯定的な事がらをも含んでいる実体――と言うよりも、ぼくらの十年二十年のイノチそのものを、全部的に否定し去るほど、私は淡白ではないのです。すべての人も、それほど淡白でないほうがよいのです。ホッテントットにとって存在しているような意味では『奇蹟』は、ぼくらには存在していません。もし、これから先き、ぼくらが進歩し得るものならば、ぼくらの過去十年二十年および現在の中に、なにかの形でその進歩の種か芽かモメントかバネかが存在していない筈はないでしょう。また、もし、ぼくらが世界人としての場を要求し得るほど育つことができるものならば、この十年二十年および現在の日本的な場の中に、その世界人としての資格の土台のひとかけら位が、どうして見つけ出せないわけがあろうかと思うのです。……とにかく、私は、食いさがって行ってみます。仕事の性質上、吐剤は悪口が多くなります。悪口を吐くと、人から憎まれます。憎まれるのは私も好みません。さいわい、私は文壇づきあいを全くしない人間だし、どんな種類の党派にもぞくしていない人間だから、文士たちから憎まれてもかまわないようなものの、気が弱いから、気分的に、イヤなんです。しかし、ある程度までそれも、やむをえないでしょう。それに、読んでもらえば、たいがいの人たちにわかるだろうと思いますが、私は、人にばかりヘドを吐きかけて自身に対しては吐きかけまいとするのではない。ヘタをすると、一番の悪臭を放つやつを――さらに悪くすると血ヘドなどの混っているやつを、自身の頭から吐きかける危険が無くは無いやりかたでやるのですから、それに免じてあまりに強くは私を憎まないでほしい。しかし、どうしても憎まざるを得ないならば憎みなさい。イザとなれば私にしても、或る程度までの憎しみに耐えることができる。それに、なんにも無いよりは、憎しみでさえ、有ったほうがよいのだ。むしろ、今のぼくらの空気の中には、サッカリン式の『愛情』や『善意』が有りすぎる」
まず最初に、私は、私のたいへん尊敬している三人の文学者に吐きちらす。それは広津和郎と志賀直哉と武者小路実篤である。
この三人が、大インテリであるかどうかについては問題があろう。だが今の日本の文学者の中から大インテリとしての質を持った者、または持ち得るものの二、三人を拾うとなれば、ここらではないかと思う。
大インテリとは、すべての党派性と地方性から独立しており、そして、すべての人間の運命に一番近く立っているものの事である。そして、他のどんなものからも支えられずに、自らの力で立っているものの事である。ロマン・ローランがそうであった。ジイドがそうだ。トマス・マンがそうだ。ショウがそうだ。アインシュタインがそうだ。もちろん人類にとっても一民族にとっても代表的な貴重な個性である。ジイドの「今後の世界はホンの二人か三人の人間によって救われるであろう」という言葉の、その二人か三人というのが、これにあたるかどうか、わからない。しかし、いずれにしろ、それに近いものであろう。
そして私の分類に従って言うならば、大インテリとは、サイミン術にかかりにくい性質を持った人間だ。そして、コンミューニズムの端からファシズムの端に至るあらゆる種類の政治的プリンシプルが、現実的にデスポティズムの形をとった場合には、すべてサイミン術になる。そしてなにかの意味でデスポティズムの形をとらぬ政治的プリンシプルは有り得ない。だから、大インテリというのは、結局は、常に政治と闘う者のことである。そして、サイミン術や政治と闘う道具として、彼自身の、そして彼自身だけのエイ智以外には、なんにも持っていないし、持とうとしない。目の中にウツバリを持たぬと同時に、手に武器をも持たぬ。群集を愛すれば愛するほど、群集の動きから一人離れ、醒め、孤立する。せざるを得ぬ。
広津や志賀や武者小路が、それぞれの特性を持ちながら、共通して右のような傾向を持っていることは、この三人の歩いて来た道と仕事の内容を思いだしてみればわかる。また、永井荷風や谷崎潤一郎や宇野浩二や里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]などとくらべて見れば、いっそうハッキリする。永井や谷崎や宇野や里見などは「文士」だ。広津や志賀や武者小路は文士だけではない。文士からはみだしている。はみだした所で、彼等は多くの人々の運命を背負っている。多くの人々の運命のことを忘れようとしても忘れることができない。「世が病め」ば、彼等も病む。血がつながっているのである。それでいて「醒め」ている。不幸だ、それだけに。すくなくとも、苦しい。この十年間――日本が戦争をはじめ、続け、敗け、そして現在こんなふうになっているこの十年間、さぞ苦しかったろう。お礼を言わなければならぬ、それに対しては。しかし、それだけにまた、今後についての要求も、この人たちに対して強くならざるを得ない。今までの十年間は、十年コッキリで終りになったのではない。つづいている。そして、その中で、ぼくらは、この人たちの生きて行く姿や仕事を見つめつづけて、それらを意識的、無意識的に自分たちの指針にしたり、示唆にしたり、すくなくとも、一つのよりどころとしたり、一つの刺戟としたりしようとしている。だから、モーロクしてもらっては、困るのだ。永井や谷崎や里見などは「芸道」のザブトンの上でウトウトと眠らせておけばよい。大インテリには、ザブトンの上でウトウトしたりする権利は無い。灰になるまで、後継者からスネをかじられることをカクゴしてもらわなければならぬ。
私も、ひとかじりずつ、かじって見る。
まず広津和郎。なんというすぐれた神経組織だろう。それがクタクタに疲れている。そして、疲れたために強ジンになった。皮がナメされて強ジンになるように。これは単に「頭が良い」などという程度のことでは無い。頭の良さならタカが知れている。しかし神経の正常さと精密さにかけては、ザラにあるシロモノでは無い。それが、しかし、どうして、小説を書かせると、こんなにマズイのか? いや、マズイだけならよい。どうしてこんなに気のはいらない――むずかしく言えば彼自身にとって第一義的にはほとんど意味の無い小説を書くのだろう? いや、言いかたの順序が逆になった。広津の書く感想文、とくに人間についての印象記などは立派だ。このあいだ読んだ牧野信一との交友録など、目も筆も冴えかえったものであった。牧野信一を描いて、あれほど的確で深い文章を私は他に読んだことが無い。これはホンの一例で、広津の書くヒューマン・ドキュメントは、ことごとく一流のものだ。それが、おそろしくツマラヌ小説を書く。ヘンだ。実は彼のドキュメントや感想文の方が、あらゆる意味で、ホントの小説なのに。ドキュメントや感想を彼は燃えて書いている。彼の全人間のトップの所で書いている。小説を書く時には水を割る。彼のうちのカスで書いている。そして、そのドキュメントや感想を書いている時の書きかた――素材の現実と自分とのそのような関係こそ、ホントの小説の書きかたであることを、彼ほどの人が知らぬ筈は無い。盲点か? それもおかしい。すると、彼ほどの人でも、例の「自身に関する事以外のことはよく見えるが、自身のことだけは見えない」[#「自身のことだけは見えない」」は底本では「自身のことだけは見えない」]という凡夫の法則をまぬがれるわけには行かないのか? いや、いや、彼の神経がそれを見のがす筈は無い。知っているのだ。知ってやっているのだ。すると「生活のため」という理由だけしか無い。だとすると、しかたが無い。生活はノッピキのならぬものだ。それはそれでよい。誰にとがめだてができるだろう。ただ、理由がノッピキが有ろうと無かろうと、そういう事をしている広津自身の内容は、いつでも真っ二つに割れていはしまいか? いつでも、あれやこれやに分裂していはしまいか? そして、いつでも、一方が一方を否定したりケイベツしたりしていはしまいか? そして、そのような分裂が、いつでも彼を或る種の地獄におとしいれているように私に見える。自業自得だ。それに、その中にガマンして住んでおれる程度の地獄である。同情しなくともよかろう。ただ、広津を一個の大インテリとして眺めようとすると、その分裂がジャマになる。「小説」を彼の手から叩きおとしてやりたくなる。しかも、「小説」を叩きおとされた広津こそ、ホントの意味での作家なのだから、なおさらである。「じゃ、どうして食えばいいのだ?」と問われても、そんな事は知らぬ。そんな事は問題にならぬ。問題は、われわれが広津のなかに一人の大インテリを、純粋に持つことができるかどうかという事だ。彼自身にとっていかがわしい関係にある小説などを書きちらして自身に水を割りながら「中ぐらい」に暮している大インテリを見るほうがよいか、たとえばバタヤをかせぎながらでも自身を一本にしている大インテリを見るほうがありがたいかということである。つまり、他の事を顧慮している暇が無いほどに、われわれの間に大インテリを持ちたいという希望は
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