切実なものであるということである。
次ぎに志賀直哉。
半未開国民のわれわれの間では、ざんねんながら、いろいろの事や物が、すこしユダンをしていると、すぐに伝説になったり偶像になったりタブウになったりする。小説における志賀がそうだ。
志賀の小説は一級品だ。私など、ちかごろ雑誌などにのっている戦後派作家や「肉体派」作家たちの半煮えめしのような小説を三つ四つ読んで、ダラケたような気もちになった後では、口なおしによく志賀や葛西善蔵の小説を引っぱり出して読む。良いことは、わかりきっている。しかし志賀を伝説にしたり偶像にしたりタブウにしたりするのは、まだ惜しい。志賀の小説は、まだ生きている。そのプラスとマイナスは、まだ充分に計量されてはいない。そこには、日本の小説における或る一つの行きかたのヨリドコロみたいなものが有るばかりでなく、日本人の物の考えかた掴みかた生きかたの原型のようなものがドッシリと据えられているのだが、それらが、まだ充分に噛み分けられているとは言えない。われわれは今、目の先きに多量に生産され並べたてられている小説類に目をくたびれさせることをしばらくやめて、志賀小説ならびに志賀を、もうすこし調べ捜し、イタブリゆすってみる責任がある。日本では作家が六十歳ぐらいになると「隠居」になってしまう習慣がある。現に志賀がすこしそれになりかけている。そしてその理由として、すぐに日本人的性格や肉体的劣勢が持ち出される。バカげている。そんな事があるものか。百パーセント日本人富岡鉄斎は九十歳近くまでホントの絵を描いている。ヨーロッパ人よりも日本人が肉体的におとっていると言っても、日本人の二倍のエネルギイをヨーロッパ人が持っている証拠は無いのだ。それが「隠居」になりやすいのは、当人にも責任があるが、実はなかば以上ハタに責任がある。ハタがすぐに伝説・偶像・タブウ化するのがそれだ。作家などというものは、死んでしまってから隠居すればたくさんだ。七十になろうと八十になろうと、血なまぐさい第一線に引っぱり出しておいて、踏んだりけったりして、さしつかえの無いものだ。当人が悲鳴をあげようと、かまわない。もともと、そのような無慈悲な仕事であり、道なのだ。当人がそれを承知ではじめた事ではないか。敬老主義的習慣は養老院だけにあればたくさんである。
ところで、志賀が、終戦後、間の無いころ、たしか新聞紙上で、特攻隊くずれの青年がゴロツキになったりドロボウになったりしている事を、たいへんはげしい言葉でフンガイしたことがある。私はビックリした。志賀らしくないと思った。その次ぎに、しかし、いかにも志賀らしくあるとも思った。どちらに思っても私はゲッソリした。そして志賀を憎んだ。今でもその点では憎んでいる。
志賀の意見の出どころが、そんなにまちがったもので無いことはわかった。意見そのものも、まちがっていたとは思えない。特攻隊くずれであろうと何であろうとゴロツキやドロボウは悪い。それはそれでよい。やりきれないのは、それを言う態度の薄っぺらさだ。それを『暗夜行路』の作者がやってのけていることだ。ぜんたい、この間の戦争をふくめての此の十年二十年を、その中でチャンと日本人として――その権利と義務を行使して――つまり、ホントにナマミで生きて来た人間が、どこを押せば、その十年二十年(自分自身をも含めて)の所産である特攻隊くずれを、あのように手ばなしに一方的に非難できるのか? 自分が特攻隊員だったと思ってみろ。また、自分のムスコが特攻隊員だったと思ってみろ。あの時、自分なり自分のムスコが特攻隊に引っぱり出されて、おれはイヤだと言ってことわれたか? もし、ことわれていたのだったら、特攻隊くずれを叱ってもよい。ことわれなくても叱っても悪くはないが、その時、あなたの胸の中に痛むものは無いのか?(そして私には、そのような痛みが彼の文章の中に感じられなかった)もし無いならば、あなたは、この十年間を「生き」てはいなかったのだ。『暗夜行路』の作家は、いつの間にか、偶然の特等席に引退してしまっていたのだ。それが今になって、こうだ。それはみっともない。戦争中カンゴクの中で戦闘機の部分品を作っていた共産党員が、終戦後とびだして来て、強制的に従軍させられた従軍文士を戦犯として罵りさわいだのよりも、みっともない。みっともない事をしたくないと言うケッペキさを一貫して持っている志賀だから、尚のことみっともない。私は志賀を敬愛すればするほど――いや、志賀を私がホントに敬愛するためには、彼の持っているこのような薄っペラさやモーロクやみっともなさを、私は憎まなければならぬ。
「正直にそう感じたから、そう言った」のだとは思う。もちろん正直に感じた事をかくす必要はない。現に志賀小説の土台の一つは、自分への正直さに在る。しかし、この手の正直さとは、ちがう。この手の正直さは、「町会役員」の正直さだ。作家の正直さは「神」または神に近いものの正直さだ。でなければならぬ。現に『和解』をはじめ、いくつかの作品の中で、そのような正直さの証拠を志賀は示している。志賀が、もし創作の中で特攻隊くずれを描いていたら、たぶん、けっきょくは否定するにしても、このように一方的に手ばなしの否定的壮語に終りはしないであろう。したがって、真に否定さるべきものの根源に徹して否定し得るであろう。われわれは今更、作家志賀直哉から町会役員的正義観を期待するほどナイーヴではない。
志賀に於て、ちょうど広津をアベコベにした現象が起きている。あれだけのエッセイやドキュメントの書ける広津があんな小説を書いており、あれだけの小説の書ける志賀がこんな感想文を書く。広津がエッセイやドキュメントでしか自身を全的に表現し得ないと同じように、志賀は小説でしか自身を全的には表現し得ないのであろうか。それなら、まだよい。私があやぶむのは、広津の小説が広津のすぐれたエッセイやドキュメントの底をつつきくずしてワヤにしかけているのと同じように、志賀の感想文は志賀のすぐれた小説の裏の浅さを自ら物語っていることになりはしまいかと思われる点だ。もしそうだとすれば、当人にとっても捨ててはおけない事であろうが、それよりも、われわれにとっても、ほとんど一大事になる。なぜならば、そうなれば、われわれは一人の卓抜な作家を失うと同時に、一人の大インテリらしい者が実は「こごと幸兵衛」――自身もその中で生きている同時代者全部に対して責任を負おうとしないで、ただエゴイスティックな批判だけをする批判者――であったことを知ることになる。つまり一人の大インテリを失うことになるからだ。
武者小路実篤。これは巨木だ。こんなのが、どういうわけでわれわれの間に生えてしまったものか、それを見ていると、われわれ自身がはずかしくなって来るような巨木である。しかしそれでいて、このような巨木を持っていることは、われわれの誇りである。私は或る高原の、あたり一面カン木と草ばかりのまんなかに、どこからどうして飛んで来た種子から生えたのか、黒々とそびえ立っているモミの大木を見たことがあるが、その時の気持が武者小路を眺める気持に似ている。場所がらもわきまえずに、ムヤミと大きく育ってしまったものだ。見ているとアホラシクなる。同時にたのもしくなる。こんなのがとにかく生え育つ土地――日本は善きかなという気がする。気がしているうちに、コッケイになって来る。笑いたくなる。そして笑いは、深い敬意をすこしも裏切らない。
武者小路は、ずいぶんたくさんの小説や戯曲や詩や感想を書いて来た。これからも無数に書くだろう。書きちらす。原稿紙を五千八百九枚あてがうと、その五千八百九枚目まで書きちらすだろう。たしかタゴールの詩の一つに、大海の浜辺で無心に遊んでいる幼児を歌ったのが有ったが、あれだ。しかつめらしい顔をして、マメマメしく、次ぎから次ぎと忙しそうに、シンケンに、しかし、けっきょくは、遊ぶ。パガンの神が遊ぶように。そこには、真実は在るが論理は無い。美は在るが構築は無い。純粋は在るが進化は無い。そして、そのような所に、近代的な意味での芸術や思想は存在し得ない。
武者小路の小説や戯曲で、芸術作品としての正常な興味を持ちつづけられるものは、私にとって、いくつも無い。それでいて時々読みたくなる。そして引き出して来て読み出すと、トタンに、その真実と美と純粋に打たれ、そして間も無くタイクツしてしまって、本を机の上か枕元に放り出し、安心して眠ってしまう。そういう関係にある。彼の思想にしてもそうだ。考えの一つ一つは真実で美しく純粋なものだが、システムは無い。あの考えとこの考えがムジュンしはじめると調和といったようなことで、ナスクッてしまう。それは、彼に於てゴマカシでは無い。シンケンにそう思ってナスクるのだ。しかし客観的には、そいつはデタラメである。壮厳なるデタラメだ。近代的思想としての一貫した検討に耐え得るものは何一つ無い。「新らしき村」が、いつまでたっても無くならない理由も、いつまでたっても栄えない理由も、そのへんにある。そういう関係にある。
武者小路がホントの意味での芸術の苦しみと喜びをはじめて知ったのは、彼が絵を描きはじめた時ではないかと私は思う。いや、ツクネいもなどの「文人画」のことではない。コツコツと写生をしデッサンをしてタブロウをつついて描いた絵のことだ。タブロウは写実と美と純粋だけでは出来あがらない。論理と構築と進化が存在しないと、出来あがらない。僅かであるが、そういうタブロウがあるのだ、武者小路に。それを見ると、およそ、それまでの武者小路から想像することのできないような細心で慎重な、順序を踏んで自然に味到しようという態度がある。往々にして、そのタブロウは、彼の「ツクネいも」の絵よりも出来が悪いけれど、しかし、そこにホントの芸術家の態度がある。それが、絵を描きだして、はじめて彼のうちに生れた――つまり、絵を描くに至ってはじめて彼は芸術家になった――と私は見る。カンバスを五千八百九枚あてがっても、彼はもうその全部に塗りたくりはしないであろう。それが、彼自身にとってもわれわれにとっても、喜ぶべき事であるか悲しむべき事であるか、わからない。実に、それは、わからない。ただ、もう、後がえりはできまい。また、後がえりは、してもらいたくない。
なぜかというと、論理と構築と進化とが、多少ずつでも彼のうちに生きてくれば、「すべての事は、それぞれそのままの意義と姿において、ほむべきかな」と言ったふうの――敵も味方もいっしょくたにして肯定してしまうところの大調和論みたいなものは、成り立たなくなるであろうから。そして、そんなものが成り立ってほしくないからである。もちろん、そうなれば、彼の「天衣無縫」さは彼から失われるだろう。それは惜しい。一つの宝物を失うように惜しい。しかし、どうせわれわれは彼の「天衣無縫」の路について行けはしなかった。しかし、彼の「人道主義」には、ついて行きたかったのだ。これからも、ついて行きたい。それには、「天衣」を脱いでくれないとダメだ。「天衣」は美しいが、デタラメだからである。
そのへんを、もっとハッキリ言うことにする。われわれを包んでいる歴史の流れは、まだきわめて不安定な段階にある。これから先、われわれはいろいろな目に会うであろうし、会いたいと思うし、そしてその中でわれわれは、なにもしないで手をつかねているわけには行かぬだろう。いろいろな目というのは文字どおりいろいろな目だが、その中で一番極端なものは戦争といったような事であろう。戦争はおたがいに、もうイヤである。起らぬように、それぞれの立場から努力したい。しかし、いくらイヤがっても努力しても、戦争は起きるかもしれない。そして、戦争以外の此の世のあらゆる現象も、よく考えてみると、それと同じようにして起きる。そうなった場合に、しかし、「あれも、これも、すべてよし」では困るのである。これが善ければ、あれは悪いのである。その逆もそうである。ところが武者小路の「天衣無縫」には、「あれもよし、これもよ
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