し」になってしまう危険があるのだ。しかも彼はそれを、その時々に正直にシンケンに器量いっぱいにやってのける。当人にとってウソは無いのだから、キショクの良い事だろう。しかし武者小路のような大インテリには、一方に、人間のチャンピオンとしての責任が有る。それが、いかに自分だけはキショクが良くても、今日この事をよしとしていて、明日それと真反対のあの事をよしとして、イケシャアシャアとしている権利は無い。
 私の知っている文化人の一人に、彼自身大いに進歩的な考えを持っていると自認しており、また事実することも言うことも進歩的らしく見える男がいるが、この男が他の人が自分の気にくわぬことを言うと、必ず「君は反動だ」と言うクセを持っている。バカヤロウと言うのと同じ使用法で言う。たいへんアイキョウのあるクセであるが、時によって人を困惑させることは事実である。それで私は一度「反動」という言葉で君はなにを意味しようとしているのか、君がその言葉に持たせようとしている意味をもっと洗いあげてみたらどうだ、つまり「反動」を定義してみたらどうだ、と希望したことがある。もっともその男は私の希望をいれなかった。そして再び「すぐにそんな事を言うから君は反動だ」と言い放った。私はふきだした。――
 武者小路は、彼の「人道主義」を一度洗いあげ、定義し、首尾一貫したものとして、再確認してみることが必要ではあるまいか、彼自身にとっても、そして、もちろん、われわれにとっても。そうでないと、われわれは、いつか、武者小路を見て、ふきださなければならなくなるかもしれないのだ。そして、われわれは、このように大きな、このように純粋な人を見てふきだしたりはしたくないのである。この人を、お手本にしたり、よりどころにしたり、鏡にしたりして、もっと高いところに到達したいのである。
 これで広津と志賀と武者小路についての一言ずつを、ひとまず終るが、終るにあたって思うことは、これほどまでにすぐれて、他からのサイミン術にかかりにくい人たちでも、自分が自分にかけるサイミン術だけは、避け得ないのだろうかという事だ。
 この次ぎには、四十歳前後の流行小説家たちの数人のことを、その次ぎには戦後派の小説家たちのことを、又その次ぎには共産主義的な作家たちのことを、またその次ぎには、劇作家たちのことを書いてみたい。
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小説製造業者諸氏


          1

 この三、四カ月、私はずいぶんたくさんの小説を読んだ。なるべく新作をと思ったので、おもに綜合雑誌と文芸雑誌と大衆雑誌と新聞に目をさらした。読んだ作品の数は、百を越えよう。かねて小説を読むことは、きらいで無い。しかし、三、四カ月の間に、これほど多量の小説を読んだことは、めったに無い。戦後の小説界の生態をつかむのが目的であった。目的は、ある程度まで、はたせた。その報告または論評をここでしようとは思わぬ。ここに書きつけるのは、その百以上の小説を読んで行きながら私の感じた二、三の事に過ぎぬ。――
 まず、なによりも先きに言ってしまわねばならぬ事は、私がウンザリしてしまったことだ。実にウンザリした。ほとんど、アゴが出るくらいにウンザリした。戦争中、私も暑いなかを小学校の校庭につれて行かれて竹槍訓練をやらされた組であるが、ウンザリかげんが、どこか、あれに似ていて、あれよりもひどかった。もちろん、竹槍訓練の場合に私がウンザリした事について在郷軍人分会の会長に直接の責任が無かったごとく、これらの小説の作者や編集者に責任は無い。私の自業自得だ。
 忍耐力がたりないと言われれば、それまでである。自分の忍耐力がそれほど強大でないことは私が知っている。しかし、小説や戯曲に対する自分の忍耐力が普通の人の約一倍半ぐらいある事も私は知っている。その証拠は、そのうちに見せてやろう。私がウンザリしたのが、私の忍耐力の不足のためだとは、普通にいう意味では言えない。
「お前が、ゴウマンになってしまったからだ」と言われても、それまでである。自分がゴウマンなことを私は知っている。たとえば、孤立の不便と不利益を百も承知していながら、どんな党派にも派閥にも属したく無く、そして属していないほどにゴウマンな事を。また、たとえば、世評の高い宮本百合子の小説などよりも『戦歿学生の手記』中の一篇に百倍も感心しているほどゴウマンな事を。そうだ、普通これはゴウマンと言われる。だから異を立てるには及ばない。しかしホントの事を言うならば、それはゴウマンでは無い。私はそれほどケンソンな人間でも無いが、それほどゴウマンな人間でも無い。その証拠がほしければ――そうだ、これは、すぐに見せてやる。

          2

 私の読んだ戦後小説の作者たちの中に、小説製造販売業者とでもいわなければ、ほかにチョット適当な呼びようの無い種類の一群の作者たちがいる。全体の約三分の一ぐらいを占めているようである。作品の数からいうと、全体の半分、時によって三分の二を占める。したがって、私の読んだ作品の半分ないし三分の二が、それらの諸氏の作品であったわけであり、したがってまた、私をウンザリさせるについても、これらの作品が、あずかって力が有った。誤解なきよう、あらかじめ言って置くが、このように私が言うのは、それらの小説が、小説としてニセモノであったとか、ヘタであったとか、おもしろく無かったとかいうためでは、必ずしも無い。また、個人的な先入感から来る悪意からの見解であるとは私には思われない。とんでもない! 私はむしろ、どちらかと言うと、これらの作者たちに好意を抱いているのだ。それは、最後まで読んでくだされば、わかってもらえる。
 田村泰次郎、舟橋聖一、丹羽文雄、井上友一郎、石川達三、北条誠の諸氏、それから、そういった行き方の数人又は十数人の――世間で文壇の中堅と言われ、事実ある程度まで中堅である――人たちが、そうだ。それから火野葦平や、すこし年よりだが正宗白鳥なども、それに近い。いずれも、ずいぶんたくさん書く。毎月三篇や四篇の作品を発表しないことはないだろう。盛んな人になると、一カ月のうちに短篇、中篇、長篇連載などを合せると十篇ちかくを発表している。随筆やエッセイを普通に書いた上にである。なんともかんとも、隆々たるものである。
 ある種の批評家たちは、これらをアルチザン派といったふうに呼んでいるようだ。主として非難や軽蔑の意をふくめて、そう言っているらしい。なぜなら、そう言われると当人たちが、フクレたりスネたりイコジになったりするからである。これなども、実に「日本」だ。たいがいの外国語が、わが国に入って来ると、たちまち、一方的に肯定的か否定的の意味を背負わされる習慣がある。しかし、もとアルチザンなる語は、かくべつ、否定の意のこもった語では無いように私は知っている。むしろ、正常な是認と、おだやかな職業的誇りこそ含んでおれ、今の批評家たちが使用し、かつ、そう言われた人たちがそう受取っているようなドギツイ非難や軽蔑をこめて使うには無理のある語ではあるまいかと思われる。しかしながら、自分たち一人々々を、自ら神の子孫であると思っている或る種の未開のヤバン人が、人から「お前は人間である」と言われて、激怒したという話を私は思い出すのである。激怒させたくなければ、しばらく、神と呼んでおく以外に方法は無いし、そうしておいても、さしたる不便は無い。アルチザンと呼ばれてフクレる人たちはアルチストと呼んでもらいたいのだから、そう呼ぶがよいし、それでもさしたる不便は起きまい。批評家たちは、ケチをつけたいのだ。ケチをつけられるのに相当する作品もあるし、そうでないものもある。どちらかと言えばケチのつけやすい作品が多い。言ってみれば粗製品のようだからローズものが多い道理だろう。ただその場合でも、他人が盛大に何かをやって景気の良いのを見ると、ややともすればこれを嫉妬してケチをつけたがると言う島国人的特性を文壇人や批評家が非常に豊富に持っているという事も計算の中に入れる必要があるようだ。いずれにしろ、問題は、この人たちの、「質」に在ろう。その質に添って、もっと直接的な言いかたで「お前の作品はつまらん。そのつまらなさかげんと、その理由は、かくかくの所にある」と言うのでなければ、問題は先きへは進まないだろう。
 ところで、私自身はどうかと言えば、この人たちの作品を、必ずしも、つまらんとは思わぬ。しかし、たいして読みたいとも思わぬ。よっぽど暇な時には、読んでもよいが、読まないでもよい。読んでも読まなくても、私の内容にはほとんど増減が起きない。だから、どちらかと言うと、読まない方がよい。
 私の興味と関心は、もっと別な所にある。

          3

 それは、この人たちの作り出す「量」のことだ。
 なにしろ、大変なものである。これほど多量の小説を、相当の永い期間にわたって飽きないで作り出して行く作者がこれほどたくさん生きている現象は、私の知っている限り、どこの国のどんな時代にも無いようである。もちろん日本にも、かつて無かったと思う。インフレのために、多作しなければ人間らしい生活ができないからという理由もあろう。雑誌その他の出版物が多過ぎるために、それらの需要がそうさせるのだとも言えるだろう。また、これらの中の或る人が「どこからどんな注文が来ても、それに応じて、一カ月に七篇や八篇の作品が書けないようでは作家とは言えない」という意味のことを言ったか書いたかしたのを聞いたか読んだかした記憶がある。「節季の忙しい時に、一晩に五十や六十のチョウチンが張れないようじゃ、一人前の職人とは言えねえ」と言い放ったチョウチン屋がいたが、どちらも壮烈と言うべきだろう。御当人たちの「多産本能」と言ったような原因もあるようだ。しかし、それだけでは、私には説明がつきかねるような気がする。一種の病気のようなもの――狂燥症とか抑ウツ症とか言ったような精神病の種類の中に、年がら年中、朝から晩までベラベラかブツブツか、しゃべりつづけてトメドの無い病気が有るらしいが、つまり、あれに似たような徴候かと思うこともあるが、そう思ってしまうのも失礼のような気がする。又、或る種の猿にオナニズムを教えこむと、果しなくそれを続けて消耗しつくしてしまうのが居るそうだが、それに多少は似ていないことも無い気もするが、これもハッキリそうだとは言えないし、言えば失敬だとも思う。とにかく、私にはハッキリしない。よく理解できないのである。
 こんな事を言うと、あるいは、私が、世間の左甚五郎式「芸術至上主義者」たちと同様に、この人たちの「量」を非難していると思う向きがあるかもしれないが、それは誤解だ。私は、むしろ、単純に感心し驚嘆しているのである。
 そうではないか。どう悪く見つもっても、原稿紙にヘノヘノモヘジを書く仕事では無い。とにかく意味の有る、しかも時によってはなかなか大変に意味のある文章を、そして大概の場合に、小説らしい恰好をそなえたものを、かくもたくさんに、かくも続けざまに書くという仕事を、この人たちは、やってのけているのだ。ただの人間に出来ることでは無い。まして、一カ月に原稿紙五十枚書くのが最高で、普通平均三十枚がヤット、しかもそれだけを書くためにフラフラになったり、時によるとのめってしまって、二、三カ月間一枚も書けなくなったりして、いつも、自分の大きらいな貧乏から追いかけられて悲鳴ばかりあげている、しかもその書いたものが、この人たちの作品よりも格別にすぐれているという保証はどこにも無いところの私などが、これをトヤカク言う資格は無いらしい。言えば、それこそ嫉妬から来た中傷という事になりそうだ。実際、正直に感心し驚嘆しているのである。
 ただ、それにしても、疑問は有る。

          4

 先ず、この人たちの「自我」が、どんな具合に処理されているのだろう?
 一体、この人たちの手法は、「世相」を「眺め」て「おもしろおかしく」「早く描く」と言うことで一貫している。その点で、新聞紙の社会面の雑報記
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