者の手法に似ている。それはそれでよいだろう。近代小説の一つの行き方として必然性も無いことも無い。そして、この手法でもどんなに立派な作品でも書けないことは無いようである。たしかにそれは、「私小説」だけを小説道の全部のように思っている態度からの一展開にちがいない。
 だが、けっきょくは、「眺める」のは自分であり、「描く」のは自分である。自分が、たえずキタエられ、反省され、検索されて、集中的に確立されていなければ、描かれたものは世相は世相でも、新聞の三面記事をあれやこれやと切り抜いてつなぎ合せたようなものになるか、又は、ナニワ節のサワリの文句みたいなように、義理人情のオツなところを「歌う」ことになる以外にあるまい。現に、この人たちの作品にそんなふうな物がだいぶある。そして、ありがたくも因果なことに、ピンからキリまでのあらゆる文学の持っている鉄則と、われわれが本来的に持っている感受性とのおかげで、彼等がそれらの作品の中で、彼等自身について一言も半句も語らなくても、彼等の「自我」がどんなふうな状態に置かれているかが、ほぼわかって来ることである。そして、私にわかって来た限りでは、それは、あまりおもしろく無いように思われた。
 ただし、これは、あくまで私の推測なのだから、あるいは誤っているかも知れないとも思う。ところが悪いことに、これらの人々の数人が時々「私小説」を書く。丹羽の「告白もの」や田村の身辺小説などがそれに当る。そして、それらは、それ自体としては、比較的正直に率直に書かれていて、好感の持てるものが多いが、しかし、それだけに作家的鍛練と確立の手薄さかげんがマザマザと露出しているだけで無く、その人生社会観の背骨《バックボーン》の弱さと、近代的小説作家として技法的にも致命的な陳腐さ――(その手うすさと弱さと陳腐さかげんは、いずれもかなり頭の悪い文学青年級のものであって、彼等が往々にして否定的に語りたがる志賀直哉その他の私小説作家たちの前に持って行っても、ほとんど吹けば飛ぶような程度のものである)を自らバクロしていて、前述の私の推測が或る程度まで当っていることを裏書きした。そして、それは他の諸作家についても類推することの出来る根拠がある。そして、それは、やっぱり私には、おもしろく無いように思われるのである。
 彼等は、自分たちでは、自分たちをルコックの亜流であるとはしていないらしい。すくなくとも、意識的無意識的に、スタンダールやバルザックなどが代表している流れに竿さしていると思っているらしい形跡がある。だから、こう質問しても不当では無いと思うのである。あなたがたの作家活動の中で、あなたがた自身の了見が、どんな姿でどのへんに位置しているのかを自ら問うたことがあるのか? と。
 いや、しかし、こう言うと、彼等の或る者は「金がほしいから書くだけだ」と答えるかもしれない。(悪いことに――そして彼等のためには都合の良いことに)バルザックが「金がほしいから書く」という意味の事を言っている。
 また、或る者は「書くことがおもしろいから書くんだ」と答えそうだ。(悪いことに――そして彼等にとっては都合の良いことに)スタンダールが「私は私をたのしませるために書く」という意味の事を言っている。
 まことに、まことに、プロメシウスが肝臓を食わして手に入れて来た火で、パンパンがタバコを吸いつけるのだ。祖師が血みどろになって持ちかえった皮ごろもで、小僧どもが鼻を拭くのだ。バルザックの「金がほしいから書く」とスタンダールの「たのしむために書く」の一語の裡に、どれだけの自我の追求と確立の煉獄が畳みこまれていると思うのか。現に、バルザックやスタンダールの諸作品の冷鉄のような客観の中心に、一貫して燃えさかり、そして燃えさかる事によって、彼等の「客観」を芸術としての渾一にまでキタエあげているものは、彼等の白熱した主観、つまり自我であり、終始一貫して自我でしか無いことに気が付かぬ者は、メクラに近い者であろうと私は思う。

          5

 自我とは、もちろん、生物学的に他のものから引き離されて存在している自分一個の内部の問題――それの生理や心理や情緒や死生観などを意味するのと同時に、外部――自然や他人や階層や民族や社会や世界――との有機的な関連において認識される自分のことだ。これは理論的なメガネで眺めてそうなるのではなく、事実そのものがそうなのである。知識と教養によって訓練された人間は皆、その知識と教養の度合いにしたがって、自己のうちに、この内部と外部を持ち、そしてそれを何かの形でか出来るだけ矛盾の無い統一体として処理したい欲望を持つ。そして作家は、当人が好むと好まざるとに関係なく、より強く作家たろうとすれば、本質的自発的に知識と教養に訓練された人間のチャンピオンたらざるを得ない。これも理屈では無い。作家と作家活動の作用《ファンクション》が自然にそうなのだ。したがって作家が自然に為し、かつ、為さなければならぬ自我の追求、確立ということは、自分の内部において外部の世界を処理する仕事である。言葉を換えて言えば、自己の土台の上に社会的な連帯性を産み出すことであろう。つまり、作家は本来的に自発的に自分の属している人間集団全体の運命に自分の考えと仕事をつなげて行くものだし、行かざるを得ない。
 そして、われわれを最も強くゆり動かした最近の「社会的」な事件は戦争であった。あの戦争を、なにかの形でか自分の内部で処理する仕事は、実は作家の自我の確立の仕事の中での一番大きな課題なのである。
 そして、これらの作者たちの、ほとんど全部が、あの戦争を通過して来ている。なかには、かなりハデな形で通過して来ている人もある。それを、現在彼等は頬かむりをして過ぎようとしている。又は「悪い夢を見た」といったふうに、又「軍部に強制されやして」といったふうにソラトボケて見せたりしている。――つまり、自我を「眠らして」やり過そうとしているのだ。作家ならば、到底出来ない、又はしてはならない事をしている。彼等が小説製造販売業者になってしまいつつあるホントウの原因と理由は、そのへんに在るのではあるまいか?
 私は、言うところの「戦犯」のことだけを言っているのでは無い。その事だけならば、終戦直後、左翼の中の小坊主諸君がわめき立てた「摘発」にまかせて置けばよい。私は、もっと、われわれ自身に関する事を言っているのだ。このままで放って置けば、ついに、他では無い、われわれ自身を永久に腐敗させてしまう毒素としての――つまり、われわれの自己が自己に対して犯そうとしている「責任トウカイ」のことを言っているのだ。
「もともと、私は戦争には反対でしてねえ。あの戦争は侵略戦争でしたからな。しかし、あんな情勢の中で正面切って戦争に反対することは事実上不可能だったんです。しかし、とにかく戦争を中止させることの出来なかったのは、われわれの弱さであり、まちがいでした。その結果の敗戦の惨苦をわれわれがなめているのは当然ですよ」と言った式のことを、オチョボぐちをして言うこと位、現在、やさしいことは無いであろう。――現に、これらの作者たちの或る者たちは、それをやっている。ハッキリと言葉や文字に現わして言わなくとも、その作品の基調やゼスチュアや言外の気分として、それをやっているのである。必要とあれば、その具体的な例をあげてもよい。そして、それが、たいがいは、小説製造販売業者としての自己保存欲からの「失地回復」の手段としてである。
 作家としての誠実さの一片があったら、これらの作家たちの中に、むしろ、どうして一人の頑迷な者があって、当世出来合いの「民主主義者」どもに向って「俺のやった事の、どこがまちがっているんだ?」とズブトク反ゼイする者が無いのかとさえ私は思う。また、「俺は有罪だ」と言いきれる者がいないのかとさえ思うのである。民族と国家と世界への連帯性において自我の内部を、多少でもシンケンに検索している精神にとっては、軽々しく「総ザンゲ」みたいな事をする、しないは問題で無い。場合によって一言も言わなくともよいのである。だまって深く追求していればその追求の姿の実体は、必ず作品の基調の中に現われる。「作品いずくんぞかくさんや」である。それがほとんど無い、この人たちの作品に。ムヤミやたらに豊富に有るものは「世相」と「肉体」と「ストオリイ」である。まるで世相は自己を抜きにして存在するかのように。肉体は精神を抜きにして存在するかのように。
 ストオリイは真実を抜きにして存在するかのように。
 左翼の評論家の或る者たちが、この人たちの行き方を批評して、ファシズム的イデオロギイの温床だと言った。
 それは、ちがう! どうして、ファシズムまでも行きはしない。ファシズムまで行けば、すくなくとも、それは憎むに値いする。とにかくそれは一つの何かである。これは、憎むにも値いしない「ノダイコ」的習慣の温床である。

          6

 次ぎにこの人たちが創作方法として取り上げている手法は、早取写真的方式である。それが、早く、たくさん書く必要から無意識のうちに生れたものか、現代の今の今を活写するために最適の手法として意識的に取り上げられたものか、わからない。多分、両方だろう。どちらかと言えば、前の理由が強いのではないかと思う。いずれにしろ、良かれ悪しかれ、この人たちにとっては、必然の手法である。そして、その限りで、手法自体に不服をとなえる理由は無いようである。(ただし、この人たちが業者として、あまりに能率を急ぐために、作品を作りあげるための最も大事な部分々々の文章が、非常に往々に、支離メツレツであることに就ては、快く思うわけに行かない。それは、たとえば、買ったシャツのボタン穴が、かがってなかったり、左右の袖がアベコベに取りつけてあれば、シャツ製造人や販売人に対して快くは思えないのと同断であろう)
 この手法の特色の一つは、主観的、観念的な表現を避けて、もっと即物的《ザッハリッヒ》な感じの作品を書くのに有利だという点である。かつて、武田麟太郎が「味もソッ気も無く書く」とか「散文精神」とか言っていたものだ。たしかに、現代生活のひろがりと複雑さと速度は、或る意味でこのような手法を要求しているし、現にこの手法が正常に駆使されれば、われわれはフィクションを感じる前に客観的現実そのものを見るような感銘を受けることがある。しかし、この人たちの作品からは、そのような感銘を受けることは稀だ。手法だけは「味もソッ気も無く」モウレツに早取写真式になっているクセに、それを読んでわれわれの第一に感じるものは、逆にかえって、作者の主観や観念である。舟橋や田村や丹羽や井上や石川や火野などの最近の作品を読過して最初に私に来るものは、彼等の持っている「人生観」みたいなものであって、彼等がその作品の中で取りあげた人間や物の生ける姿は、ごく僅かしか迫って来なかった。私の感受が、もし大してまちがっていないとすれば、これは、この人たちの手法と効果との、全く致命的なソゴではないだろうか。そして、なぜに、こんなソゴが起きるのだろう?
 その理由を私は次ぎのように考える。
 いわゆる「味もソッ気もない」客観的手法や「散文精神」と言ったような「非情」の把握――つまり早取写真式の手段というのは、もっと正確な言葉で言えば、現実の真相を、よりリアリスティックにとらえたいという欲望と必要から来たルポルタージュ方式のことである。そして、ルポルタージュ方式にとって、不可欠なものは第一に、そのルポをなす当人の自我の知情意が高度にそしてキンミツに確立されている事だ。次ぎに、そのルポされる現実の中を「千里を遠しとせず」に当人が身をもって通りすぎて来るだけの努力(即ち「足で書く」ということ)である。この二つが、二つながら、これらの人々に不足している。自我の確立が不充分又は放棄されている事は前述の通り。そして、たいがい坐り込んでムヤミと酒を飲んだり、せいぜいバアやダンスホールなどを歩いて、妙な婦人や文学青年やその他あれや
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