また、いきなりそこまで飛びあがらないで、たとえば現代日本の女流作家だけを見わたしてみても、宮本百合子のミゴトに割り切った唯物弁証法的公式や社会主義的リアリズム図式の「布石」にひっかけられて、彼女が前もって作っておいたハメ手にはめこまれて、満足のような不満足のようなヘンテコな気分になるよりも、人生の苦しみと涙の味について宮本などよりも百倍もよく知っている――したがって宮本などよりホントは百倍もえらいところの平林たい子や林芙美子や佐多稲子などの、宮本のそれほど堂々とはしていないがモット真実ではあるところの、宮本のそれほどデスポティックな圧力は持たないけれどモット美しいところの作品や論文を読むことを私が尊び、それらの作品や論文を通して、たかぶらない自然な気持で、どうすれば人間はもっと幸福に社会はもっと明るくなり得るだろうかを考えさせられることを選ぶのも、やむを得ないのである。そして、ここには、長くなりすぎるから、その理由を書くことをはぶくけれども、ほかの人々も私と同じようになった方がよい。

          5

 以上のようなリクツめいた事を全部抜きにして、ただ無責任に抱く興味という点から言っても、宮本の小説は私におもしろく無い。読みだしてすこしおもしろくなって来ると、たいがい、叱られているような気持や教えこまれているような気持や見せびらかされているような気持などが起きて来て、興味に毒液を入れてしまう。それというのが、この人は、結局、人間をあまり愛してはいないせいではないかという気がする。愛しているのは自身だけで、その愛は非常に強いようであるが、他を愛さないのではないか? 他を愛するのは、自分のヴァラエテイとしてだけの他を愛するだけではないか? いや、抽象的観念的には愛しているが、具体的実際的には、他の人々を愛していないのではあるまいか? そのような彼女が、最大多数の人々への実際的な愛というものでたえず裏打ちされていないと、ややともすればデスポチズムになりやすいところの共産主義的理論に立って文学を作っているために、なおさらその点が強められているのではあるまいか? そのために、あらゆるホントに良き作品が、底深い地下水として持っている「他に対するケンソンな愛」が彼女の作品に欠乏して、そしてそれが私に「おもしろく」無く感じられるのではあるまいか?
 しかし、一般に彼女の作品は評判が良いらしい。本もたいへん売れているという。前に書き抜いた宮本顕治の文章の中の他の部分にも、それに触れて「それは、日本大衆の中の民主々義的な進歩的な層が彼女を支持している証拠である」といった意味のことが書いてある。そうかも知れないと思う。しかし、すると、私の感受力がヘンなふうになってしまったか、又は、根性曲りになったためかとも思う。どちらにしてもフに落ちないので、私は私なりの調査をしてみた。いろんな人々に会って宮本百合子についての意見を虚心に聞いてみるという調査だ。いろいろの階層の、かなり多数の人々についてやってみた。もっとも自分の調査は、充分に科学的なものでも広汎なものでも無いから、これでもって全般を断定することはできないし、そうする気も無い。調査の結果は次の通り。
 ホントの勤労者であってイデオロギイ面でも文化的教養の面でもまだ片寄った傾向を持たず、つまり白紙的な人々のほとんど全部が、宮本百合子の小説など読もうともせず、読んでも、ほとんどなんの関心も興味も示さない。それから、インテリゲンチャないしはインテリ化した勤労者の中で、イデオロギイ的にかなり踏みこんだ人々(その中には多数の共産党員、共産主義の支持者もまじっていたことはもちろんである)や、文学芸術の教養の点でかなり進んだ人々などの、ほとんど全部が宮本の作品を、良しとしていない。表面では、特に公の場面では一応褒め立てて敬意を払うようなことを言うが、突っ込んで正直なことを聞くと、たいがい、くさす。好いていない。それから、ホンのこの間から共産主義者みたいになった人々や小説などを読みはじめて、まだ間の無いような人々の多くが、宮本の作品を支持する。支持のしかたは、好くというよりも尊敬する方に重みがかかっている。その尊敬の中に、ビックリした気持や、おびやかされた気持がすこしずつまじっているのが通例である。そして、人数からいうと、この第三番目の人々が一番多い。以上の通りであった。
 だから私は、こう考えた。宮本の作品が大衆の間に盛んに迎えられているのは、たしかに或る程度まで「日本の大衆の中の民主主義的な進歩的な層が彼女を支持している証拠」かもしれないが、同時に、日本の現在には社会的政治的思想の点でも文学芸術的教養の点でも結核初感染患者みたいな人間が非常に多く、そして[#「そして」は底本では「そし」]結核初感染患者というものは売薬の「特効薬」を盛んに買いこむ傾向を持っているものであり、だから宮本の作品が盛んに迎えられるのも、それに類する現象ではなかろうかという考えである。そうだとハッキリ言い切るだけの根拠は、前にも言ったように、まだ無い。今のところ、そんなふうに考えれば、いくらかフに落ちてくるし、そして、そう考えてよければ、私も自分の感受力がヘンになったかもしれないとか自分が根性曲りになったのかもしれないとか考えないですむから、気がラクになるわけである。ホントは、むしろ、この点に就ては、私などよりも進んだイデオロギイと文学芸術上の教養を持った人々の意見を聞き、教えていただきたいと思っている。「宮本の作品を、あなたはホントに良いと思いますか? もしそうなら、どこがどんなふうに良いのですか? ハッキリ言って下さい。そして、公に聞かれるためにウソをつくというやりかたで無く、正直な所を答えてください」と言って。
 そして、これまで書きつけた事によって大体わかっていただけただろうように、さしあたり、私においては、宮本百合子およびその作品を好まないと同じ程度に尊敬しない。逆に、好むと同じ程度に尊敬していると言っても同じことだ。かくて、ありがたい事に、私の分裂症状はなおった。
 以上、宮本についての走り書きを、一応終る。言いたりない個所があることは自分でも気が附いているから、機会があれば、同じ課題でもう一度でも二度でも、ものを言ってみてもよい。
 実はこの回では宮本百合子と中野重治と徳永直のことを語ろうと予定して書きはじめたのであるが、宮本だけのことで既に紙数を超過してしまった。中野と徳永について各十行ぐらいずつで何か言えないこともないけれど、それは両氏に失敬のような気がするから、今度はやめる。
[#改ページ]

落伍者の弁


          1

 第一回のはじめに書いたように、私は演劇ことに新劇について発言することに、興味を失ってしまっている。今の日本の演劇=新劇界には、文化的に重要な第一線的な問題は、なに一つ無いように思われるから。それに、それは「見もの」としても、既に古くさく、おもしろくなくなってしまっているから。つまり私にとって、それは現代人としての中心的なものへの刺戟をすこしも与えないだけでなく、教養や娯楽の道具としてもタイクツになってしまったからである。議論だけならばいろいろ言えないことは無い。しかし、自分がホントの興味を失った事がらについて、ものを言ってみても、役に立つまいし、第一そんなことをしていると、世間の批評家たちの多くのように、自分の食慾を毒し、自分をダラクさせ、自分を不幸にするに至る。私は自分の食慾を毒し自分をダラクさせ、自分を不幸にすることを望む者では無い。だから、「ヘド的に」が、あと何回つづくか何十回つづくかわからないけれど、最後まで演劇=新劇のことは語らないつもりでいた。
 ところが、わりに最近、私をたずねて来た人たちが、次ぎのように言った。その中の数人はすぐれた青年であり、又他の数人はこれまたすぐれた劇作家や新劇専門家であり、そしてその全部が私にとって重要な人たちであった。
「あなたは演劇=新劇に興味を失ったと言っている。それでいてあなたは戯曲を書いている。しかもあなたの書いている戯曲は、言うところのレーゼドラマでは無いようだ。すくなくとも本質的には、舞台性をあなたは忘れないで書いている。すると、あなたが何かの形でか舞台に興味を持たない筈は無い。そうならば、ホントは、現実の演劇=新劇に、なにかの意味の興味を抱かぬ筈も無いように思われる。あなたはウソを言っているか、又は、ムジュンに陥っているのではないか」
 これは、私には、なかなか痛かった。
 私は自分のなかを調べてみた。そして、ウソを言っているのでは無いという確信は見つけだした。しかし、ムジュンに陥っていることは認めざるを得なかった。だから、その人たちにそう答えた。すると、その人たちは、異口同音に、こんな意味のことを言った。
「もしそうならば、あなたはそれを公表する義務みたいなものがある。なぜなら、あなたの陥っているムジュンの中にこそ、われわれが今よく考え、解決しなければならぬ問題があるように思われるから。すくなく見つもってみても、そのようなムジュンの姿を、あからさまに見ることが、われわれおよびその他のたくさんの新しい人々の参考になるから」
 言われて私はもっともだと思った。だから、これを書くことにした。
 標題の「落伍者」は私自身のことだ。もちろん私にもウヌボレがあるから、私のがわから言えば、私が演劇=新劇を見捨てたと思っているわけである。つまり、以下の文章で私は、私がどんなわけで落伍者になったか、または、どんなわけで演劇=新劇を見捨てるに至ったか、見捨てざるを得なかったかを書くわけである。

          2

 今の日本の演劇をカブキと新派と大衆演劇と新劇と軽演劇とに大別することができる。
 カブキは、既にほとんどコットウ化した。これを正常に味わうためには、今となっては特殊の予備知識を必要とする。演じる方でも、既にまったく「生み」はしない。先人を「すき写す」だけである。或る種の高級な美がそこには在る。しかし、今日的なものの中で最も今日的な芸術「生きた演劇」としての処理には、あらゆる意味で耐え得まい。それは、すでに慎重に保存しなければならぬ時期に来ているしまた、保存する値うちのあるものだ。
 大衆演劇の中には、新国劇や前進座などといった、比較的健康な演劇活動を見出すことができるが、それはごく少数である。たいがい、ナニワぶしに毛の生えたようなシバイであるにすぎない。前進座や新国劇にしても、他のものに較べると健康だと言える程度であって、それらを支配しているのは芸術方法の上での無方針やらヒヨリミ主義[#「ヒヨリミ主義」は底本では「ヒヨミリ主義」]などである。だいたい、すこしシッカリした中学の上級生以上の内容を持った人間なら、空疎な気持を抱かないで見ておれまいと思われる程度のシバイである。他はおして知るべし。
 新派のシバイとなると、小学校六年程度以下だ。もっとも、いまだにゲイシャやゲイシャのダンナやママハハやコンジキヤシャなどが主なるテーマであるシバイだから、小学六年以下では、なんのことやらわからんだろう。もしわかったら、トタンに腹を立てて飛びだしてしまうだろう。ごく少数の俳優たちが相当の「芸」だけを持っている。その「芸」は、ムダに、まちがって使われている。
 軽演劇は「媚態」で一貫している。媚態が良いという人には良いにちがいない。そして誰にしたって、媚態を欲する時はあるのだから、それはたしかに一つの存在として強い。しかし、もちろん、媚態というものは、本来の性質上、目的のためには手段を選んだりしない。ところが芸術は、これまた本来の性質上、目的のために手段を選ぶ。演劇は芸術だから、どちらかといえば、目的のために手段を選ぶ。だから、軽演劇が媚態だけに終始している間は芸術上の検討の日程にのぼせることには無理があろう。
 残るところは新劇だけだが、これだけが、辛うじて、われわれの考察の題目になり得ると思う。と言うよりも今日演
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