劇のことを語らなければならぬとあれば、僅かに新劇のことを語る以外に無いと思うのである。なぜなら、その実状はともかくとして、その表明している意図や方針の上で、辛うじて今日の文化芸術としての最低線に立っているらしく見えるのは新劇だけだからだ。だから、これをする。こう言うと、私という人間が、かつて新劇の中にいたことがある事を知っている人の中には、だから私が新劇のヒイキをしているように取る人もあるかも知れない。待て待て。早まらないで先きを読め。
3
話の順序として、現在の新劇を取りかこんでいる外的の条件を見よう。
昔から新劇では食えないと、よく言われた。ある意味で、ある程度まで、それはそうであった。だから新劇の大部分が、金もちの坊ちゃんや嬢ちゃんがたの遊びであったり、物好きの道楽であったり、他に金になる仕事を持った人間の「芸術的」良心や慾望のはけ口であったりして来た。それが敗戦後インフレがひどくなり、しかもデコボコやビッコのひどいインフレであるために、食えないだんでは無くなって来た。新劇の公演、新劇団の運営そのものが合理的に自然な形では不可能になっている。一例をあげる。帝劇なら帝劇で新劇の公演をやって、連日満員であってもたかだか、そのシバイの製作費と小屋代と税金が払えるか払えないかであって、その劇団全員の生活費に当てる金などまるで残らないのが普通だ。そういう数字が出ている。他の多くの場合も大体似たり寄ったりである。つまりシバイがヒットした場合にも赤字なのだ。しかもその赤字が小さなものではない。劇団全員がなんにも食わないでシバイをしなければならぬ程の赤字である。七〇パーセントの入りや四〇パーセントの入りなどと言うことになれば、赤字は破滅的なものになる。――つまり新劇の公演は成り立たないという事なのである。すくなくとも、これまでのような形の公演は成り立たない。その答えは既に出ているのである。幾度も幾度も出ている。日本の新劇人たちが、正常な近代人的な教養と道理とを持っているならばそれを認めていなければならぬ筈だ。そして、そのように不合理な新劇公演をフッツリとやめてしまうか、または、全く新らしい別の合理的な公演形態なり研究方針なりを採っていた筈である。ところが、わが新劇人たちは、異様に古めかしい所で停止してしまった知能を持っているだけで無く、熱狂的な「芸術熱心」や恐るべきストイシズムを持っている。しかもこれらの諸特質をテンデンバラバラに一つ一つ別々に活動させるという分裂症的習慣を持っている。そのために、新劇公演をやめるということも、公演や研究の形態を変えるということも、いずれをもしなかった。そして、どういう事をしているかと言うと、一方において歯を食いしばって新劇公演をケイレン的に行うことによって芸術的良心の満足を求めつつ、他方においてこれまた別の意味で歯を食いしばりつつ、映画出演その他で金をかせいで生活的必要の充足を求めつつあるのが現状だ。これは、しかたの無い事であろう。彼等の古めかしさと「芸術熱心」とストイシズムと、そして、それらが個々別々に分裂しているという事実を計算に入れれば、まったく、こうする以外に道は無いにちがい無いと思われる。千田是也などが言っているように「ぼくたちは、ただシバイがしたいのだ。シバイをするためには、どこで生活費をかせいで来ようと問題では無い」のである。かつて、私の友だちのバクチウチの一人が「俺はただバクチが打ちたいのだ。そのモトデを作るのに女房をたたき売ろうと何をしようと、いいじゃねえか。いらぬ世話あ焼くねえ!」と言ったことがあるが、――なんと、この二つの言葉の調子の似ていることであろう――まったくハタから何かと言って、いらぬ世話を焼くことはいらぬようである。第一、千田是也たちもバクチウチも、当人にしてみればケンメイになっているのだから、それに無責任にケチをつけたりするのは失敬だ。
だから私は世話を焼こうとするのでもケチをつけたりしようとしているのでも無い。私は私で次ぎのように考えざるを得なかったと言おうとしているだけだ。私は、千田是也たちやバクチウチのようにストイックでも「芸術熱心」でも古めかしくも無いらしい。私にとっては、経営的に成り立たないものは成り立たない事であって、それはやめなければならんし、やめざるを得ないものだ。どんなに残念でも、そういう事になるのである。女房をたたき売るよりもバクチの方をやめるわけである。次ぎに、その仕事を自分がケンメイにやろうと思えば思う程、もしその仕事からの収入でもって食えないことがハッキリしたら、それを、やめる。もちろん自分がしたいと思ってする仕事なのだから、それでもって、ゼイタクに食いたいとは思わないけれど、最低には食わなければならん。そうしないと、自分もダメになるし、仕事もダメになるから。次ぎに私は不幸にして分裂症状をあまり強くは持っていないから、自分の良心と必要や慾望とを千田是也たちやバクチウチのように、別々の場所で各個に使いわけることに熟練していない。しいて使いわけようとして無理をしていると、自分がダラクするような気がすると共に、自分に接触する他をダラクさせるような気がする。私の知っていた一人の遊蕩児が、一方で愛人を持ちながら他方でプロスチチュートを買いつづけていたら、自分がバイドクになると共に、愛人をバイドクにしてしまった事があるが、それと似た現象が起きるような気がする。気がするでは無くて、実際に必ず起きることを、多少知っている。そして、そんな事はイヤだから、やめたい。そして、私は、やめた。
実は、そうだからと言って新劇をやめないでもよい方法はある。即ち、経営的に辛うじて成り立たせることの出来る方法も新劇を良心的にやりながらその仕事でもって最低には食って行ける方法も、したがって良心と慾望を分裂させないで統一的に解決して行く方法もある。しかしそれは、合理的な、新らしい、そして相当に粗野な困難な方法であって、現在の新劇人のように、ほとんど「神々しい」くらいに非合理に古めかしく「優美」になってしまった人たちの賛同を得ることは、到底、望めまい。だから此処でそれを述べる勇気とスペースを私は持たないのであるが、(そのうちに述べる)それはそれとして、演劇は一人や二人で出来る仕事では無い。だから一人や二人の人間が、一つの考えを抱き、その考えがその当人にとって決定的な考えであれば、その人間は、そこから抜けてしまわなければならぬことになる。私にとって私の考えは決定的であった。そして私の考え方は既成の新劇人の間に、ほとんど賛成を得られなかった。しかたなく私は新劇から抜けてしまった。
4
新劇を取巻いている外的な条件として、次ぎに、観客層の低さという問題がある。
総体として日本の一般大衆の文化水準がたいへん低いことは、私などが今更言うまでも無く、残念ながら事実のようだ。なにしろ、いまだにナニワ節が圧倒的に人気があったり、ラジオの「向う三軒両どなり」といったふうの種目を世論の圧力でやめさせてしまうことも出来ないほどの水準である。そして、新劇は、どう安く見積ってみても、相当以上に高度の文化水準を予定して行われる仕事だ。それが、右のような大衆の前で、どんなに歯ぎしりをしてナニワ節などと太刀打ちをしてみても、当分の間、勝目は全く無いだろう。そういう中で、無理にも新劇をやって行こうとなると、いきおい、少数の「選まれたる」インテリまたは半インテリを相手にしなければならぬことになる。事実そうなっている。
そして、その「選まれたる」インテリ又は半インテリが、実は、更に困ったシロモノなのである。或る意味で、これらは、右のような一般大衆よりも「高級ぶっている」だけに、実は更に低い。二重に低級なのである。先ずこの連中は、内実においては「無知な大衆」以下に無知であり、その無知をあれやこれやの僅かばかりの文化的な小ギレで装飾している。だから、庶民のナイーヴィテや健康さを持たぬ。同時に真の知識人の自立性も批判力も保持力も持たない。食慾も感受性も知能も共に救いがたく毒されて衰弱してしまっている。あらゆる強力なものからの催眠術にいつでも引っかかるような状態に在る。彼等の思考と感受と行動の機能の中心は、主として附和と雷同と文化的虚栄心にある。シバイを見るのでも、シンから見たいと思って見るのでは無い。「新聞がほめているから」であったり「切符を売りつけられたから」であったり「新劇ぐらいは見ておかないと文化人の恥だから」であったり「新劇は進歩的だと言われているから」であったり、「人が良いと言うから」であったり「自分も新劇みたいなことをしたいから」であったり、大体、そういった理由のいろいろとコンガラカッタもので見る。だから見たシバイがおもしろくても心から楽しみよろこびはしない。また、おもしろく無くても、怒ったり、立ちあがって帰ってしまったり、それきり二度と行かなくなったりはしない。いつでも軽度の拷問にかけられているような、同時に軽度の快感にくすぐられているようなウットウシイ顔と心でもって見ている。その状態と効果は、インポテントの人間がエロ映画を見ているのに一番よく似ている。非常に病的である上に、非常に非人間的である。新劇の観客の全部が全部そうでは無いけれど、私のこれまでの調査によれば、先ずこういった観客が一番多い。そして、そのような病的で非人間的な連中を常に相手にしていると、やっぱりシバイの内容や形式が、こんな連中に気に入らなければならないので、永い間には意識的無意識的に新劇と新劇人も病的で非人間的にならざるを得ない。事実そうなっている。それは後で述べる。私は、そのような観客を好かぬ。同時に、そのような観客からの逆作用を受けて、これ以上病的に非人間的になされることが怖い。だれでも嫌いで怖いものの中にいつまでもいられるものでは無い。私もいられなかった。
5
そこで今度は、新劇の内部を調べて見よう。
現在、既成の新劇団として重だったものに俳優座と文学座と新協劇団と民衆芸術劇場の四つがある。他に、これらよりもいくらか若い世代の人々による新劇団が三つ四つあるが、それらに対しては多少私の見方はちがうから、今は触れない。
この四つの劇団と劇団員のしていることは、それぞれ、愚劣であったり、ナンセンスであったり、珍であったり、アワレであったり、鼻もちがならなかったりすることが多くて、これをいくぶんでもマジメになって論評するには相当の忍耐心を要する。でも、しかたが無いから、しんぼうして、そのナカミの性質をかんたんに列記してみよう。
第一に、あらゆる演劇にとって一番大事なものは戯曲作品だ。新劇にとっては、なおさらである。英語で書いても、The New Dramatic Movement だ。ドラマに立脚した仕事である。これはリクツでは無い。人間のからだの中で、頭脳がもっともたいせつな部分であるのと同じような常識的に自明のことである。ドラマこそ第一番目の最優位の決定的な要素であって、演出者や俳優はドラマが打ち出したものを忠実に具体化し肉体化すれば足りる。と言うよりも、そうであればこそ演出も演技も生きるのだ。それを既成の新劇人なかんずくその指導者たちは知らないか、忘れてしまっているか、または何かの必要から故意に無視している。時によって口の先や筆の先だけでは、ドラマやドラマティストを尊重するらしいことを言ったり書いたりする。しかし実際においては常に演出者第一主義か俳優第一主義だ。その実例は有りすぎて、あげる必要が無いだろう。ホッテントットとかピグミイ族といったような未開人の間に、人間にとって一番たいせつな物は、生殖器の先端だとかヘソの中に在ると信じて、これらを自分の頭よりもだいじにする習慣があったとするならば、さしあたり、われわれはこれを愚劣と呼び、ヘコタレて引きさがる以外に手は無いであろう。だから私は新劇人たちのこのような習慣を愚劣と呼び、ヘコタ
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