レて引きさがったのである。かくも多数のホッテントットやピグミイ級の無知や倒錯や自信や馬力の前で、ほとんどたった一人の私がほかにどうすることができただろう?
第二に新劇人たちのソフィストリイ。これはもう実に骨がらみになってしまっている。たとえば、前にも書いた千田是也の「ぼくはシバイが好きだから、リクツはどうでもいいから、また、どんな方法でもよいから、シバイをするんだ」という言葉などは、ヘンテコはヘンテコながら正直である事は事実であって、そしてこのような正直さは新劇人の間では恐るべき異例に属する。他はほとんど全部が、腹の中と口の先や筆の先とちがう。また、する事言う事とがちがう。たとえば、土方与志は人間として良い人間らしいが、その良い人間がイデオロギイの上で共産主義者であって、民主主義的であって、習慣と仕事の上では時によって貴族的ディレッタント風であって、人民プロレタリアートのためにシバイをすると言っているかと思うと、人民プロレタリアートがとても近よることの出来ないような条件とやり方でシバイをやって見たり――タンゲイすべからざる芸当を演ずる。またたとえば、村山知義も良い人間であるが、これまたやっぱりイデオロギイの上では左翼であって、気質的にはかなりに強度の権力好きでボス的で、主として自分自身のためにシバイを運営して行きながら、人のためにシバイをやっているような事を言ってみたり――これまたコグラカリかたが一通りでは無い。その他、猛烈なスタア意識で動いている「民主主義」の俳優だとか、金がほしいだけのために、「芸術的良心」をうんぬんする演出家だとか――とにかく、ほとんど大部分の者が、どこかしら、ソフィストケイトして、二枚底になっている。もっとも、ズルイためや悪気があってそうなっているのでは必ずしも無いようで、時代のせいや当人たちの無邪気さのためにそうなっている者もあるようであるから、深くとがめるには当らないであろう。ただ、このように目まぐるしいソフィストリイについて歩くのは、たいへんくたびれる仕事である。私もくたびれた。そしてついにアゴを出してしまった。
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第三に、新劇人たちの「ハクライ趣味」のこと。これがまた珍無類である。なにしろ、終戦直後、新劇公演がやれるようになったら、トタンにチェホフの『桜の園』と来た。その理由が、「とにかくあまりケイコしなくて、直ぐにやれるから」とか、「ハイカラだから」とか、「これをやれば人が来るだろう」とか、「上演料がいらんから」とか言ったような事らしかった。以来、イプセンとかセキスピアだとかモリエールだとかゴーゴリだとか等々と、カタカナ大流行である。いずれもチェホフが取りあげられた時の理由以上のハッキリした理由は無い。それはそれでよいであろう。先進諸国の大作家たちの作品の上演は排斥すべきでは無かろう。しかも、それらが「あまりケイコしなくて直ぐやれ」て「ハイカラ」で「観客がウンと来て」「上演料がいらん」とあっては、これに越したことはないわけである。しかも、土方与志や千田是也や青山杉作や村山知義やその他、西洋人の生活の実質は深く知らなくても、とにかく実際において西洋をすこし見て来たり、西洋人のマネがすこし出来たり、またはマネが出来ると思いこんだりしているハクライ演出家がたくさんいる。加うるに、百年前の西洋のこれこれの地方のこれこれの身分の女が朝飯に何を食ってペチコートの下に何を着ていたかは知りもしないし知ろうともしないでも、相手役のセリフを否定する時には両肩をすくめて両手をあげて見せるという「リアリズム」だけはやれるところの勇敢なる女優や、日本人も西洋人も同じ人間なのだから、しょせんは人間に「普遍妥当」な口のきき方と動作をすればそれが演技だとイミジクも思いこんで実はかつて自分の見た西洋物の時代映画中の俳優の猿マネをしたり、それにカブキ調を「加味」したり、六尺フンドシの上にじかにエンビ服のズボンをはいたり、相手役のダームの手をいただいてセップンした手で手バナをかんだりするところの壮烈な男優などに事を欠かないとあれば、鬼に金棒だ。
だいたい現在の新劇のアカゲ物の演出や演技のシステムや細部は、小山内薫などの築地小劇場運動時代あたりを[#「築地小劇場運動時代あたりを」は底本では「築地小劇場運動時代あれりを」]出発点として発生して来たものであるが、そして、その小山内薫などの演出や演技のプロトタイプ(原型)は何かと言えば、主としてアチラで見て来た舞台の記録や記憶や、買いこんで来たおびただしい数の舞台写真をつなぎ合せて、西洋人らしい動作やスタイルをマネるというやりかたであった。つまり物マネのシステムであり細部であった。小山内には、そうせざるを得ない必要もあったし、必然も無くは無かった。ところが、その後の新劇人たちは、必要も必然も無いくせに、恐るべき無反省と、賞賛に値するスナオさで物マネシステムを受けつぎ、更にそれを育成してしまった。演劇芸術のプロトタイプが、人間の生きている現実の人生であり、なければならぬ事など深くも考えなかったことは、もちろんである。だから、いつの間にか、たとえば、久保田万太郎の戯曲を演出演技するよりも、セキスピア物を演出演技する方がやさしい――すくなくとも、よりすくない抵抗を感じつつやれるということになって来てしまった。この現象は、ピグミイ族がブーメラングや手槍を怖がりながら、四十八サンチ砲をすこしも怖がらないのに酷似した現象である。いずれにしろ、新劇のハクライ趣味はこれからも衰えることは無いであろうが、だからまた、これをたとえていうならば、これはちょうど胸から下はスッパダカのカナカ族が、人からもらったシルクハットをかぶり蝶ネクタイをむすんで歩いているようなものであろう。たしかに、それは、ただの、完全にスッパダカのカナカよりも「ハイカラ」にちがい無いのである。またそれを「ハイカラ」だと見てよろこんで拍手を送る同族(=新劇のアカ毛ものを見て、西洋人の生活はこうなんだろうと思ってうれしがる観客が)非常にたくさんいるのだから、かたがたもってこれまたさしあたり、抵抗できるものでは無い。私も抵抗できなかった。
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第四に、新劇人たちの抜きがたい反動性ないし保守性。――既成の新劇人たちの九〇パーセントまでが共産主義者か共産主義の支持者である事実を知っている人はそれらの新劇人たちが反動性や保守性を持っていると聞けば、チョット異様な気がするかもわからないが、実は私も異様な気がする。しかし事実を見よう。それは、どういう点に現われているかと言えば、先ず、彼等が一様に持っている、より若い世代に対する冷淡さである。実に冷淡だ。時に冷酷と言ってもよい。より若い世代に対して手を差しのべ、それを育成し、激励し、バトンを渡すという事をほとんどしない。いつまでたっても自分たちが「大将」だ。「大将」の地位をたもつためには、時によって、より若い世代の劇団や演劇人を圧迫したりしている。次ぎに、人民大衆に対する冷淡または無関心の中にそれがある。現在の既成新劇団で、「人民大衆のための良き演劇」をとなえていない劇団は一つも無い。だのに実際は、現実に生きた人民大衆の意志と希望を反映した演劇を、人民大衆が受容できるような方針と方法と形態で行っている――それを一貫して行っている劇団は無い。以上二つの外部へ向っての冷淡さは、反動性や保守性のチョウコウと見る以外に考えようが無い。そして、この反動性や保守性は、彼等が共産主義者であったり、無かったりするためでは、必ずしも無いようである。もっと手前の所でエゴイストであるためらしい。だから実は、外部の若い世代や人民大衆に対して冷淡なだけで無く、新劇界内部、各個の新劇団の内部においても、互いが互いに対して冷淡なようである。互いの間に同志的つながりの感情も、生活や仕事の上での実際的な同志的連帯性も、ほとんど失われているように見える。そこには、ただシット心や術策などで活気づけられた「生存競争」みたいなものだけが在るだけだ。つまり、ここの空気は、ホントの意味で、冷たいそのように冷たい空気に耐えながら、普通の人は、良い仕事を末ながくは、やって行ける筈が無いし、また、普通の芸術家は不幸にならざるを得ない。私は普通の人間で普通の芸術家であり――すくなくとも、それになりたいと思っている者であり、自分で良いと思う仕事を末ながくやって行きたいと思っており、そしてなるべく不幸にはなりたく無かったので、この冷たい空気から逃げだした。
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まだほかにも、理由はあげられるが、おもなものは以上の通りだ。これだけでも充分ではなかろうかと思う。カンタンに書いたために、一つ一つの私の見かたを、私の独善的な断定のように見る向きもあろうかと思うが、それは、煩いをさけるために省略したためであって、それを実証する実例を私が持たないためでは無い。
ザットそのようなわけである。ドラマを書きつづけながら現実の演劇から離れざるを得ない私の矛盾が、私にとってやむを得ないものであった事は、大体、わかってもらえたろうかと思う。そして私は私の落伍の中で幸福であるから、私個人としては別に言うべき事は無いけれど、しかし矛盾はあくまで矛盾であって、正常なもので無いことは私も知っている。なんとかして正常なものになせるものならばなした方がよいのはもちろんである。しかし既成の新劇を目算に入れての正常化は、当分、ほとんど絶望に近いと私は見る。
僅かな希望は、若い世代にかかる。
若い世代と一口に言っても、既に腐敗したり衰弱したり虚脱したり、既成のものから毒されたりした若い世代もいるし、年は若くても精神において老衰した者もいる。私の言うのはホントの若い世代だ。物事をあるがままの姿で正視する明るいスナオな目を持ち、否定すべきものに向ってハッキリとノオと言い放ち、言い放った瞬間からそのものへ背を向けるだけの勇気を持ち、困難と孤独に耐えて自分のものを生み出し育てて行くエネルギイと忍耐力に満ちた若々しい魂のことだ。これはなにも演劇=新劇のことに限らない。各種の仕事や文化の部面に、数は僅かかもしれないが、そのような若々しい魂が存在していないとは、私は信じられない。新劇の中や周囲にも、そのような若い世代が、まるでいないとは、私は信じられない。そしてそのような人々が良い新劇をはじめてくれることを、確信している。実は私が実際の演劇から現在のように孤絶しながらノンキな顔をして戯曲を書いておられる程に楽観的なのは、そのためである。
以下は、そのような若い世代にあててする私の忠告の二、三である。諸君の頭で自由によく考えて、もし私の言うことの中に多少でも、もっともだと思えることがあったら、その通りにした方がよい。
まず第一に、既成の新劇をなるべく見たもうな。それは、おもしろく無い上に、君の上にロクなことは起きない。君の感受性は毒される。君の知性は衰弱する。君のイノチは萎縮する。君の習慣は植民地化する。新劇を見るだけのヒマと金があったら、友だちと野球でもするか、恋人と遠足でもすることだ。どうしてもシバイが見たければ、他人から低級だとケイベツされてもよいからアチャラカ劇でもなんでも良い、君がホントに正直に見たいものを見たまえ。なぜなら、アチャラカ劇は君のためには大してためにはならぬかも知れぬが、すくなくとも君を毒したり衰弱させたりはしない。
第二に、しかしどうしても新劇を見たければ、チャンと金を払って切符を買って見たまえ。その金は親や兄弟や友だちからもらった金や、闇取引をしてもうけた金でなく、君が労務して得た金でなければならない。百円を得るために君は多分一日汗とホコリにまみれなければなるまい。その百円で見た新劇がつまらなかった場合には、君は腹が立つ筈だ。そして、それにコリて、もう二度とは新劇を見に行かぬ筈だ。百円で見た新劇がそれに相当しておもしろかった場合には、君は満足してまた何度でも行くだろう。それでよい。そ
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