流にスナオな言葉に修正することによって彼の暴論を粉砕し、あわせて風俗氏や肉体さんたちを弁護しょうと思います。即ち「何の役に立つかまだハッキリしていない」などとは、ウソだと私は思うのです。
つまり、前に言った。商品学で見れば、役に立たないだんではないのです。商品としてこれらの作家たちの作品は成り立っているのです。しかも非常に見ごとに成り立っています。誰のためにも、何のためにも、どんな役にも立たないものが、こんなに見ごとに商品として成り立つ道理がありません。風俗氏や肉体さんは意を強うして可なりです。私どもにしましても、われわれ自身の好悪のために、それらが商品として成り立つだけの客観的な好条件を持っているという事実をまでも否定するならば、それは風俗氏や肉体さんに対する不公平であると同時にわれわれ自身のがわの認識不足というべきです。
「俺たちはすくなくとも、メイカアだ。作り出しているんだ。何一つ作り出しもしない奴が何を言うか」という意味の自信を、いみじくも、或る肉体派さんが公言しています。全く同感であります。
終戦後[#「終戦後」は底本では「「終戦後」]、鉄カブトを改造して飯ガマを製造販売してボロもうけをした男が「うっちゃって置けば鉄カブトなんか廃品になるんだ。それをカマに改造して売り出して、人のために役立てようとしているんだ。もちろん俺ももうかってるがね。作ってるからもうかるのはあたりまえだろうじゃないか。グズグズ言うな気にいらなきゃ買わないどけ」と豪語しているのを私は聞いたことがあります。もちろんその時も私は同感したのでありました。
「粗製濫造品であろうとなかろうと、とにかく一カ月に七篇や八篇の小説を私は作ることが出来るしそれがドンドン売れるのである。くやしかったら、それだけ多量生産して売って見たまえ」と或る風俗派さんは思っているらしい証拠があります。これまた全くその通りで、大賛成であります。「うちのタイコ焼にドロやイモが混っているとか、生焼けだとか、くさす奴がいるが、とにかく半日に五百個売れるんだ。くやしかったら、それだけ売って見ろ」と或るタイコ焼屋が怒っていたことがあります。もちろんその時も私は彼に大賛成したのです。
まったくのところ、商売のじゃまをするのは善くない事だし、悪趣味です。しかし、その商売の性格や商品の質をギンミして見ることは、別にさしつかえないだろうと思います。
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たしかに、現在いろんな雑誌に発表されている小説類全体の質的な平均水準から見て、風俗派や肉体派の小説類の質がそれほど劣悪だとは言えません。全体の半分以上が風俗派や肉体派の小説なんですからね。あたりまえの事です。とにかく、商品としての規格はそなえていると見なければなりますまい。しかし同時に、商品としていちじるしく他よりもすぐれた性能を持っていると言うのは、言い過ぎのような気がします。
しかし、よく売れるのは、事実らしいのです。事実はいつでも重要ですし、興味があります。ですから私はいろいろ調査してみました。先ず雑誌の編集者七、八人についていろいろ問い合せ、次に学生、勤労者、家庭婦人その他の雑誌購読者の五十人ばかりに向って質問してみたのです。その結果こういう事がわかりました。雑誌編集者は、ほとんど全部、風俗派や肉体派作家を芸術家としては[#「芸術家としては」に傍点]軽蔑しています。人間としても重んじていません。だから、本心は自分の雑誌にそれらの作家の作品をのせる事を好んでいない。すくなくとも私に向ってはそう言いました。ウソかも知れませんが、しかしとにかくそう言うものですから、しばらくそれを信じて話を運ぶ以外に手はありません。「だのに、なぜ高い稿料を出してのせるんですか?」と問うと、これまたほとんど異口同音に「経営者や会計部がのせることを要求しますからね。編集者なんて弱いもんで、経営者や会計には頭があがらんですからね」「しかしどうして経営者や会計部がそんな要求をするんでしょう?」「それは、あたりまえでさあ。風俗さんや肉体さんをのせると雑誌が売れるからですよ」「なるほどそうですか。しかし[#「しかし」は底本では「「しかし」]風俗さんや肉体さんをのせると、どれ位よけいに売れるというタシカな事を調べましたか?」「いや、それは調べません。なんとなく、そんなふうな気がするんです」
こんな編集者が一体全体、編集者と呼ばれる価値があるかないかを言い立てるのは私の任ではありません。次に購読者です。五十人ばかりの中で、特に風俗さんや肉体さんの誰それの小説を愛読しているという人は一人もいませんでした。つまりその誰それの小説がのっているから、その雑誌をわざわざ買うという者は一人もない。どれでもよいのです。ただ、百円サツを一枚にぎって書店へフラリと寄って、寝ころびながら読めるような面白そうな雑誌を一冊買おうと思った時にこの雑誌には、たとえば肉体派作家某大先生作「彼女がうなる時」という小説がのっていて、あの雑誌には、たとえば三好十郎作「わけのわからん頭痛」と言ったふうの作品がのっていたとすれば、五十人中四十九人までが、この雑誌を買います。つまり三好よりも某氏の方が四十九倍だけよく売れるのです。理由は、これだけです。これ以上でもこれ以下でもありません。これは実に冷厳な事実でした。この事実を私は認めます。事実以上でもなく、以下でもなく認めます。
そんなわけですから、風俗派や肉体派の諸氏はメイカアならびにセイルスマンとして自信を持って可なりです。同時にまた、彼等の商品が売れるのはそういう意味で売れるのであって、別にその内容が人の信用を得ているから売れるというわけではないようだから、彼等がメイカアならびにセイルスマンとしてあまりに自信を持ちすぎるのは当らないし、コッケイでしょう。前記の我が憎々しい友の言葉を借りて言うならば「小豚どもよ、喜べ。なぜならば天下はお前のものだ。しかし小豚どもよ、あまりに喜びすぎるな。なぜならば、お前のものである天下は、お前のおっぴらいた鼻づらの周囲一尺四方ぐらいの大きさであるからだ」という事になります。事の当否は別にして、実に度しがたいのは、小豚についての彼の固定観念です。閑話休題!
私が思うに、だから、風俗派や肉体派にとっては、作品の内容よりも表題と作者名が大事になります。現に、これらの作家たちは表題に一番苦心している形跡があり、事実またたいがいの場合に彼等の一番の傑作は表題です。そして、ある種の商品にとって一番大事なのは、その名称とキャッチフレイズであるにちがいないのです。
私はこれらの作家たちを呼ぶのに小豚派などを以ってするのは不当なる悪趣味だと思いますから、それを修正するためにも、また、風俗だとか肉体だとかのアイマイな呼称をなくするためにも一つの提案をします。これらを一括して表題派作家と呼ぶことにしたらということです。端的にして正鴻な名だと思いますがいかがでしょう。
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以上、これらの作家たちについて、商品学的見地から冷静公平に眺めることが出来ましたが、さてこれを文学芸術的見地から眺めはじめますと、事がらが、非常にコンガラカッて来まして、第一、冷静公平に終始することが、なかなか困難になってきます。しかも、前にも書いた通り、これらの作家たちの在りかたや作品の中に文学芸術上の問題になり得る事がらは、ほとんど無いように見えるために、筆不調法な私などが、強いてそれをすると、ややともすると罵倒の言葉ばかりが飛び出して来やすいようです。それでは御当人たちに失礼でありますし、かつ、そんな罵倒の言葉ばかりをつらねて、己れ一人高しといばりくさって、ただ、いたずらに御当人たちをコウフンさせることは、私の本意でありません。そんなことよりも、これらの作家たちの作品を入念に拝読した上で、どこがどんなふうに粗雑であるか、また、どの個所とどの個所で他動詞が自動詞にまちがって使われているか、また、どこがどんなふうに文学青年以下に低級であるか、したがってまた、どこがどうであるからして、そんなにノボセあがらなくともよい、と言ったような事を作品自体に具体的に添いつつ述べた方がよかろうと思いますし、現に今後二、三の場所で、それに似たことをしてみる予定が私にありますので、ここではその事におよびません。
ただこの事にいくらかの関係のある事で、フンマンにたえなかった事がこの間あったので、それをチョット書きましょう。
田村泰次郎さんが、たしか「文芸往来」だかに「尾崎一雄」など清流で、孤高で、寝ながら虫などを相手にして書いていればよいが、私などドロンコの現世と肉体の中で、ゴチャゴチャと汗みどろで力闘して書かなければならん」と言ったような意味のことを書かれたのに対し、尾崎一雄さんが「東京新聞」で「私は清流でも孤高でもない。寝ているのは病身であるからに過ぎないので、ドロンコも肉体も田村君と同じだ。それを不当に歪めて言うのはおもしろくない」と言ったふうに抗議されていました。それについてです。
その両者を読んで私はフンマンにたえなかったのです。こう言うと、たいがいの人が、私が、これまで書いて来たことから推して私のフンマンの相手が田村泰次郎だろうと思うでしょう。どういたしまして、尾崎一雄に対してなのです。
そのフンマンがどんなものかと言うと、こうです。簡単に書くために、ドストイェフスキイ作中人物風の言い方を借ります。
尾崎一雄よ、お前が良い作家であることは私も世間も知っている。もちろんお前は田村の言うような清流や孤高ではない。お前は営々として努力し、苦しみ、鍛え、耐え、そして真に生き、作品を書いている、お前の人生も作品も狭い。また、見方によって浅いとも平凡とも言えるかも知れぬ。物たらぬ点がいろいろある。しかしお前は美しい。あらゆる謙虚なものが美しいように美しい。お前はホンモノだ。小さいかも知れぬが、ホンモノだ。それを私も知っており、世間も知っている。そのお前が、どんなにひっくり返して見てもそれ自体として全く意味を成さないほどに偉大なる者の言いがかりに対して、そんな形でそんなふうにカンを立てるのは、なんという事であろう。それによってお前はお前自身を卑しめ、お前自身を侮辱しているのだよ。それによってお前は、お前に言いがかりをつけた者の低さにまでお前自身を低くしているのだよ。それが私は腹が立つのだ。お前はお前自身に恥じなさい。
――大体、そんなふうなフンマンでした。今でも多少感じています。
その場合田村泰次郎についてどう感じたかですって?
なんにも感じませんでした。鹿よりも象の方が目方が重いから象の方がえらいとか、この男が原稿三枚書く間にあの男は八十枚書けるから、あの男の方がえらいとか言う見方もあって、そういう見方もまんざらまちがいでは無い場合もありますがそれは主として物理的な問題ではないでしょうか。
ただ、次ぎの事は一言して置かなければならぬ気がします。作家としての尾崎一雄の世界が片寄ってしまっているのが物たりないとか、また、尾崎が作家的手段として持っている「アミ」がいくらか古めかしく、純粋になってしまって、今のこの現代生活というものの流れに浮いたアクタモクタの全部は、尾崎の「アミ」に引っかからなくなっていると言うならば、それは或る程度まで当っていると思います。とくに戦争を自分のなま身でもって生き、通過して来た上で、今のこの荒々しい時代の中で、作家としての自我と仕事を確立して行こうとしている人間には、尾崎一雄流の人生観や創作方法では、やって行けないし、やっておれないし、やってはいけないとも言えるのです。
田村泰次郎の尾崎に対する反ぱつも、意識的無意識的に、そこに根ざしている事は理解してやらなければなりません。そうでないと田村に対し不公平だと思います。
つまり、田村が作家として意図している所は、なっとく出来るし、なっとくしてやらなければならぬ。しかし、あとがいけない。田村は尾崎よりも十倍もむづかしい所を意図しながら
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