に堅固な価値の認識の手がかりは与えられない。そういう点で、前の青野や正宗や宇野の批評に似ている。ただ、こちらにはホルモンがある。だから刺戟する力がある。刺戟は、しかし、あちらを向いたりこちらを向いたりして取りとめがありません。一言に言って、この人たちは、作家が小説や戯曲や詩を書くのと同じように批評を書くのです。批評家とその批評の関係が作家とその作品との関係と同じなのです。または、作家になりそこなって批評を書いているとも言えましょう。良い所も悪いところも、彼等が本来作家ないし、作家のなりそこないであるというところから来ています。彼等が彼等の批評の中で確立するのは、どこまで行っても彼等自身以外の何者でもありません。小林がドストイェフスキイやゴッホや鉄斎をいくら攻め立てて行っても、それらの人間たちの姿は結局は浮びあがって来ないで、小林自身の人間――もっと正確に言えば小林の脳細胞のシワの絵図面みたいなもの――が浮びあがって来るきりです。そして、それはそれでよいのです。また、福田恒存における太宰治なども同じことでしょう。それはそれでよい。しかし、いや、だから、なるべく、ヘラズぐちは叩かぬ方がよい。ヘラズぐちを叩いていても此の人たちのは、時によって身が入って血が流れます。すると自身が錯乱するだけでなく他を錯乱させます。たしかに見事は見事です。騒々しいのがおもしろいと思う人間にはおもしろいでしょうが、批評というものの中から、とにもかくにも一定の方向と言ったようなものを見つけ出して進みたいと思っている人間には、あまりおもしろくありません。――とは言っても、なにしろカンがきついから、この人たちはヘラズぐちを叩くのをやめはしますまい。それならそれで、それもよかろう。よけて通る。
次ぎに、中野好夫・桑原武夫・中島健蔵と言ったような、大体大学教授などをしながら批評を書いている人たちがいます。たいがいアカデミックな体系を持っており、共通して啓蒙的な手段と、公明な態度に立っているので、行きとどいた批評が多いようです。やっぱり、相当役に立っているのでありましょう。しかし、私には、この人たちの批評にあまり興味がありません。この人たちの批評を、よく読んでごらんなさい。その批評に、自身の大事なものを「賭して」いないことがわかるのです。ホントの意味では自身にとって言わないでもよい事を言っているのです。生活のためにも魂のためにも、批評は彼等にとって、しないではおられない仕事ではないのです。せいぜい「アルバイト」程度です。そのような発言は結局は力あるものには成り得ないでしょう。述べられた意見そのものが意見だけとしてはどんなにすぐれたものであった場合にもです。たとえば「第二芸術論」などという立派な批評がこの人たちの間から生まれても、結局はその第二芸術そのものに対してはツンともカンとも響いて行かなかった事なども、そのためではないでしょうか。つまり、「第二芸術論」を言い立てている当人自身にとって批評が全身心を張ったものではない。つまり皮肉なことに、花鳥風月を叩きつけている当人にとって、その論そのものが花鳥風月、つまり「第二仕事」であるからではないでしょうか。ところが、第二であろうと第八であろうと芸術を生む仕事は、修羅場の仕事です。批評もそうです。何か大事なものを賭さないでは人は修羅場に足を踏み込むことはできますまい。そんな人が、わきの高見から(それがどんなに高かろうと)うまい事を言ってみても修羅場にいる人は、ただ聞き流して置くか、又は引っこんでいろと言い捨てて置く以外に無いでしょう。
岩上順一とか小田切秀雄とか杉浦明平とか。ほかにもまだたくさんおりますが、左翼的な批評家たちの批評も、たいがい、丹念で立派なものですが、私にはつまりません。興味は主として批評が対象にしている素材と、ものの言い方の中にあるペッパアの利鈍に感じられるだけです。つまり、尺度が適用される物と、適用のされ方に多少の興味があるだけで、尺度そのものは一定しているからです。もちろん、だからまた、批評の職能の一つである指南力に欠けたところはありません。針はいつでも南を指します。クソおもしろくもないとも言えるのと同時に、これについて行く気になってついて行きさえすればまちがいがないから、安心しておれるとも言えるわけ。批評する方でもその限りでは安心と自信をもってやれるわけです。しかし、いったんその尺度自身に疑念を持ちはじめると、非常にめんどうな事になってきて、批評はチョットわきにやって尺度そのものを調べて見ようという事になります。そしてそれがまた、たいへんな仕事で、チョットやソットではキリがつかない。残るところは、こいつをウのみにするか、敬遠するかの二途しかないと思わざるを得ない位にめんどうな事になります。それに、この人たちの持っている尺度が、私の眼にさえも既に古く遅れてしまっているように見えることです。たとえば十四、五年前のハリコフ会議の決議の日本的適用の線から一分でも一厘でも前に出た尺度を、この人たちの誰が持っているでしょうか? 私は知りません。また、たとえば、社会主義的ロマンティシズムや、革命的民族主義の文芸的適用と操作について、誰が人をなっとくさせるに足るような熟練を示してくれたでしょうか? これまた私は知りません。各個が取り上げている問題や素材が、戦後の新しいものであるために、その取り上げかたまでが新しいようにチョット見えますが、よく見ると実は、その昔蔵原惟人や中野重治その他の人たちがした事を、もうすこし拙劣に、もうすこし低い段階で復習しているに過ぎないように見えます。その忍耐力に対しては敬意を払わざるを得ませんけれど、タイクツせざるを得ないことも事実であります。
次ぎに、文芸を見るのに必ずしも左翼的な眼を以ってはしないが、現世紀的に、社会的な進歩的な立場を以ってしようと志している一群の批評家たちがいます。荒正人や平田次三郎や平野謙その他の人たちです。私など、思想的に必ずしもこの人たちと合致点を持っていない場合にも、センスの上でこの人たちに一番強い親近感を抱きます。この人たちの一番大きな存在理由は、この人たちの批評が今の日本の若い世代のアヴェレッヂなたくさんの人々の代弁になっている場合です。そしてかなりの程度までそうなっていると思います。ただこの人たちの批評に悪意からでない大言壮語が多過ぎます。左翼の批評家にも大言壮語が多いが、それとは少しちがった意味でこの人たちにも多い。それに、批評の書きかたが、むずかし過ぎます。だが一番気になる事は、この人たちが、現在ある程度までやむを得ない事だとは言いながら、一般的抽象的な考察や議論ばかりに主なエネルギイを注いで、具体的に作品や作家により添った追求をおろそかにしている点と、稀に作品や作家により添った場合にも、残念ながらこの人たちの「読み」が浅いという点ではないかと思います。この二つの点で、はじめに書いた青野・正宗・宇野など、長所と短所とがちょうどアベコベになっているようです。そして、この人たちの批評に時々見つけ出すことのできるひ[#「ひ」に傍点]弱さのようなものは、そこから出て来ているように思われます。この人たちは、もっと執念深く自分たちの立場を確保しながら、作品と作家についての具体的な批評をやって行かなければならないのではないかと思われます。
先ず大体、他人の事を言いおえました。そこで、こうして広言を吐いているのは一体なんでしょう? 私は本職劇作家のシロウト批評家です。つまり、モグリですね。このモグリ批評家の行う批評が、どんな立派なものであるか、またどんなに愚劣なものであるかは、次回からの文章でもってお目にかけるわけです。
[#改ページ]
小豚派作家論――あるプロテスト
1
え? なんですって?
よくわかりません。あなたは何を言っていられるのですか?
「この問題も、いつまでもゴタゴタさせないで、もうよいかげんに整理して答えを出さなければいけないと思いますからね」
なんの問題ですか?
「ですから、風俗作家や肉体派作家たちと批評家たちの間の疎カクの問題ですよ」
ははあ、問題ですかそれが? 問題だとは思いませんね、私は。好きにやらして置けばいいではありませんか。ぜんたい問題というものは、あらゆる問題が、それを解決すればそこから多少とも良いことや進歩が生まれてくるものです。ところがあなたの言うような疎カクなどを解決したって、良いことなど何一つ生まれて来そうにはありません。噛み合わせたまま捨てて置けばよい。そのうちに両方で飽きて一人でに噛み合いをやめるでしょう。
「そんなヤケクソにならないで、あなたの考えを聞かせて下さい」
よろしい。ヤケクソにはならない方がよいかもしれません。私の考えを述べます。
批評家のことには、しばらく、ふれません。風俗派や肉体派さんたちの、作家活動の全体または個々の中に、文学や芸術の問題になりうる事がらが、どれだけあるでしょうか? 私は、ほとんどないと見ています。捜しても見つからないものですから、当人たちにも、実際において、文学や芸術を取りあつかっているという意識はないのではないかと思われるフシがあります。それを批評家たちは、文学や芸術を見る見方で眺めるものだから、事がコンガラかるのではないでしょうか。
それはむしろ主として群集心理だとか集団異常心理といったふうの社会心理学の研究材料、または商品のメイカアとセイルスマンとマーケットの相互関係、つまり商品学の題目を提供しているのではないでしょうか。もちろん、これも重大な真剣な題目です。ひとつマジメに考えて見ましょう。
2
私の友人に、風俗作家さんや肉体派さんたちの事を「コブタハ」と呼ぶ男がいます。「小鳩派かね?」と私が問うと「コブタ。小さい豚、小豚派作家だ」と言うのです。
それが穏当でないような気がしたので私が抗議を申しこんだら、こう答えました。「なにを言うんだね君は。これは愛称だよ。見たまえ、彼等の姿とそのしている事は小豚に最もよく似ている。先ずアイキョウがある。にぎやかだ。マメだ。ふとっている。どんな所にでも鼻を突っこむ。もちろん鼻息は荒い。その荒い鼻息で一尺先きの事は何から何までかぎつけるが、六尺先きの事はまるでわからないから勇敢である。それに仲間同志より集まってブウブウ鳴き立てる習慣を持っている。気をつけたまえ、以上のことは動物にとって弱点ではないんだよ。いや、往々にしてそれらは、長所であり強味だ。どっちにしろ柵の中に生きて行かなければならないのならば、柵の中の悪臭のために胸を悪くしてふさいだりしているよりも、そんなものを気にしないでよいような鼻を持って、景気よくやって行く方がトクだ。そのへんの計算もよく似ている。似ていない点は、小豚は太らせてツブすと食料になるが、小豚派作家たちが何の役に立つか、まだハッキリしていないところだけだろう」
なかなか、ウガッタところもある言葉でした。しかし要するに一片の毒舌に過ぎません。私は毒舌はきらいです。第一、ふまじめでいけません。私は、いつでも、すこしでもたくさんまじめに、すこしでもよけいにスナオになろうとしている人間なので、右のような空論に耳を傾けることを欲しません。いわんや小豚派などという呼称にくみすることは出来ません。
しかしながら、人間の想像力や感受性というものの、何とヒ弱で動きやすく暗示を受けやすいものでしょうか。私は、それ以来、風俗作家や肉体派さんたちの作品を読んでいても論文を読んでいても、それらの一人々々の姿勢や全体としての動きなどを遠くから眺めている時も、チョロチョロブウブウと動きまわっている小豚や小豚たちの姿を私の心の眼の外へ追いやることが出来なくなってしまったのです。つまり右の友人は、私の想像力を荼毒してしまったのです。彼を私は呪います。呪うための一つの方法として、彼が「小豚派作家たちが何の役に立つかまだハッキリしていない」と言った、そこの所を私
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