説明することはできない。しかし批評家たちの物の言いかたの難解さはそんなものではありません。ごくやさしい事を言うのにも、ひどくむづかしく言う。むづかしい事言う時には、まるきりわからないように言う。それはまるで何かの病気のようです。全体、この人たちは誰のために批評を書いているのだろう? 誰に読ませるために? 誰に理解させるために? 誰に影響をあたえたいために? 誰を啓発し、誰を激励したいために? 一言に言って、誰と語るために批評を書いているのでしょうか?
もちろん、日本の文化人の間には、難解なことを読まされると、それが自分によくわからないという理由で、尚いっそうそのものを尊重するマゾヒスティックな読者が、かなりおりますから、それらに対する批評家たちの順応の現象だともいえない事はない。しかしどんな批評家でも普通の正常な心理を持った読者は相手にしないというタテマエではないだろうと思います。公に物を書く以上、なるべく、たくさんの人々に読ませ理解させたいと志ざされたものであると思ってもさしつかえないでしょう。すると、事が志しとあまりにちがい過ぎます。すこしは人の身にもなって考えたらよろしい。つまり読者の身にもなって批評文を書いたらどうだろうと思うのです。これは、文章の書き方や文字の使い方だけのことではありません。書かれている内容自体についても言えます。すこしは、人の身にもなって考えたらよい。人と言うのは、現に生きている隣人のことです。この地方の人たちのことです。この民族のことです。この国民のことです。この時代人のことです。つまり、この社会と世界のたくさんの人間のことなんです。これらの人間たちと共に苦しみや楽しみをわかち合い、それと共に生きるために彼等に向って話しかけようと言うのに、批評家たちは、なぜに好んで難解な「方言」を使うのでしょうか? パンパンでさえも自分の身体を「社会的」に使いたいと思う時には、「ハロウ!」と言うではありませんか。中には無知や病気のために、難解な物の言い方をする批評家もいるでしょう。しかし、中には、このたくさんの人間たちと共に苦しみと楽しみをわかち合い、それと共に生きるために彼等に向って話しかけるという意志や欲望――(すなわち、批評家が何よりも先に持っていなければならぬ社会的パトス)の欠如から、難解癖を起している批評家もいるようです。
そうなのです。われわれの批評家たちに不足しているのは、学識や見識などよりも、この社会的パトスです。「世と共に楽しみ、世と共に苦しむ」意志と熱情です。その意志と情熱から生まれる「人の身になってみる」想像の力です。それが不足していないならば、どうしてこのように一人よがりな、このようにわかりにくい批評文ばかりが流行する筈がありますか。
次ぎの証拠は、批評家たちが、着実さを失っている所にあります。先ず、批評しようとする当の事物や作品の実体を掴み理解するための手順に丹念さがたりない。アテズッポすぎるのです。作品の批評をするのでも、その当の作品を二回も三回も読んだり、ノートをとりながら読んだりしている批評家は、ほとんど一人もいないようです。パッと読んでパッと批評を書くらしい。中には作品全部を読まないでパラパラとめくって見て批評を書くのがおる。作家こそ、いいツラの皮です。もっとも、これには作家の側にも責任があるようで、一晩に四、五十枚も書きとばして、ロクに読み返しもしないで発表してしまう腕力派もあり、そして、その事が作品を読んでみると手にとるようにわかるものですから、そのような作家の作品を丹念に読む気がしないのも無理がないと言えますけれど、実はそのようなデタラメな作品を叩きつぶし追い出してしまうためにも、批評家が丹念に読む必要があるわけです。それは批評家は多くの読者大衆の選手として読み、かつ、批評する者です。天才またはキチガイが中空に向って歌を歌うのとは、ちがうと思うのです。客観的に実在するものについてものを言う仕事です。しかも、批評家が今の日本に五十人いるとすれば、日本の全人口数を五十で割った――たとえば五万人とかの人間が、自分のうしろに控えている、それだけの人間が自分の肩の上に乗っている、それだけの人間がこれこれの事を言ってもらいたがっている、それだけの人間の文化的イノチをあづかっているという意識でもって自ら重しとする所に立たなければなりません。これまた、社会的パトスであります。それが有れば、たとえ作家が作家たらずとも、批評家が作品をもっと丹念に読むぐらいの事は出来ようではありませんか。
読みかたが粗雑だと、それについての批評も粗雑にならざるを得ません。アテズッポになるわけです。そして、それを蔽うために、批評は大言壮語になってしまう。今の日本の批評界ほど大言壮語に満ちた所はないでしょう。「カタギ」な仕事や空気が非常にすくなくなってしまっているのです。
3
Kさん。
――というふうに、私は良い気になって語っていますが、あなたから見れば、さぞ片腹痛いことでしょうね。というのは、あなた御自身一個の批評家なんですから。しかし、まあ聞きなさい。たしかにあなたは、すぐれた批評家です。しかし、そのあなたにしてからが、どだいナッテいない。為すべき事をしようとしないじゃありませんか。
つまり、だから、それを私が一つして見ようと言うのですよ。私は批評家ではない。しかし、待っていても、あなたは沈黙している。そして他の大部分は大言壮語している。しかたがないから、その任でもないのに私が出しゃばって見ようと言うのです。批評家がなすべきことの一つを私がやって見ます。「批評家Kよ、後学のために見ておれ」と言うわけです。無学にして怯懦なること私のごときでさえも、この程度の勝負を演じることができることを、あなたの前に示して、それによって、あなたの奮起をうながそうというわけです。もちろんあなたや大方の批評家たちから見れば棒ふり剣術にちがいない。「野郎、今に眼から火を吹いて、ひっくりかえる」でしょう。そのひっくりかえる所まで御覧に入れましょう。
そうですとも、ノボセあがりはじめると、どこまでノボせるか方途のない人間ですよ私は。――そういうつもりで、この文章を私は書きはじめました。そして、そのためのさしあたりの方法としては、この私という人間が文学芸術をどんなふうに読み味わい、それをどんなふうに考えたり自分の血肉にして来たか、しているかについてオシャベリをしようと言うのです。それもなるべく具体的に、それぞれの作品や文芸現象などに密着しながら語ってみようと言うのです。やり出したら、すこしつづけてやります。しかし、此の回は、もうだいぶ紙数を食ってしまい、あと作品評をはじめると、中途半端になりそうですから、それは此の次からはじめるとして、今度は余った紙数で、ついでの事に、今の批評家たちの個々についての私の見かたをのべておきましょう。そうすれば、今の批評家たちに対する私の不満が、もうすこし具体的にわかってもらえるでしょうから。同時に、恥をしのんで「カイより始める」ところの私の批評の功と罪とが、前もって、よりハッキリするでしょうから。
先ず、青野季吉とか正宗白鳥とかの、自然主義時代からの文学界のうつり変りを見て来た老兵たちがあります。宇野浩二などもその一人でしょう。みんな、ネレた眼を持っています。言うところも懇篤です。見当はずれなことはしない。前に書いた着実さが、この人たちだけには備わっております。壮大な空言を弄しない。自身の小主観を振りまわさない。それと言うのが、この人たちは、文学芸術を心から好いているためです。惚れていると言ってもよい。青野や宇野はもちろんの事ですが、正宗など文学などつまらんというような事を度々言いますが、それは此の人の習慣であるにすぎないので、どうしてつまらんどころですか。そんなにつまらなく思える事を四、五十年間変りなくつづけておれる道理がない。アイソづかしを並べるのは「彼」の歌であるにすぎません。
ただ此の人たちの批評に、火はない。パトスはない。年数を経てよくネレたミソが、うまくはなったが、臭味も塩気も取れてしまったように、刺戟も指南力も失われてしまったのです。この人たちの批評をいくら読んでも私たちは、どうしてよいかサッパリわかりません。右にも左にも踏み出せません。視力は散大するだけです。それはちょうど人生というものを深く知った達人が此の人生の前に立ってウーンとうなって眺めているようなもので、人生の味の諸わけが深くわかっていればいるほど、たとえば今その人生のドまんなかで生きている人が自分の生き方について迷い悩んでいる事がらについて此の達人に相談を持ちかけて見たとしても、達人は「いや人生というものはイロイロだよ。実になんとも言えん所だ。ああも言えるし、こうも言える。ああも見えるし、こうも見える。それが人生だ。」ウーンと唸るだけで、ついに身の上相談にはならんのに似ているでしょう。つまり、この種の達人は実際的には幼児と同じなのです。達人は知っています。幼児は知りません。しかし、マジマジと見つめるだけで無為である点では両者同じです。つまり、そこからゾルレンは生まれて来ないのです。言わば、この人たちは文学の「大通」です。大通と言うものは、元来助平が腰抜けになったものです。性慾旺盛では大通にはなれん。新しいイノチを生み出す力はない。イノチを生み出すためには刺戟が必要なのが、この人たちには刺戟する力がないのです。色の諸わけ、恋のくさぐさの実相を客観的に冷静に眺め得るのは腰抜けに限りますが、自分の中に生きたものとしての色と恋と性慾を持っている腰抜けでない人間にとっては、そんな冷やかな観照は、なんの役にも立ちますまい。そういう意味で、この人たちは既に非人間的で、古いのです。文学芸術はタテのつながりから見ても横のひろがりから言っても生けるイノチなのですから。
在るがままの人生、在るがままの文学の味が深く複雑に充分にわかりながら、しかしその上に立って、在るべき人生や在るべき文学の途を見出したり生み出したりすることは出来ないものでしょうか? 私は出来ると思います。それが、ホントに人間的な、そして実はもう一段高い達人の姿だと思います。そして、それが新しい態度だと思うのです。言って見れば、七十才になって十九才の処女に恋をしたゲーテは、「ヰルヘルム・マイステル」を書いた時のゲーテよりも、より高いし、より新しい。「大通」が、大通のままでオボコ娘に恋をしたら、それこそ「大々通」でしょう。青野や正宗や宇野が文学に対して助平なことはまちがいありません。彼等の前に文学が昔の恋人のようにではなく、また、古女房のようにではなく、新しい恋人のように立ち現われ、見えて来る事はあり得ないでしょうか? あり得るだろうとは、にわかに私には言えません。しかし、あり得ないとは、私は思いたくありません。そして、もし、それがあり得たら、彼等の批評の中に火が、パトスが、生み出されるでありましょう。つまりホントに立派な批評になるだろうと思われます。「それを読んでも、どうしてよいかわからない」批評を書く人に小林秀雄および小林と似たような行き方の批評家たちがおります。福田恒存などもその一人でしょう。勉強家ぞろいで、頭が良い。時々おそろしく鋭い、うがった事を言います。それで、ついて行っていると、そのうちに、前に言った事とは正反対のことを、やっぱりおそろしく鋭い、うがった言い方で言って前に言ったことを根こそぎひっくり返して見せたりします。どちらも当人はチャンとやっているのでイカガワシイ気持はしませんが、ギョッとはします。読んでいて困ることは事実です。パトスでふくれあがっている。だから非常なオシャベリになるか、でない時は失語症みたいになる。批評の言葉から血が流れ出すこともある代りに、べた一面にヘラズぐちにヨダレをまぜて垂れ流す時もある。ずいぶんいろいろにソフィストケイトしている。この人たちの批評を読んでも、頭脳の体操にはなるが、客観的
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