―特に私がしたように、作家たちの実名をあげてその作品や傾向をムキツケに論評することは、好ましいことではないようです。なぜなら、その文章の中で他人のことを刺せば刺すほど、それはさらに複雑深刻な形で自分自身を刺してくるのです。専門の批評家にはそのような事はないのではないでしょうか。どんなふうに他人のことを論評しても、自分がキズつくという事はないらしい。至極安全なワンサイドゲームで、どんな熱でも吹けるようです。一般に作家の書く批評文が往々にして専門批評家の批評文よりも中途半端で妥協的でウジウジしたものになる理由はそのへんにあると思います。それだけにまた、専門批評家が十だけの事を言っている時に、作家の批評が五か三だけしか言っていない場合でも、実質的には、作家の批評の方が二倍三倍も重い。必ずしも、すぐれているとは言いません。しかし重いとは言えると思うのです。その批評の中にこめられた力の量がズットズット大きいのです。
そういう事を私は学びました。チョットした事を言うのに、実に非常な努力が必要になるのです。そして言い出した批評がそう大した批評にもなりません。生み出されてくるものが、そのために消費された力に相応しないのです。つまり「あわない」のです。ある作家の作品を五、六冊十五日間かかって再読三読した上で、それに対する批評文を五日かかって三枚書くといった式が私のやりかたですが、どうです「あわない」でしょう? もっと卑近な、つまり原稿料の点でも「ペイ」しないことは、言うまでもありません。これは特に頭が悪いのと遅筆のための、私だけの事かもしれません。ですけど、頭が悪かったり遅筆であるのが、全体、私のセイですか? 私のセイではありません。(小さい声で――いや、こいつは、やっぱり俺自身のセイかな?)
とにかく、かねていろいろの愚行を演じ馴れている私にとっても、批評文を書くという仕事は、まれに見る愚行であります。こんな事などしていないで私は戯曲か小説を書いている方がズッとよいのです。私の戯曲や小説などは、まだ甚だ至らないものではありますが、それでも、私の書く批評文にくらべれば百倍の上等です。だのに、そのエッセイ書きをまだつづけようとしています。ぜんたい私というものの料簡はどういうのでしょうか。
私にもそれは、よくわかりません。ただ、ワケはあります。その一つは次ぎの事です。
私が「群像」に書いた一連のエッセイは、いくらか評判になったそうです。現にあなたも、あれに注目してくださった一人です。いろいろの反響を総合して見るのに、話半分に聞いたとしても、或る程度のトピックになった事は事実のようです。それが、はじめ私には不思議でした。次ぎになさけなく思われました。やがて不快になったのです。
なぜなら、あれらのエッセイの中に、私は、格別にすぐれた事や変った事や独創的な事など、ほとんど書いていません。私の発言の出発点は平凡な常識にすぎませんし、そこからの展開の範囲も、常識の域を一歩も出ていないのです。これは一般的に言ってもそうでありますし、私自身のことだけを言って見ても、そうしようと思えば、すぐれた事はどうか知れませんが、もうすこし変った事や独創的な事なら書けそうに思った事がありますが、わざとそれをしないで、ホントの常識論だけに自分を限ることに努めたのです。そこに書かれてあることは、私自身にとっても人々にとっても、文芸やイデオロギイについてのABCに過ぎないのです。これは、ケンソンして言っているのでも、同時に、威張ってモッタイをつけるために言っているのでもありません。
その常識論のアタリマエのことが、とにもかくにも、或る程度のトピックになったという事は、どういう事でしょうか? あの程度のことが多少でも問題になった、問題にならなければならなかった一般の空気というものは、一体なんでしょうか? つまり、そのような今の日本の文芸界というものは、ぜんたい、何かという事です。私が不思議になり、なさけなくなり、不快になったというのは、それです。
或る人にこの事を私は語ってみました。その人は、こう答えました。
「そうです。ホントは誰でも知っていなければならない常識論が、すぐれた著しい言葉のように聞える――それが今の文芸界という所です。そういうふうになってしまったんですね。それを常識として理解している人たちは沈黙して語らないし、それらの常識を身につける必要のある人たちは、いくら説かれても遂にそれらを理解しないでしょう。現代日本文化のホントの悲劇がそこにあります」
私もそう思いました。悲劇だけでなく、恐怖もそこに在ると私は思いました。現代日本文化の恐怖です。恐ろしい陥没です。そうではありませんか。私はかつて夜汽車で一箱ほとんど全部の乗客が闇のカツギ屋の中に自分一人で乗ってひどい恐怖におそわれたことがあります。それは一身の安危に対する恐怖ではなく、もっと深くもっと強い、この人たちと自分の間には正常な意味で言葉が通じないという実感から来る恐怖でした。また、たくさんの狂人の中にまじって運動会を見たことがありますが、その時も笑い騒いでいる狂人たちの中に一人ションボリ立ちながら、私の感じた恐怖も、一身の危険というような事ではなくて、この人たちと自分との間に相互理解のカケ橋がさしあたり全くないという意識から来たものだったのです。二つながら、ただの単純な恐怖とはくらべものにならぬほど恐ろしいものでした。実は、二つながら、「なあに、こいつらは、普通の人間のことなぞわからんケダモノだ」と思いさえすれば、その瞬間からまるで恐ろしくもなんともなくなるような恐怖であるために、尚のこと、恐ろしかったのでした。
今の日本の文芸家のどんな人たちをでも、闇のカツギ屋や、狂人たちにたとえようという気は私にありません。ただ、私どもの間の悲劇や恐怖の性質が、これらにすこし似ているような気がしたので書いただけです。同時に、三百人の闇屋の中に闇屋でない唯の人間が一人まじっていると、場合によって、その一人の方が「人でなし」になってしまったり、五百人の狂人の中に正常者が一人で立っていると、時によって正常者の方が「キチガイ」になってしまったりする事があることも、私どもの参考になりますし、そして、これもまた、恐怖をそそることがらですから書いただけです。
悲劇は、ありがたいものではありません。恐怖は消えた方がありがたいです。つまり陥没は埋められる方が望ましい。というよりも、意識的無意識的に、私たちは埋める仕事をせざるを得ないのです。陥没を陥没のままに捨て置いて、その上に立っていることはとても耐えきれることではありません。すくなくとも、私は耐えきれません。私が前述のようなエッセイストとしての自身の不適格や不利を押し切って、このエッセイを書きつづけるのも、この埋めようとする努力の一つであるようです。
私の考えも、その考えから起きる努力も或いは見当ちがいかも知れません。見当ちがいではないとしても、これくらいの事が、すこしでも埋めるタシになるかどうか私にはわかりません。しかし、私はこうせざるを得ないのです。陥没の深淵の底に小さな石ころ一つでも落しこんで見ざるを得ないのです。深淵の中からは、気味の悪い反響が聞えて来ます。しかし、それは一寸でも二寸でも深淵が埋まったという合図であるとは言えないでしょうか。言葉が通じなければ、ドナリ声だけでも、または手真似だけでもして見ようというのです。不快のことなどは当分タナあげにして置くつもりに私はなっているのです。――つまりそれが私が性こりもなくこれを書きつづけるワケの一つです。他にもワケはありますが、それはだんだんにわかってもらうようにしたいと思います。
2
Kさん。
この恐ろしい陥没を埋めようとする努力は、言うまでもなく、本来批評家の仕事です。しかし、今日の日本の批評家たちは、ほとんど、これをしません。逆に陥没を掘り深めたりしている人がある位です。どういうワケでしょうか?
思うに、批評ほど、やさしい仕事はありません。他を見て「お前さんはバカだ」と言ったり、「これこれの作品はナッチョラン!」と言い放てば、やっぱり、それは批評の一種です。同じことを、もっとムヅカシイ、わかりにくい言葉で言う技術を持っていれば、さらによい。誰にしても、何に対してでも、なんとか言えるではありませんか。大学を卒業したり中途退学したりして多少の学問と文筆への習慣を持ち、ほかにする事がなく、ヘラズ口を叩くのが好きな者にとって、批評家になるほど手易く「割の良い」ことは無いわけです。これ以上に、ノンキな商売はありません。しかし、それだけにまた、良い批評をし、良い批評家になるほどむずかしい仕事もないとも言えます。誰にでも、いつでも出来る事がらを、あたりまえにしながら、同時にそれを立派に上等にやる事ほどむづかしいことはないわけですから。それはちょうど、夏になってアイスキャンデイ屋になることが誰にでも出来るやさしい事であり、それだけにまた、すぐれた良いアイスキャンデイ屋になることが、なかなかむづかしい事であるのに似たようなことでしょう。なぜなら、あなたはアイスキャンデイを食って腹痛を起したり、下痢をしたことはありませんか? 私は数回あります。世間には、非良心的に作られ、非良心的に売られたアイスキャンデイを買って食って病気になったり死んでしまったりする子供が、かなりおります。困ったことにアイスキャンデイの中の悪いバクテリヤは目には見えないし、また、凍っているために、そのアイスキャンデイが腐敗しているかいないかが、目でも鼻でもちょっと判断できないのです。買う人間にとっても、売る人間にとってもです。そのようなものを、自分の品物には悪いバクテリヤもついていず腐敗もしていないという自信を持ち得るような手順を踏み、つまり買う人に対する責任をしっかりと持ちながら、零細な利益でもってアイスキャンデイを売るというのが良いアイスキャンデイ屋になることなのですが、これが実は想像に絶するような困難な仕事であるということが、あなたにわかっていただけるでしょうか。そして批評は、どう安く見つもってみても、アイスキャンデイを扱うよりもめんどうな仕事です。しかも同時に、アイスキャンデイを仕入れるには多少の資本を要し、売るには多少の労力を要しますが、批評をするには一束の原稿紙と十滴ばかりのインクさえ有れば、あとは何にもいらない――つまりアイスキャンデイ屋よりもズット手易いという関係になっている点に注目してください。
という事は、つまり、批評および批評家が、くだらなく低級になるにも、立派に上等になるにも、そのどちらにつけても、トメドがないということです。そして今の日本の批評および批評家たちは、トメドがなく立派に上等になっている状態であるようには見えません。その証拠を一つ二つあげてみます。
と言っても、めんどうな証拠ではありません。私はめんどうなことはきらいです。たとえば、或る人がどの位にえらいかという事を知るのに、私はその人がえらそうな顔をしたり、えらそうなヒゲをはやしたり、えらそうな姿勢をしたり、えらそうな言葉を言ったり書いたりした事をよりどころには、あまりしません。それよりも、その人が他とむすんだ約束をどの程度まで守ったかというのを標準にします。約束を守る程度に正比例してその人はえらい、立派な人間です。これには絶対にまちがいありません。すくなくとも、私においてこの標準は一度も狂いませんでした。私は、たいがい此の式です。
で日本の批評家たちが、あまり上等でない証拠の第一は、彼等の書く批評文が、ちかごろ、むやみやたらに、むづかしくなっているという事がらの中にあります。普通の人に読んですぐわかる批評文を書いているのは、青野季吉と正宗白鳥と渡辺一夫ぐらいで、他はたいがい、いけない。語られている事がら自体がむづかしい場合に、それの表現が或る程度までむづかしくなる事は、やむを得ません。相対性原理をタシザンとヒキザンだけで
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