せん。それがヘンに思われるのです。私の眼がとどかないのでしょうか? または私の頭が悪すぎて疑問に思う必要のないことを疑問にしているのでしょうか?
 もちろん、私自身においてはこれは既に問題ではありません。私の態度は既にハッキリしているのですから。私は今後戦争が起きそうになったら、また、起きてしまってからも、それに反対します。あらゆる戦争に対してです。誰がどんな理由でする戦争でもです。反対の手段にあらゆる暴力と武器を取りません。また、誰かが賞賛したりまた誰かがジャマしたりしたとしても、そのような事に関係なく、反対します。そのために仮りに何かの圧力が私の上に加えられることがあっても、その圧力がひどくなって私をして沈黙せざるを得なくさせるまで、つづけたいと思います。ほかの人はどうなのでしょうか? あなたはどうなんですか? それをハッキリしないで一般的に平和論議ばかりしていて、人々はどうしようと言うのでしょうか? 私の問いは愚問ですか?
 次ぎに、この事についての第二の疑問は、今平和運動に参加または主導している知識人の中に、非常に多くの共産主義者やそれらの支持者がいることは、あなたもご存じの通りです。ところで、共産主義というものは理論的にも実際的にも或る種の戦争を肯定する、すくなくとも、やむを得ないものとする主義なのです。その主義を信奉する人たちが、「戦争はよしましょう」というスロオガン――われわれの普通の常識ではそれは「あらゆる戦争をよしましょう」と取るのが一番妥当だし、現に一般がそう取っている。――の下で主導的に運動しているのは、私には矛盾かまたは虚偽のように思われるのです。
 それが「やむを得ない矛盾」――つまり人間として誠実に考えた結果として引き起きた矛盾――ならば、われわれはこれを深くとがめてはならないと思います。しかしその場合にも、当人がその矛盾の中のどの要素が自分の本心であるかを公に示してくれる必要と義務があります。それをしないで一方において共産主義者でありながら一方において「あらゆる戦争」に反対する平和運動に参加しているならば、仮りにそれがどんなに誠実な意図に発してなされているとしても、客観的に自他を深く毒し、平和運動全体を虚妄のものとして終らせる原因の一つになると思います。
 もしまた、虚偽であるならば――もちろん共産主義者自身は多分それを必要な現段階的戦術と見るでしょうから虚偽ではないと言うでしょうが、私はそんな複雑な言葉の使い方に馴れていませんから「自分がホントにそうしようと言う気が無いくせに、そうしようと言う」事の全部を虚偽とするのです――カンタンです。そんな虚偽ないし虚偽者を拒否しなければならぬでしょう。拒否することが出来なければ、われわれ自身の方で引きさがらなければならぬと思います。
 なぜなら、われわれが「あらゆる戦争」を防止するための平和運動だから[#「平和運動だから」は底本では「平和運運だから」]と思いこんでそれに参加してセッセと努力しているうちに、状勢が或る段階へ差しかかった最も重要な瞬間に、肩を並べて進んでいた主導者または同志(平和運動の)が出しぬけに「ある種の戦争」を肯定したり、場合によって運動全体をその戦争のどちら側かへ引っぱって行こうとしたりしたのでは、われわれ自身は、実にたまったものではないのですから。いくらなんでも、私はそんな殺生な煮湯は呑みたくないのです。この事なのです、私がヘンに思うのは、それを、あまり人が言っていませんし、書いてもいません。これは問題にもなんにもならぬ事がらだからでしょうか? やっぱり私の頭が悪いせいなのでしょうか?
 私の考えでは、これらの事は、わが国における文化的人民戦線樹立の失敗の原因や責任、および今後におけるその可能性や不可能性の考察へのモメントや材料を提供している事がらだと思いますが、その事はこの次ぎにお目にかかった時にでも申しあげます。
 以上のような事を私がなぜに特にあなたにあてて書いたかと申しますと、あなたが現在の代表的な評論雑誌の編集者であり、同時にあなた御自身一人の熱心な平和運動者であるからだけではありません。現在のジャナリストの中には、何か妙に思われるほどに多数の共産主義者や共産主義の支持者がおりますが(――その事自体は別に批難すべき事がらではないでしょうが)、それらのジャナリストの編集している諸雑誌が現在のところ戦争防止、平和運動の文書的展開の最重要な場所になっている現状の中で、先ずジャナリスト自身のこの問題についての態度や関係がどんなふうになっているかが重要の事だと思ったからです。
 雑誌や新聞は、古いタトエですけど、「社会の鏡」であり「社会の木タク」であるにちがいありません。鏡や木タクには、何よりも先ず正直であることが要求されてもよいと思います。現在のジャナリストたちは「腹芸」を演じすぎます。マキァヴェリズムが多過ぎると思うのです。実は共産主義ないし共産党の基本線にそって編集されている雑誌が、表向きはそうでないようなフリをして見せたり、「共産革命政府」と言えばハッキリするところを「人民民主政府」と言ったふうのまぎらわしい言葉を使ったりする理由が、「腹芸」やマキァヴェリズム以外のものとしては、私にはわからないのです。正直に言ってくれる方が、自他ともに一番便利だし、そうしてくれても何の故障も起きないと思うのですけど。とにかく、ジャナリストが現在のようだと、私などの頭はますます混乱して悪くなるばかりのようです。

5 大衆作家について――ある文芸雑誌の編集者へ

 Eさん――
 あなたは、大仏次郎の小説をお読みになることがありますか? また、長谷川伸の最近の小説を読まれますか? 吉井勇の小説は? 久生十蘭の小説は? 獅子文六の小説は?
 もし読んでいられたら、それらについてどう思われますか?
 それから、あなたの雑誌にあなたがいつものせていられる「純文芸」作家たちの小説と、これらの「大衆」作家たちの作品とを較べて考えられたことがあるでしょうか?
 これらの作家たちの全部が非常に良い作家であると言うのは当らないと思います。また、私自身がこれら全部を必ずしも好きではありません。しかし正直に、そして自由に、文壇常識の色眼鏡や伝説などにとらわれないで見れば、これらの作家たちが、或る種の「純文芸」作家たちよりもズットすぐれた作家であることを認めないわけに行かないのです。たとえば、井上友一郎などの小説よりも大仏次郎の小説は現代の「真」に近い。眼がオトナです。文章のキタエも本格だ。そして、おもしろい。また、たとえば、ここ四、五年来の長谷川伸の書くものが、里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]のものや永井荷風のものよりそれほど劣っているとは思いません。時によって、人間観照の眼のエイリさと広さにおいて里見や永井を越えていることがあります。また、吉井勇の小説は、その世界が狭く、かつ、古めかしいエスプリ一本のものですが、そのことを別にすれば、たとえば丹羽文雄や北条誠の小説などよりもズット[#「ズット」は底本では「ズツト」]世態人情の真に近く、本式の芸術的鍛錬を経たものです。また、久生十蘭の偏奇は時に鼻に来るにしても、とにかく本物であって、田村泰次郎や三島由紀夫などよりは金がかかっています。また、獅子文六の小説の前に石川達三の小説を持って行けば、錬達の点でも面白さの点でも、大人の前に小学生をつれて行ったようなものだと思うのです。そのほかにも「純文芸」作家よりもすぐれた「大衆」作家はおります。
 私には、こう思われるのです。ですから、あなたがたが、あなたがたの雑誌で右にあげたような「純文芸」作家の作品ばかりに場面をあたえられて、「大衆」作家たちの作をのせようとなさらない事の理由が私にわかりません。この点では、あなたがたはただ「文壇」という特殊部落的なセクショナリズムの悪習慣悪伝説になずみ過ぎて、ただ反射的無意識的に編集活動をなすっているのではないかと思います。それはあなたがた御自身として、雑誌編集という文化的に貴重な仕事をムダに喜びなくなさる事になっているのと同時に、この国の文学、文学界に不自由に強直した封建的なワクやラチや党派や閥などの横行を激励なさる事になっています。さらに、その事から、この国の文化世界を「インテリ」と「大衆」とのまっ二つに分裂させることによって、この国そのもののイノチを衰弱させる仕事を推進なさっている事になります。
 お互いにもう、自分の眼の中からウツバリを取りのけて、物事をあるがままに見ることが出来るぐらいには、なってもよくはないでしょうか。また、私人として自分が是認したものを、公人として押し出して行くのをはばからない位の勇気を持ってもよい時分ではないでしょうか。つまり、あなたがたは、あなたがた御自身の見識を持ち、そしてそれに依って編集をなさってもよい時だと思うのです。そして、時によって大仏次郎や長谷川伸の小説があなたがたの雑誌の巻頭にのるようなことになって、はじめて私たちは自由に呼吸することが出来、正直に各作家を評価することが出来るだろうと思います。
 こんな事を私が言うと、右にあげたような「大衆」作家たちはみんなオトナであって、満足して「大衆」小説を書いている人たちですから、「今さらいらざる事を言う」と言って笑うかもしれません。中には怒ったり軽蔑したりする人もあるかも知れないとも思われます。私から言いますと、そんな事は大した問題ではありません。そんな事は、みんなこの人たちが幾分かずつソフィストケイトしてしまっているからであって、そしてそのソフィストケイション[#「ソフィストケイション」は底本では「ソフィストケィション」]そのものがこれまでの文壇的セクショナリズムの害悪の結果の一つなのですから。勝手に笑ったり怒ったり軽蔑させておけばよろしい。必要なことは、当人が何と言おうと、物と人とが道理にかなって在るべき所に置かれるという事なのです。
 言うまでもなく、右の「大衆」作家たちが或る種の「純文学」作家たちよりもすぐれていると言う事と、その一人々々の「大衆」作家自身がそれ自体としていろいろの弱点を持っている事とは、別の事がらであります。その弱点に対してまで私どもが「これは大衆文学だから」と言うようなハンデキャップをつけて寛大であるならば、それは私たちの感傷だと思います。現に大仏や長谷川をはじめ、これらの作家たちが、そのソフィストケイションの中で、ほとんど無意識抵抗の形に陥っているところの一般文芸に対する「白眼」的無関心は、結局はまちがった「自己卑下」と名人気質的ゴウマンとの混合物であって、作家というものが当然に持っている持たなければならぬ謙虚や自信から逸脱してしまったものです。そしてそのために、彼等の作品活動の全部にわたって釘が一、二本たりないような結果や、押しがすこし不足しているような結果が引き起きています。その点をもうすこし具体的に例示すれば尚よくわかっていただけると思いますが、今日は長くなりますから、それをしませんが、これを要するに、彼等から、「大衆」という冠詞を取り去るだけの自由な公明さを持つと同時に、その冠詞のために起きていた彼等自身の「戯作者」風の口実の一切を一蹴して、どんな種類のハンディキャップも存在しない文芸の競技場へ引っぱり出して来るだけの無慈悲さを持つという事は、私どもにとって大至急に必要な事だと思います。
 あなたのお考えは、いかがでしょうか?
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恐ろしい陥没――批評と批評家について


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 Kさん――
 今年になって私は、戯曲や小説などを書くスキを縫って、雑誌「群像」にエッセイを七カ月つづけて書きました。その中でだいぶ人の悪口も言いました。われながら趣味の良いものではありませんし、また、そんな事を言いちらせば、結局は損をするのは自分だという事を知った上で言うのですから、あまり賢いとも言えません。それらを別にしても、作品を書くことを主とする作家が、他を批評する―
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