うであり、ところで、各雑誌にむずかしい巻頭論文などを執筆している者の大半が急進的な人なのですから、それを「難解文章執筆罪」と言ったような罪名で牢屋に入れることが出来れば、世論を刺戟しないで急進派の力をそぐ事が出来るでしょう。いかがでしょうか?
 いや、又々、あなたから無邪気な感傷だと笑われそうですね。

3 演劇雑誌について――ある演劇雑誌の編集者へ

 Cさん――
 いつも私は、御誌をはじめ五、六の演劇雑誌を寄贈していただき拝読していますが、みなそれぞれに骨の折れた編集がしてあり、内容の諸作品も諸論文もたんねんに書かれたものが多いので感心しています。編集者も執筆者も大変だろうなと思うのです。
 ところで、それと同時に、感じますことは――戯曲作品のことは別にして――ホントは問題にもなんにもならぬ事が、やたらに事々しく扱われ論じられているような気がするのです。ですから、その扱い方や論じる態度などがシカツメらしくマジメであればある程、白々しく眠たげに感じられ、時に背中から冷汗が出るほどミジメな気持がします。
 シェキスピアやモリエールやゴーゴリやボーマルセなどの戯曲を二つか三つ、それもほとんど茶番狂言でもやるのと同じ位の条件と準備とでもって上演する劇団があると、たちまち演劇雑誌にシェキスピアやモリエールやゴーゴリやボーマルセをひと呑みにしたような「堂々たる」論文などを書く人間が現われます。イプセンやチェホフの作品を勇壮な劇団と演出者と俳優たちが実質十日位のケイコで上演すると、これまた、たちまちイプセンとチェホフについての「ガイハクなる」論文が諸演劇雑誌をにぎわせます。かと思うと、芝居をはじめてから五年半ばかりになった「俳優」がスタニスラフスキイ的芸術方法を論じてそれを「批判克服」してみたり、一年平均二回ばかり全く無方針にケイレン的にトギレトギレにディレッタント風の悪習慣として十五年間芝居をして来た俳優が、芝居の神様が言うような「演技論」を発表したりします。かと思うと、女を裸にしてひっぱたくのがトリエのエロ芝居がすこしヒットしたり、キチガイやインバイなどの出て来る戯曲が一つ二つ現われると、たちまち、「マジメに」実存主義について論じた文章が流行したり、また、勤労者が働きつつコツコツと戯曲を書いてどこかに発表したりすると、これまた、たちまち「社会主義的リアリズム的創作方法万々歳」と言ったふうの評論が現われたりする。と忽ち当の勤労作者がカーッとばかりにのぼせあがって劇作家たちの立ちおくれについてまくし立てたりします。かと思うと、現代劇の公演が全く採算が取れなくなっている状態やその理由や原因などの究明や解決法などを一切タナに置いて、或る興行資本家が小さな腐った小屋を一軒だけ当てがってくれるとカッとなってしまい、その小屋の運営についてまるでブロウドウェイの大プロデュサアのようにハタシまなこで論じた論文が現われたり――まだウンとありますが、一々書くのがメンドウくさくなりました。
 それらの一つ一つが悪いと言うのではありません。それらはみんな、なにがしかのタメにはなっています。ただ、すべてがチンコロ的に見えるのです。チンコロが寄り合って、みんなむやみとマジメで大ゲサナ心もちと顔つきをして哲学か何かを論じていると言った風景がもしあるならば、これに似ているのではないかと思われます。もちろん、私もチンコロの一匹かも知れません。チンコロの中でも一番小さい一番キリョウの悪い一匹かも知れません。私がこれらの風景を眺めて、ただゲラゲラと笑い飛ばしてしまえないで、背なかに冷汗を流したりするのは、そのせいかも知れませんね。
 チンコロたちは、世界の広さを知らな過ぎます。現代の深さに不感症であり過ぎます。今、世界のインテリゼンスが問題にしている問題を、演劇の部面から取り上げて考えて見ようとするような論文ひとつ、そこには現われていません。また、現代がそのために力闘している中心的な課題に向って演劇の光線を当てて眺めようとするようなエッセイの半かけらも、そこには現われていないのです。ウソだと思われたら十年前十五年前の演劇雑誌を引っぱり出してくらべてごらんなさい。ほとんど同じなのです。中にはそういう点で退歩している現象もあります。またウソだと思ったら、現代において最も代表的に高度に強烈に生きている各界の人々に今の演劇雑誌を読ませてごらんなさい。すべてが三分もしないうちにタイクツして雑誌を投げ出してしまうでしょう。
 それほど世界から切り離され、時代から浮きあがってしまったのです。その切り離され浮きあがってしまったところで、そしてそのところだけでしか通用しない物々しいやり方で、いろんな事が論議されています。したがって、その論議から得られたいろいろの結論も他へ伝わったり作用したりする事はほとんどなく、ただ書かれ印刷されチラクラとただ過ぎ去って行くだけです。
 演劇雑誌の一つを編集なさっているあなたに向って、このような事を言うのは、非礼である以上に残酷なことだと思います。怒られてもしかたの無いことです。ただ私はあなたがたの努力を、なるべくムダにしたくないだけなのです。あなたがたは、時に御自分の仕事に空虚や憂ウツやタイクツを感じられないのでしょうか? そして、それが、われわれの演劇からも演劇雑誌からも、何か一番大事なものが失われてしまっているためではないかと考えられた事は無いでしょうか。たしかに、それは失われています。私はそう思います。それをわれわれは手に入れなければ、とてももう、やって行けないでしょう。そして、それを手に入れるためには、あなたや私――われわれに共通したものとして、先ずこの大きな喪失が痛感されることが必要だと思ったのです。

4 平和運動について――ある評論雑誌の編集者へ

 Dさん――
 ちかごろの綜合雑誌や評論雑誌に、戦争防止、世界平和運動についての文章の三つや四つ現われていない月はありません。あなたの雑誌にもほとんど毎号一篇はそれに関係のある論文や報告がのっています。一般の知識人やジャナリストたちがその目的のために作りあげた団体や組織も一つや二つではないようだし、既成の文化団体でも盛んに同じ課題をとりあげつつあります。私自身もそれらの運動の二、三につながっています。
 これは当然以上に当然のことでありますし、言うまでもなく、たいそう望ましいことです。それに異論のあろう筈はありません。この運動は今後もっといろいろの角度から、もっといろいろの部面へ向って拡げられ深められて行かなければならぬと思います。
 しかしそれとは別に(いや、それだから尚さらと言うのがホントかも知れません)、私は時々ヘンな気持になることがあるのです。これは或いは特に私だけかも知れません。と言いますのは、先日私はこの事を二、三のすぐれた知識人たちに向って持ち出してみたのですが、その人たちは私の言うことを遂に理解してくれず、ただヘンな顔をしたり困った顔をしていただけでした。私はますます妙な気がしました。そして結局これは自分の頭が悪くて、人には自明のこととしてわかっている事が自分だけにはわからないためかとも思いました。しかしとにかくわからないのは困りますし、それに世間には私の頭のような悪い頭もあるかも知れないと思われますから、それを話し出してみる気になったのです。
 それはどんな事かと言いますと、あなたも御存じのように、ジャナリズムの上やいろんな文化運動で書かれ言われているのは、その方法や手段はいろいろに違いますけれど、要するに「戦争はよしましょう」の一語につきています。中には戦争が起きないようにするために、これこれの国際機関を作れとか、これこれの運動に参加しようとか、これこれの主義を実行しようとか言ったような具体案を提出している向きもありますが、それらとてもよく観察してみると、実質的にやっぱり「戦争はよしましょう」の一語の域を出ていません。もちろん、この一語は貴重な一語であって、なんどくりかえされてもよいものですから、その事に異論をとなえる気がありよう筈がありません。しかし今どきこのスロオガンに反対な人がいるでしょうか? 戦争にはほとんどすべての人がこりているのです。なるほど或る人の調査によると、日本民衆の中に或るパアセンテイジで戦争を待ち望む気持を持った人々がいるそうですが――そして私もその事実を多少知っていますが――しかし、その調査でも明らかにされているように、そのパアセンテイジは低いし、また、それらの気持は現在の世界や国内の政治不安や生活の見通しの行詰りなどからの自暴的な脱出の手段として「戦争でもまた起きたら、なんとかなるかも知れない」と言ったふうのものです。不安定からの脱出に他の方法が見つかれば、ひとりでに解消するものです。ですからホントの意味の戦争待望とはいえないと思います。他は皆、戦争を嫌い恐れ避けたい気持を持っています。「戦争をやりましょう」と思ったり言ったりしている人がほとんどいない時に「戦争はよしましょう」というスロウガンは、スロウガンとしての意味をなさないのではないでしょうか? すくなくとも、ホントのスロウガンは、この程度のところに止まっていてはいけないのではないでしょうか?
 考えなければならぬ事は、現在は第二次世界戦争の直後ですから一般に戦争嫌悪の気持が盛んになっているのは当然ですが、しかしいつの時代にもどこででも人は一般に戦争を嫌って来ました。純粋な形で「戦争をやりましょう」と望む人間、「喧嘩が飯より好きな」人間は、メッタにいません。いればそれはアブノルマルな型にぞくします。たいがいの人間が本性において平和愛好者なのです。だのに、戦争は何度でもどこででも、はじまって来たのです。嫌っている喧嘩をツイやってしまうのです。ですから、「戦争はよしましょう」と絶えずお互いに言っている必要もあるわけですが、同時に、その程度の事を言っているだけでは実際の効果はないとも言えます。とくに現在はその程度のことを言うに止まっていてよい時ではないと思われます。希望を持ち合うことは大切ですが、その希望が決意に裏づけられないでよいものならば、誰でもどんな希望でも持ち得るわけで、それは単なる夢にしか過ぎないでしょう。必要なのは十だけの希望に十だけの決意が裏打ちされていることではないでしょうか。「戦争はよしましょう」と言う個人や団体などは、その言葉に相応するだけの決意を持っていなければならぬと私は考えます。私の疑問はそれに関してなのです。
 今まで私は、いよいよ戦争が起きそうになったら、また、戦争が起きてしまったら、自分は[#「自分は」に傍点]どうするか、自分の団体は[#「自分の団体は」に傍点]どうなるかについてハッキリした意見を聞いたことがないのです。そのことなのです。現在「戦争はよしましょう」と言ったり、それにさんせいしたりする事ほどやさしいことはありますまい。しかし、起るかもしれない戦争に反対して、実際的に自分および自分のぞくしている団体の態度を決めて、それを公表公約することは、それほどやさしい事ではありません。しかしそれをわれわれは敢えてする必要と義務があるのではないでしょうか。これは世界のために役に立つだけでなく、われわれインテリゲンチャの属性である一般的な「非行動性」からの脱却にも役立つだろうと思うのです。また、終戦後われわれの間で問題になって、スコラ哲学風にガチャガチャと談じられただけで何が何だかハッキリしたものは生まれて来なかった「主体性の問題」も、実は、この辺から具体的な答えが出て来るのではないかと思いますが、いかがでしょう? 既にもう、「それについて、俺はどうするか? あなたはどうするか?」という形で問題にしてもよい時だし、そしてそうであってこそ道理にかなった答えが出て来るでしょうし、それらの答えが横にひろくつながって多くの人々が一致した場合に、はじめてわれわれはホントの希望を持つことが出来るのではないでしょうか?
 それを、私の知っている限り、誰もがあまりしていま
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