は書きませんと言ったそうですね。その時のY君の表情や言葉つきは、ほめられたためのテレかくしのために不快をよそおったり、クソ謙遜しているような所は微塵もなく、心から自作を否定して恥じ入っていたそうですね。あなたの観察は正しいと思います。Y君には私も数回会っており、彼が正直な人間で、テラウ気持や気取る習慣やクソ謙遜をして見せる悪趣味など、ほとんど持っていない事を私は知っているのです。
そして、あなたはその事を「自分が三、四カ月前に発表した作品、しかも世評の多くが口をそろえてほめている作品について、自らあそこまで冷酷に自己批判して、あれほど根本的に否定し得る自己反省力」と言われました。その事を私は今考えているのです。もちろん、あなたの言葉そのものに、こだわろうとしているのではありません。また、もちろん、Y君のあの作品についての批評をしようと言うのでも、それについての以上のようなY君の態度を論評しようと言うのでもありません。と言うのは、私はかねてY君を良い作家だと思い、それが作品を発表して世評が良いと言うことを、よろこんでいる人間なのですから。ですから今私が考えている事は、ちょうど逆の理由から生まれて来たのです。Y君が自作への世評の良いことをそのまま喜んでいるならば、私はこんなことを考えて見る必要はなかったでしょう。つまり、彼があなたに向って自作を否定して見せたのが、実は内心で喜んでいる事を、あなたにかくすためのテライや気取りやクソ謙遜やハニカミの芝居だったのなら、むしろ私はその話を微笑して聞き流すことが出来たろうと思うのです。それがそうでなく、Y君の自己否定が真実であることを信じれば信じるほど、私は考え込まざるを得なかったのです。
それは、われわれ近代インテリゲンチャの自己反省のことです。それと、われわれ自身の主体ないし自立との関係のことです。
一般に自己反省や反省力は、人間を向上させ進歩させるための貴重な精神作用だと言われます。そして人間が向上し進歩するという事は、人間がそれ自体として豊富になり充実してより完全なものに近づくことであると共に、その人間が周囲との関係においてより自然な、より高い調和と連帯性を身につけるということだろうと思います。これを一言に言えば、より強くなるということではないでしょうか。
Y君は、彼の自己反省の中で、より強くなったでしょうか? いえ、彼はかえって弱くなってしまったように見えます。いや、単に弱くなっただけでなく、一種の腰抜けになったように見えるのです。自分が最善をつくして創りあげた物を、それから三、四カ月が経ったばかりなのに、それほど根本的に否定しなければならぬと言うのは、どういう事でしょう? 彼は作品を書く時に「あり得る」あらゆる事を考えたり見きわめたりしなかったでしょうか? どんな偉い人にもある、またどんなに注意しても避けることのできないところの盲点ということを計算に入れても、盲点による見落しは大体において部分的または第二次的なものであるのが普通であって、それほど根本的徹底的な否定を引きおこさなければならぬ理由になることは、ほとんどないのではないでしょうか? ですから、三、四カ月後になってそれほど根本的徹底的に否定しなければならぬような作品を、三、四カ月前になぜ書いたのか、どうして書けたのか、とも言えます。そんなものを書くのは、作家としてまちがいではないかという気がするのです。作家も社会的に存在しているのですから、社会的な責任は負わなければならないのですが、その責任をY君は自分勝手に逃げているようにも思われるのです。つまり極端に言えば「そんな物をドダイなんで書いて発表した?」と言われても、しかたがないのではないでしょうか? そして、三カ月前に自分のした認識や評価(=創作活動)を現在これほど完全にデングリ返すことの出来る人は、同時に現在の彼の認識や評価を又々三、四カ月後には完全にデングリ返し得る人ではないでしょうか? そして、そのような行き方が習慣化してしまったとしたならば、その当人もその人を眺めているわれわれも共に、拠るべき所を全く失ってしまって、認識や評価の不能状態に陥るのではないかと思われます。
Y君の自己批判や反省力と見えているものは、実は錯乱またはヒステリイではないでしょうか? でなければ、軽卒いな浮薄ではないでしょうか? すくなくとも、そのようなものを非常に多く含んでいるように思われます。そこからは、頼りになるものや持ちの良いものや堅実なものや――つまり「腹のたしになるもの」は何一つ生まれて来そうにありません。重大なことは、われわれ日本のインテリゲンチャが一般に、今になっても未だ、このようなエセ自己批判癖やエセ反省力を非常に豊富に持っており、かつ、それを何かすぐれたもののように考えているという事です。私自身にも、まだそれがいくらかあります。あなたにさえも、それがあるようです。気をつけようではありませんか。なぜなら、われわれ日本のインテリゲンチャを「青白く」なしてしまい、堅実な実行力や持続力を奪ってしまったのは、これだからです。今後とても、われわれを、あらゆる現実の状態に向ってインポテントになしてしまう可能性のあるのはこれだからです。
ホントの自己批判や反省は貴いものです。貴いものは、貴く扱わなければなりません。それをするに当って、われわれは誠実と真剣と責任の全部を叩きこんでするべきではないでしょうか。そうしてこそ、それは自己批判や反省という名に値いし、われわれを向上させ進歩させ、つまりより強くしてくれるでしょう。もしそうでなく、一日に八十回ほどもザンゲしつつ同時に一日に八十一回づつの罪(ザンゲの種)を犯す習慣を持った「ザンゲ病患者」のように、われわれがいとも手軽に自己批判したり反省したり、また、手軽に自己批判や反省できる事を見越して薄っぺらな腹のすわらない事を行ないつづけるならば、われわれは自分の幸福を遂に樹立し得ないだけでなく、全体をも混乱と不幸に陥れることになるでしょう。過去十年間ぐらいを取ってみても、われわれはなんと手軽に、そしてなんと度々「ザンゲ」したり「ミソギ」したり「転向」したり「転々向」したり「転々々向」したりしたことでしょう。その結果、今われわれ全体としては錯乱状態の不幸の中に落ちています。もう此処らで、よいかげんに気がついて、そんなバカな事をしなくなり、すこしはマトモに幸福になってもよい時です。それに、早くそうするように心がけないと今後もし万一にも戦争や革命といったふうの、暴力や絶対主義などが支配するような時が来でもすると、またぞろ、われわれの間に「自己批判」や「反省」が起きて転々々々向しなければならなくなり、遂にほとんど救いがたい錯乱とコントンの中にわれわれ全体を突き落す恐れがなくはないのですから、なおさらです。
そして、私が特にあなたにあてて此のことを書くのは、現在のジャナリズムの中に――雑誌や新聞の編集のしかたや、編集者たちの性質や、執筆者たちの顔ぶれや、書かれた記事や論文の内容などに――吹けば飛ぶような「転向病」や、われわれを腰抜けにしてしまうところの中途半端の「良心」や「善意」や日和見主義などが、自己批判や反省という名の下に流行しており、かつ、それをひどく良い事のように思う感傷主義もまた流行しているからです。それだけのためです。あなたやY君を傷つけたい気持など私に露ほどもないことを、どうか信じてください。
われわれは、もう、軽々しくは自己批判したり反省したりしないようにしようではありませんか。つまり、なるべく自己批判したり反省したりしないでもよいように一貫して誠実に、全身的に真剣に、事をしようではありませんか。しかし自己批判や反省をしなければならないとなったら、勇気と責任の全部を賭してそれをなし、以後同じような誤りや過ちを犯さない覚悟でしようではありませんか。そうであってこそ、われわれは幸福な真人間になることができると私は思います。いかがでしょうか?
2 論文について――ある綜合雑誌の編集者へ
Bさん――
あなたの雑誌に限らず、ちかごろの諸雑誌の論文類、ことに巻頭論文などを私はメッタに読みません。読んでもわからないし、時間がつぶれるだけで何の役にも立たないことが多いので。
いつかお目にかかった時に「あなたは読みますか?」とおたずねしたら、あなたは「いや、たいがい読みませんね」と答えられました。「すると購読者は読んでいるのでしょうか?」と私が言うと、「わが社の調査によると、百人中九十五人ぐらいは読んでいないらしい」と言われました。「そうすると、たしかに読んでいる人がどれくらいいるのでしょうか? いるならばそれはどんな人でしょう?」と私が問うと「たしかに読んでいる人が一人だけはいます。それは、その論文の筆者ですね」と答えられました。答えながら、あなたは実に完全に平静に落ちついていられました。かえって私の方が胸がドギドギした位でした。「ほとんどの人が読まないとわかっている文章に金を払ったり、それでもって巻頭を飾ったりしながら、それほど落ちついていられるのは、なかなか勇気の要る事です」と私がほめると、あなたは、はじめて我が意を得たりといったようにニヤリとして「そうです、私には勇気があります。オカシラつきの魚を持ち出して来る料理人と同じ勇気がね。カシラが食えないのは、先さまも手前たちも承知なのですよ。しかしとにかく綜合雑誌はオカシラつきの魚料理ですからねえ、なにはともあれオカシラのついている料理を好む購読者がたくさんいる限り、私の勇気も必要です」
私「でも、あなた自身が言われたように、それを読む人はごくすくないのですから、オカシラつき料理を好む人がたくさんいるというのは、あなたの幻想ではないでしょうか?」
あなた「たしかに幻想です。そしてあらゆる事に幻想は必要なんです。幻想が無いならば私たちは、なんにも出来なくなるでしょう。しかしまたこれは或る程度まで幻想ではありません。なぜならば、あなたの言うように『読』者がごく僅かしかいないのは事実ですが『購』者は相当たくさんおりますからね。だから私の方としてはチットも困りはしないのですよ」
私「しかしムダな事ですねえ。筆者たちの論文執筆に要する力を他のもっと有用な仕事に向け、論文の印刷してある紙を、たとえば学校の教科書などに使った方がよいと思いますがねえ」
あなた「ムダでは決してありませんよ。筆者たちは論文執筆で原稿料をかせいでいるじゃありませんか。それに、それを印刷した紙は、ピーナッツだとかアメだまなどを入れる袋として有効に使われているじゃありませんか。相変らずあなたは感傷的だなあ。第一、考えてもごらんなさいよ、頭のない魚を作ることが出来ますか? つまり巻頭の無い雑誌を作ることがどうして出来ます?」
かくて、あなたと私の掛合漫才じみた会話は、私が言い負かされることで終ったのですがいまだに私はシャクゼンとしません。
感傷的であるかも知れませんけれど、やっぱり私は、むやみとむずかしくわかりにくい論文などを書いて発表したり、またその発表と流布を手伝ったりする仕事は、たとえばむやみと酒に酔って人の足を踏んづけたり、人の頭をなぐりつけて持物をかっぱらったりする事と似た社会的な悪事のような気がします。「不当にわかりにくい文章を書いて発表する者は、つかまえて牢屋に入れた方がよい」とトルストイが言っていますが、日本でも早く法律でも作ってそうしたらよいと私は思います。そうすれば、さしあたり、文部省にある国語や国字を整理するための委員会と、現在の保守党政権のために非常に役立つだろうと思います。なぜなら、国語や国字がむやみにわかりにくく複雑になっているについては、この種の論文類があずかって力があるのだから、それを禁止すれば国語調査委員会の仕事はズットやりやすくなるでしょう。それから、保守党政権ではなんとかして急進派の勢力を衰えさせたいと思っていながら正面切ってダンアツすると世論がうるさいので困っているよ
前へ
次へ
全28ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング