。ただ、代表的選手的に、世間で芸術と呼んでいる仕事にたずさわっている人間を特に芸術家と言う習慣があるから、そう言っているまでなんです。
A そうすると、真人間ならば、すべてイデオローグにはなれないと言う論理的結論が生まれて来ますね?
B そうです。やっとわかりましたね。そして注意して下さい。これはあなたが前に言った、あらゆる[#「あらゆる」は底本では「あらゆ」]共産主義者は百パーセントマルクシストでは無いと言うこととつながりのある論理的結論である点にです。ですから、実を言えば、五十五パーセントだけマルクシズムを是認している人なら、共産党に入ってしまってもいいじゃないかという考え方も成り立つわけですよ。だからまた、九十九パーセントだけマルクシズムを是認している人だって共産党に入らなくてもいいという考え方も成り立つんだ。どっちでもいいじゃないか。
A ムチャ言うな!
B ムチャじゃない。わからんかなあ、おれの言ってる事が。おまえさんもスナオに考えんかい。私の言っているのはね、入ってもよいし入らないでもよいけれど、五十五パーセントの人が後になって自分の内の残りの四十五パーセントからまた九十九パーセントの人が後になって残りの一パーセントから反ゼイされて、五十五パーセントや九十九パーセントがつつきくずされてしまったり、そのために自分がひっくり返ってダラクしたりする恐れがあったりハッキリわかっていたりしていたら、入らん方がよいと言っている。それは自分のためであると共に共産党のためだろう。そして私の場合はハッキリそれがわかっているから入らんのだ。わからんか、まだ?
A わかったような、わからんようなもんだな。とにかく、あなたは少し神がかりじみている。芸術家というものは、いくらかずつ「教祖」じみているんですかね?
B えらい、それがわかったですね。たしかに教祖じみています。だから、あらゆる教祖の持っている長所と短所を持っているらしい。
A だけどソビエトロシアには教祖じみた芸術家はいませんね。それから日本の左翼作家たちも、たいがい、そうじゃない。どう思います、その点は?
B そりゃ、あたりまえでさあ。マルクスと言う教祖が一人いるんだもの。教祖が幾人も出来たら、そちらで困るだろうから、そんな奴の存在は許せないわけでしょう。
A しかし、あなたの考えでは、芸術および芸術家というものは、多かれ少なかれ、つまりが、教祖的な本質を持っていると言うのでしょう? すると、ソビエトの芸術家や日本の左翼作家は、芸術家としての本質をホンの稀薄にしか持っていないと言うわけ?
B いやそうじゃないですよ。それはこうです。芸術や芸術家は、いつでも、どこででも、政治やイデオロギイよりも差し当りは弱いのです。政治やイデオロギイは、つまり現実関係を要約したものだから、言わば鉄の棒のように強い。芸術や芸術家は、流れる水のように弱い。鉄の棒で、流れる水をなぐりつけると、水は割れたり飛び散ったりします。そういう関係です。それゆえにまた、鉄の棒が叩き割ることの出来ない大岩を、水がいつの間にか溶かし流すように、芸術と芸術家は政治およびイデオロギイが成し得ない事を成しとげる事がある――と言ったふうに実は強いのだが――差し当りの現実の中では弱いんですよ。特に現在までのソビエトロシアのように一つのイデオロギイが絶対力として支配しているところでは、弱いのです。また、或る意味で、弱いことが必要でもあるわけだ。だから見てごらんなさい、ソビエトロシヤでは、革命以来、オリジナルな芸術家たちは、ほとんどすべて、そのオリジナリティの多少に応じて、中途でツマづいています。ソビエト政治体制という鉄棒に。それはその当人のイデオロギイ的未進化や逸脱のためもあるが、必ずしもそれだけであるとは私は見ない。彼の芸術および芸術家としての本質が、いやおうなしに彼を駆って、ツマづかせるのだと思います。或る者はそのために自殺した。或る者はソビエトにあやまって、「出直し」て、それまでよりもポスタア的な芸術を作りはじめた。或る者は、最初からポスタア的な芸術だけが芸術だと「訓育」されているから、いわば最初から芸術家としては骨抜きになっています。これはソビエトロシヤだけで無く、政治というものが一つの論理的なシステムや主義でもって強力に一方的に行われるところではどこでもいつでも、そうなのです。(ナチス治下のドイツもその一例であった。)それから、日本の左翼作家たちは、それぞれ自ら、マルクシズムからの適用である社会主義的リアリズムだとか唯物弁証法的創作方法だとかで自分たちを縛り上げています。もちろん、当人たち自身は「武装」しているつもりだ。武装は常に「縛り上げ」ですからね。徳永直さんなどの小説が、部分々々は良い場合にも、全体としては、公式やポスタアを見るようにツマラなく、タイクツであるのも、そのためではないかと思います。また、中野重治さんなどが、なかなか小説が書けないのも、実はそのためではないでしょうかね。なぜなら、この中野さんという男は一種すぐれた芸術的神経を持った男のように私には見える。だから、現在みたいな政治およびイデオロギイとの関係に自分を置いとくと、芸術家中野は苦しくてたまらんのじゃないだろうかと思われるのです。そして、それは、今言ったような原因からだと思われます。それからまた、宮本百合子さんの小説がみんな、かなり上手な「タカラさがし」みたいな組立てになっていて、そのタカラさがしの手やタカラの在り場所を知らない物や気づかない間は相当におもしろいが、それらを知ってしまうと、おもしろく無くなってしまうのも、そのためのような気がします。タカラさがしの手やタカラの在り場所と私が言うのは、もちろん、唯物弁証法的創作方法や社会主義的リアリズムのことです。それから、その他のたいがいの左翼作家や左翼詩人や左翼評論家の作品が、唯単に一つの公式をいろいろにちがった人間や事件や事物に適用してみたに過ぎないと言ったふうの安易さと単調さとタイクツさを持っているのもそのせいのようですし、また、若い勤労者が自然発生的に非常にすぐれた作品を生んでも、それがいったん左翼的な文学グループに呑みこまれて意識的に左翼的な作品を書きはじめるとトタンに生長が停止してしまう事実もそれのようですし、また、比較的若い世代の共産党員の作家などが、「政治活動や経済闘争をやる時は共産党で、作家活動をするときはナンデモナイ――つまり非共産党でやる」と思ったり言ったり実行したりしているのも、そのせいのように私には思われるのです。
A わかりました。現象としては、あなたの言うような事が或る程度まで、たしかに在ることを私も認めます。しかしそれの論理づけについては、にわかにあなたにサンセイできない。とにかく、あなたの気質とそれから物の考え方は、実に根深いところの左翼に対する反感に出発しているようですねえ。
B そうでしょうか。しかし、一体全体、私が左翼に反感を抱かなければならぬどんな必然性や必要や利益が私に有るのでしょうか? それらは私に無いです。むしろ好感を持つ必要性や必要や利益の方が多いのではないかと自分では思っています。いずれにしろ、反感を抱いたから、抱いているから、こんなふうに見るのでは無いという事だけは私は確信をもって言えるんです。むしろ逆だと自分では思っています。即ち、私はたいへん微力ながら三十年近く私なりの芸術を生み出す仕事を勉強して来ました。その結果、こう考えざるを得なくなったのです。つまり私の芸術への努力が、結果として、政治およびイデオロギイと芸術および芸術家の関係について以上のように考えざるを得なくさせたのですよ。だから、私としては、自己の気質や性格などを別にすれば、芸術自体の本質の中に現実的政治およびイデオロギイとは差し当り反撥したり離反したりする必然性があるのだと思わざるを得ないわけです。そして前にも言ったように、実はそれ故にこそ、芸術は政治やイデオロギイを批判したり矯正したり鼓舞したりするエネルギイを自己の内に保持することが出来るのだ。だからこそ、芸術は短い期間の政治にとってはマイナスとして作用することがあっても、長い期間にわたってのもっと大きな意味での政治(=人間が集団をなして生活して行くためのメトーデの全部と言うことと同義に理解される政治)に対しては他のものがなし得ないような独特の貴重な奉仕をすることが出来るのだと思うのです。
A しかし政治は常に生ける今日のものですよ。そして将来の政治も今日の政治から切断されて、それと無縁のものとしては在り得ません。それが在り得るように空想して、それに対して奉仕するのだと言う美辞麗句に酔うことによって、現に今あなたがその中に生きている現実政治の可能な進歩を引きもどそうとあなたはしている。すくなくとも、現実政治をサボって、うっちゃりっぱなしにして置こうとしている。それは一言に言って保守的反動的ですよ。
B そら、出た!
A なんですか?
B いえ、今にあなたがそう言うだろうと思っていたのです。そうです。もしそれがそうならば、私は保守反動でしょう。しかし私はそうは思いませんね。むしろ芸術が政治的であるためのホントのありかたは、私のような考え方からしか出て来ません。だから現実政治の可能な進歩を引きもどそうとしているのでもサボッてうっちゃりっぱなしにして置こうとしているのでも無いと思います。もちろん、その時々の一党や一派にとっては、そうなるかも知れませんがね。そして、あなたは共産党員だから、あなたにとっては、そういう事になるでしょう。しかし私は共産党員ではありませんから、私にとってはそうはならないのです。しかし多勢に無勢でケンカにはならんです。言いたければ保守反動と言いなさい。しかしホントは私は保守でも反動でもありませんね、一党一派の進歩の味方ではないかも知れないが、人間の進歩の味方ですからね。
A すると、あなたは、何主義者です?
B 何主義でもありません。ただの人間です。真の人間――つまりホントに善良で公平で正直な人間になりたいと思っているものです。しいて名をつければ、一人の弱い人道主義者とでも言うべきかな。
A や、どうも、遂に脈は無いなあ。
B そう、遂に脈は無いようだなあ。あなたにはムダ足をさせてすみませんでした。でも念のために言っときますが、私は共産党には入りませんが、同時に保守党や反動派にも入りません。どっちにも、なれないのです。そのわけは、今まで言ったことで、わかってもらえたろうと思います。どうぞご安心ください。あなたのご友情にはお礼を言います。そのうち、あらためて、私自身の持っているヒューマニズムについての積極的な意見を聞いていただきましょう。
A さようなら。
B はい、さようなら。
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ジャナリストへの手紙



私の知っている数人のジャナリストたちへ出す手紙のいくつかを此処に並べて、ジャナリズムとそのぐるりの問題の二、三について語ってみたい。それぞれの手紙は全文ではない。また、それぞれ違った場合とちがった気分のもとに書かれたものであるため、全体として調子に統一がとれていない。

1 反省について――ある綜合雑誌の編集者へ

 Aさん――
 このあいだお目にかかった時に、あなたは作家Y君のことをほめていられました。「作品はどうも全幅的には感心できない。しかしY君の自己反省力の強さの中に現われている誠実さを自分は認める」と言われました。そして最近あなたがY君に会われた時のことを語られました。それによると、彼が三、四カ月前に発表した作品をジャナリストたちや批評家たちが、ほとんど異口同音にほめた事をあなたは知っていたので「おめでとう、よかったですね」と言ったら、Y君は恥じ入るようなまた気持の悪るそうな顔をして「いえ、あんなにほめられるのは、まちがいです。あの作品は良くない作品です。私自身あの作品は全くいやになっていて、読み返して見るのも不快です。もうあんな風な作品
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