ます?
B どうって、どうとも思いません。入りたかったら入ったらいいじゃありませんか。どっちせ、たいした事では無いですよ。あなたはそんな事をシツコク聞いて全体どうしょうと言うんです?
A あなたも文化人の一人だから、同じ文化人がこんなにハッキリした動きを示していることに無関心ではないと思うからです。それにやっぱりあなたは正直のところ共産主義のことを無視することは出来ないでしょう? それにさんせいするしないに関せずです? そうでしょう?
B それは、たしかに、そうです。世界はどうなるんだろうと考えたり、日本の社会はどうなるだろう、どうしたらいいんだろうと思ったりする時には、共産主義というものを全く無視することはできませんし、してはいけません。しかし、今、共産主義者であるあなたを相手にして語っているからこそ、この事ばかり話しているんですけれど、ふだんは実はあなたが思っていられるほど、この事を考えたり語ったりはしていないですよ。
A よござんすとも。そこで今言った人たちの事をどう思います? 聞かせて下さい。
B みんな善い人のようですね。善すぎますよ。そして、タヨリになりません。プワプワ、フラフラして、チョットした泣き落しにかけられると、たちまち「善意」のヨダレをたらして、ひっくり返ってチンチンモガをはじめる。善い人なことはわかります。しかし、一体に、風船玉みたいな善人よりも、シッカリした悪党を私は好みますし、また、その方がホントは世間の役にも立つんじゃありませんかねえ。「善」は往々にして持つべきものを持っていない状態ですからね。森田草平さんの事はよく知りません。出隆さんは、あれで「哲学者」なんですか? こないだ何かの雑誌で「富士」のなんとかを書いていられたから読んだけど、私はその中から哲学者よりも神経衰弱者を読みとりました。内田厳さんは、たしか画家ですね。それなら、ツジツマの合わないような文章など書き散らさないで、絵を描いたらどんなものだろうと思うな。と言っても、共産党に入ったが最後、出隆さんには哲学はやれなくなりますね。そして唯物弁証法の拙劣な臨床例を無数に、それこそ輪廻のように展開しはじめるでしょう。内田厳さんにはホントの絵は描けなくなりますね。そしてむやみと大きなタブロウなどに岩を様式化したりして、ポスタアを描くでしょう。そのほかに、どんな人がおりますか? ドンドン持ってきなさい。一言づつで片づけてお目にかけます。
A 荒れますねえ!
B エッヘヘ。いや、ふざけますまい。厳しゅくにやりましょう[#「やりましょう」は底本では「やりましよう」]。私のこのような考えは私の人間観から来ているのです。人間は永い間には、たしかに変りますが、それほどひどく変るものではないと私は思っているのです。人間が短時日のうちに非常に変ってしまうという事はめったに無い事で、往々にして非常に、また急に変ったと見るのは、表面だけかまたは一面だけかまたは自身が変ったと思っているだけの場合が多い。これが先ず私の人間観の第一。次ぎに、その人間の正体はその時その時の横のひろがりに示されますが、同時にタテの流れに示されます。むしろ、タテの流れの中に真の正体がよけいに示される。半年や一年を取って人の正体を判断しようとすると、まちがいやすいが、五年十年二十年のその人の歩いた道を取って判断すれば、たいがい、まちがわないのです。人は半年や一年は自分をも人をもゴマかすことが出来るが、五年十年とゴマかすことは出来ないのです。だから私は人を見るのに、今彼がなんであるかを調べるのと同時に、いや今彼がなんであるかを正確に知るためにも、五年十年二十年以来の彼が何であったかを重要視します。人というのは、他人も自分もです。先ず他人の事を言えば、たとえば十年前に左に寄った自由主義者であって、六年前にファッショであって四年前から共産主義者になったというような人を、私は信じないことにしています。もうあと五年位たってから信じてもおそくあるまいと思うものですから。また、十五年前以来、ボルセビキ革命を主張した共産主義者が三、四年前から暴力否定の議会主義の平和革命を主張しても、私は信じないことにしています。もうあと五年ばかり待ってから信じてもおそくはあるまいと思いますから。また、二十年前も十年前も五年前も帝国主義者でありファッショであった人が、どんなにイキリ立って民主主義を主張しても私が信じないことはもちろんです。これが私の人間観の第二。次ぎに私は一人の人間を一個の全体としてみます。一面または一部分では見ません。その全体のあらゆる部分を見た上でその人が何であるかを判断します。ですから、言う事とする事とがちがっていたり、外と内とがちがっていたりする人をもちろん、信用しませんが、これを判断するには、その人の言うことよりもする事を重要視し、外よりも内を重要視して判断します。共産主義者の言葉を口で言いながらファッショや専制主義者と同じような行為をする人を信用せず、それをファシストか専制主義者またはそれに近いものと判断します。その逆もまたそうです。また、外では民主主義者ないし共産主義者である人が、内に帰って来て、大したわけも無いのに妻や女中をブンナグッたり、こきつかったりしていたら、私はその人を信用せず、封建的・ブルジョア的の専制主義者だと判断します。これが私の人間観の第三条です。ほかにもありますが、今は言えません。どうです、わかってもらえましたか? そして、この三条に照し合せて考えて下さい。すると今の日本に、特にインテリの中に、私にとって如何に多くの信ずべからざる人――または信ずるのを、もう少し先に延ばして置きたい人がいるか。言うまでも無く、赤岩さんも森田さんも出隆さんも内田厳さんも、この三条のどれかに引っかかりますから、その中に入ります。わかりましたか? もちろん、私自身もその例外にはなりません。私は現在も三年前も五年前も十年前も二十年前もほとんど変りませんし(全く、それは自慢になることでは無いかもしれません)、言う事とする事がそれほどちがってもいませんし、外でミニクイように内でもミニクイ(イクォール=内が美しい位には外も美しい)人間なので私は自分を大体において信用しています。しかし、その私も、もう少し厳密にしらべて見ると、五、六年前=戦争中=かなりイカガワシイ事をしました。また、言葉ではキレイそうな事を言って、行為ではキタナイ事をしないとは言えない。また、外が立派なほど内は立派でない事もあります。残念ながらそうなのです。ですから、キマリが悪くて、半年や一年や四年位の間に、急に、あまり立派な壮大な言葉で大ミエが切れないのです。その代りまた、五年十年以前の自分の全部を、或る人たちがしているように盛大な言葉で否定することも出来ません。その両方をしている人を見ると、ですから、私は「そんなアホダラキョウがあるけえ」と言いたくなり、こっけいになり、そして時に虫のいどころが悪いと、そんな人をインチキさんと呼びたくなるのです。そう言う私も、もしかすると客観的に或る程度までインチキさんかもしれませんが、主観的にまで――つまり自分で自分のことをインチキさんと思わなければならんのは、あまりにおもしろく無いだろうと思うので、大ミエを切ったり否定遊戯をするのは、さしひかえているのです。私が共産党やその他のあらゆる党に入らないのも、私の政治ぎらいだけで無く、以上のような私の態度の中の一つですよ。もしそうで無かったら、私は共産党にでも自由党にでもトットと入っていたでしょうね。なぜなら、私はこれで、私の知っている共産党員のたいがいの者より共産主義「的」に立派ですし、また、たいがいの自由党員よりも自由主義「的」にすぐれていますからね。私の言うことがわかりますか?
A わかります。そして同感するところが多々あります。しかし、それだけでは、あなたの性格から来たあなた一個の特殊な立場の説明にはなっていても、あなたが先に言われた――芸術家はあらゆるイデオローグになれないと言う御意見の説明としてはまだ充分では無いと思いますがねえ。
B シツコイなあ。これ以上、どう言えば、わかってもらえるかなあ。ええと……あなたは、マルクスが『資本論』を書き上げた後で、友人に向って笑いながら「おれはマルクス主義者ではないよ」と言ったエピソードはご存知でしょうね?
A 知っています。
B あの話をあなたはどんなふうに思いますか?
A マルクスのシニシズムないし逆説癖から生まれた軽いジョウダンだと思います。重大なこととして、ムキになって考えなければならぬ事ではありません。
B 私もそれをジョウダンだと思います。しかし、あなたほどこれを軽く見ることは私にはできません。人がジョウダン半分に言ったりしたりするチョットした事の中に案外に重大な意味があるものですからね。もちろん、この事を或る種の保守派たちがするようにマルクシズム全体の否定のための道具にしようがためではありません。むしろ、その逆に近い。と言うのは、私はマルクスの伝記を読んで、この人をあまり好きになれませんが、しかし、辛うじて積極的に嫌いにならずにいられるのは、今言ったエピソードがあるからです。それを別にしても、このエピソードの中には、非常に深い、非常におもしろい意味がふくまれているように私には思われます。言うまでもなく、いくら私が偏狭であったとしても、マルクスの真骨頂は主として『資本論』の中に示されており、マルクシズムを是非するためには『資本論』に向わなければならぬという位の事は知っています。しかし、私は人間を一個の全体として見ますから、マルクスを見るにも、『資本論』を通して見るのと同時に、このエピソードを通しても見ます。笑いながらであるけれど自分の打ち立てた体系からハミ出してしまっている自分自身を認めているマルクスを見るのです。そのハミ出してしまった部分をもひっくるめてマルクスと言う人間を見るのです。そして、おもしろいと思います。たのもしいと思います。そして人間と人生はどこまで深くどこまで偉大になり得るかわからないと思い、その事から人生に対してホントのケンソンさと同時に人間の可能性についての自信と希望を得ることができます。そして、これが芸術の態度の本質なのです。芸術家の態度の本質なのです。芸術と芸術家は、人間を頭脳だけとは見ません。生殖器だけとも見ません。それら全部が一体となったものと見ます。そしてその一体となったものは、五官の全部の算術的総和よりもさらに大きなものと見ます。また、人生社会を一つや二つや三つのイデオロギイでカヴアできるような小さいものとは見ません。それらのイデオロギイ自身がそれぞれ人生社会全部をカヴアできるのだといくら豪語しても、それがウソだと言うことを「感じ」ます。感じているからこそ、芸術家はどんなイデオローグにもなれないのです。そしてまた、そうであればこそ芸術家は人生社会をどこどこまでも発展させて無限の可能性へ向って歩いて行かせるキッカケになるところの「発見」や「発掘」をすることができるのです。ですから芸術家は本質においてイデオローグになれない「運命」を持っているのと同時に、イデオローグになってはならない「義務」を持っているのです。(きまりが悪いがチョット「歌わせて」ください。だって他に言いようが無いから)それは、人類に対する光栄ある義務です。私も及ばずながら、この義務を投げ捨てたくありません。また、これを保持することに大きな興味を持っています。ですから私はイデオローグになれないし、なりたくないのです。
A 芸術家はそれでよいかわかりませんが、芸術家でない人間は、すると、どういう事になりますか?
B すべての人が芸術家になればよろしい。また、現にすべての人が厚薄の差こそあれ、それぞれ、どうして芸術家で無いことがありましょう。その人が真人間ならばです。そうではありませんか、真人間なら、それぞれ何かを生み出しているではありませんか。ですから、私の「芸術家」は「真人間」のことなのです
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