この愛しているというか……そうなんだろう?
治子 …………(石のようになっている)……急に、なぜそんな事を、兄さん?
人見 いや、べつになんでもないんだけど……この聞いときたいんだ……そうだね?
治子 ……(かすかに、うなずく)
人見 ふん。……(黙って大豆を噛む)それを、だいじに、するんだね。……だいじにしなければならぬ事は、もしかすると、それだけしかないかも、わからない。……なんでもよい、肉体をだ。肉体の思いをだよ。……それだけしか人間にはないのかもしれない。ふん。……友吉という男は、おそろしい男だ。しかし、美しい男だ。私には、わからない。あんな人間を私は知らない。……われ、その人を知らず。この時、にわとり三度鳴きぬ。ペテロ、外に出でて、いたく哭けり。……フ、フ、フ。……(フッと治子を見て)さっき[#「さっき」は底本では「さつき」]、祈っていたね?
治子 ……ええ。
人見 ……私は、ちかごろ、祈れなくなってしまった。……祈っていても、すぐに、なんか、けんとうちがいのような気がするんだ。相手がまちがっているような気がする。……(キョトリキョトリと暗い周囲を見まわす)……祈らなきゃならんのは、もっと[#「もっと」は底本では「もつと」]、べつに有るんじゃないだろうか? ……(恐怖に満ちた目で治子が彼を見つめている。人見も治子の顔に目を止める。兄妹が、ジッと見合っている。……そこへ、はじめ遠くから、次第に近く鳴り響いてくるサイレン。それにつれて、かなり離れたところで、監視員が情報と警報をどなっている声)
治子 ……(耳をすまして聞いていたがいきなり)空襲のようです。
人見 たしかに、けんとうちがいだ。
治子 ……(その兄のサクランしたような表情をして動かないで坐っている姿を、ジッと見るが、戸外の気配を察して、ローソクの光を吹き消す。まっくらになる)……兄さん。
人見 うん?
[#ここから3字下げ]
(サイレンの音つづく。……戸外遠く監視員の警報伝達の声。それも、やむ。静かになる)
[#ここで字下げ終わり]
人見 (まっくらな中で)……あんなにカタクナな人間を、私は知らない。あんな柔和な、おとなしい人間が、どうして、あんなふうになるんだろう? ……私にはわからない。……あの男のいっていることは、正しいのだ。あの男の信仰は単純なものだけど、まちがっては居ないのだ。……それを、そんなふうに教え、そんな信仰をあの男にあたえてやったのは、この私だ。……そして私は今、それがみんな、まちがっていたから、転向しろとあの男にいいきかせている。そんな信仰は、みんなウソだから、捨てろといっている。……フフフ。……あの男は聞かない。私が今そんな事をいうのは、悪魔にとりつかれたためだといってる。そして私は、祈れなくなってしまっている。なにもかもを、疑いはじめている。……それが、みんな悪い人間の悪い行いを見たためではなくて、正しい人間の正しい行いを見たためだ。……私を地獄に落したのは悪魔ではなくて、天使だ。……私をダラクさせたのは、疑いではなくて、信仰だったのだ。……ユダがもし、キリストに逢ったり、キリストを信じたりしなかったら、悪人にならないですんだのではないだろうか? ……私の信仰をつつきこわしてしまったのは、片倉の信仰だ。まるで神さまのようなあいつの強い信仰が、私をドブの中に叩きこんでしまったのだ。……弱いため? 私があの男よりも弱いだけのためというのか? そんな事はない。だつて、それなら、私以外のすべてのキリスト教徒はどうなんだ? みんな弱いためなのか? ……弱いだけのために、戦争をしているのか?……そんな事はない。それが人間なんだ。弱いとしても、それが人間の普通なのだ。それが人間の肉体だ。……そんなふうに肉体をこさえた者のせいだ。……つまり、あなたのせいだ。つまり、それは、あなただ。……あなたが居て、そして人間がいて、原罪が生れたのではない。人間が出来た時に、人間の肉体が生れた時に、その肉体それ自身が原罪なんだ。つまり、あなた自身が、そのままで原罪それ自体なのだ。神の反対物として罪が有るのではなくて、神自体がそのままで、そして、その総量が、罪と悪それ自体で、罪の総量だ。……そうでなければ、カンジョウが合わない。そうでなければ、あなたは、あんまり、エテカッテだ。
治子 (くらやみの中で)……兄さん! よして。もう、よして。
人見 ……(しばらく黙っている。高射砲が鳴りはじめる。それを蔽うて、襲って来た飛行機の爆音。それから、ショウイダンを[#「ショウイダンを」は底本では「シヨウイダンを」]落しているジャージャーという音。それらの音を聞きながら、暗い中で二人は動かない)……ごらん、そうじゃないか。……ほら! ……すべての物を作りたもう。いいかね、すべての物だよ? ……だから、そうなんだ。そうでなければ、カンジョウが合わない。……神は悪だ。そして善だ。善で悪だ。ハッキリというと、だからなんでもないんだ。つまり、無だ。プラス・マイナス、ゼロだ。……そう思いたいんだ、実は。ところが、思えない。……ざんねんだが、どうしても、思えない。……どこかにいらっしゃる。それが、私にわかる。……やっぱり、どこかに居るんだ。……そして、こっちを見ている。……どっか片隅に居てコッソリこっちを見ている。……(立ちあがっている。その時、照明弾の強い青い光が、窓を照らし出して、室内をカッと明るくする)……じゃまっけだ。じゃまだ。片隅にコッソリかくれていて人間のすることにケチをつける。
治子 兄さん!(空襲と兄への二重の恐怖のために、兄の顔と、窓の外を見くらべつつ、これも立上っている)
人見 よけいな事だ! オセッカイだ! そうじゃないか。……あなたを隅っこから引っぱり出して来て、しめ殺してやりたい!(兄妹の顔を真青に照らし出している強い光)

        6

[#ここから2字下げ]
 片倉一家の壕舎。
 地中に掘りさげたものではなくて、傾斜地に作った横穴壕を、すこし掘りひろげて三畳ぐらいの広さにしたもの。土の上に板を敷きならべ内部の一隅にフトンをしいて、両眼をギッシリとホウタイした俊子が寝ている。母親のリクは、その枕もとに坐って、口の中でブツブツいっている。父親の義一は、こちらの片隅にすえた石油箱に向って、時計の修理をしている。入口に近い、焼けた木の根に、きたない訓練服にゲートルで、よごれたリュックをわきに置いて、たった今よそから帰って来たらしい、憔悴した明。酔っている。それに向って立っている工員姿の北村。
 午後の陽がひどく明るく静まりかえっているために、焼けくずれた傷痕のなまなましさが、光景の上にも人々の姿や表情の上にも、かえってクッキリと現われている。
[#ここで字下げ終わり]

明 ……(抑揚なくノロノロと)……だから、……だから死ねば、いいんだろう?
北村 そんな君、そんなふうに――
明 死んじまやあ、いいんだろう? いいじゃねえか、それで! んだから、俺あ志願したんだ。許可がおりるのを待っているんだ、だから。……死ねばいいんだ。ヘイチャラだよ、死ぬことなんか!
北村 そりゃ、俺だって――しかたがねえからね。それに今となっては、工場で働いていたって、ブーッと来れば、いつなんどき[#「いつなんどき」は底本では「いっなんどき」]、それっきりにならんとも限らないからね。同じことなら、一日も早く出かけちゃった方がいいもんなあ。……しかし俺のいってるのは、そうやって明ちゃんが買い出しに行ったり――酒のんだりして、ヤケみたいになっているの、つまらんと思うから――
明 そうだよ、俺あカツギ屋だよ。酒も飲むよ。いいじゃねえか。なにが悪いんだい?
北村 いや、悪いというんじゃねえけどさ――
明 そいじゃ、俺んちじゃ、どうして食って行きゃいいんだよ? 三月に焼け出されてからこっち[#「こっち」は底本では「こつち」]、(壕舎の中をアゴでしゃくって見せて)……これだぜ。オヤジは、あれで仕事をしているみたいだけど、なんにもしてや[#「してや」は底本では「してゃ」]しないんだ。人の話も聞いちゃいねえ、ああして時計をいじくりながら、兄きの事ばっかり考えているんだ。そうかといって俺がチョウヨウの芝浦の荷かつぎにクソマジメに毎日行って稼いだって、一日に十五円だよ。そいつを又、親方が三割ぐらいピンはねるから、手取十円だ。十円で四人口がどうしてまかなえるんだよ、え、北村君?
北村 ……そりゃ、そういわれりゃ、なんともいいようがねえけどさ、でもつらいのは君んとこだけじゃないと思うんだ。今となっちゃ、みんな、どこの家でも無理に無理をしてだなあ、なんとかガンバッて行かないといけないと思うから。そりゃ君、自分一人や自分のうちだけの問題じゃない、国ぜんたいが、ノルかソルかのさかい目に来ているんだから、そこを君――
明 (歌う)米は百円する、ヤッコラサノサってんだ! ヘッヘヘ、なによいやあがる、主食の配給でもチャンとしてからにしろい。見ろ、軍需成金と軍人だけは食いぶくれていやあがるんだ。説教が聞いてあきれらあ。ほしがりません勝つまでは、一億一心バンバンザイとね! 
北村 困るなあ、そんなに荒れちゃ――だれも説教なんかしてやしないじゃないか。
明 ほっといてくれよ! 第一、君あ、なんでそんなに此処へ来ちゃ、そんな事ばかりいうんだ? うるせえぞ!
北村 そりゃ君――おれたち若いもんが、お互いに今しっかりしないと、えらい事になってしまうと思うからだよ。
明 ウヘッヘッヘ! 国士かい君あ? いつから、そうなった?
北村 そんな――そんなんじゃねえよ。俺あ、君や友ちゃんの友達だから、それだから、心配になるからだよ。友ちゃんは、まあ、自分の考えでもってあんなふうになってしまったんだから、しかたがないとして――
明 あいつの事をいうのは、よせ。
北村 だからさ――俺だけじゃないんだよ。会社でも仕上や組立の方の連中の中で、君に同情して、なんとかしようと話し合ってるのが、かなり居るんだ。
明 同情? 同情たあ、なあんの事だい?
北村 同じように働いている者どうしが、だって[#「だって」は底本では「だつて」]、お互いに助け合うのは、とうぜんじゃないか。今こんなふうに世の中が戦争一方になっているからって、労働者がお互いに助け合って行かなけりゃならんのは、ならんと思うんだよ。
明 よし、おもしれえ! そんじゃいうぜ。そんなら、そんならだな、なぜ俺を、みんなで、あんなにイジメぬいて、追い出しちまったんだ?
北村 そりゃ君、そんな連中も居るさ。いや、大部分がそんな連中だ。そりゃ、しかたがないじゃないか、世間いっぱんが、こんなふうだし、みんな戦争で気が立っているんだから。しかし、そうでない者だって居たんだ、それは君だって知ってる筈じゃないか。
明 黙っていたんだ、そんな連中は。そうじゃないか! いくら居たって、知らん顔してりゃ、居ないのも同じだい。俺あ、兄きの事をいってんじゃないぜ。兄きみたいなキチガイ野郎を、みんなが憎むのは、とうぜんだ。俺だって憎むもの。いや、誰よりも俺が一番憎んでいるかもしれない。憎い! ……だけど、この俺に、どんな罪が有るんだ? 俺が、どんな悪いことをしたんだ? 俺が、どういうわけで、みんなからイジメられなきゃならねえんだ? なあに、兄きは兄きで、今に法律で処置される。されなかったら、俺が処置してやらあ。やるとも! だけど、だけどね、北村君、仲間から、つまり君のいう、同じ労働者どうしからだよ、ただ、ただ、兄きの弟だという理由だけで、あんなにイジメられ、ヒドイめに逢ったという事は、コタエたよ! ああ、コタエたとも! 忘れられねえや! あれ以来、俺あ、どんな人間も、どんな事も、信用する気がなくなっちまったよ。ああ、もうごめんだあ! んだから、早く出征して、死んじまうんだ!(焼けた木のカブにかじりついてすすり泣く)いいや、出征なんかどうでもいい、ここにこうしている所を、ガシャーンと一つ、バクダンをおっことして
前へ 次へ
全18ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング