を一々引きのばして長いものに出かす時日と根気があれば日本一の大文豪に候。このうちにて物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千万|粒《りゅう》のうち一つ位が生育するものに候。然しとにかく妙な気分になり候。小生はこれを称して人工的インスピレーションとなづけ候。小生如きものは天来のインスピレーションは棚の御牡丹と同じ事で当にならないから人工的にインスピレーションを製造するのであります。近頃は器械で卵をかえすインキュベトーというものがあります。文明の今日だから人為的インスピレーションのあるのももっともでしょう。そこでこの七月には何でも四篇ばかりかく積りです。前にいう漫然たる恵比寿《えびす》ぎれのようなものは雲の如くあるがさてまとまったものは一つもない。どれを纏めようか、またどう纏めようかその辺は未だ自分でも考えて居ないのであります。実は来学年の講義を作らなければ大雄篇をかくか大読書をやる積りだが講義という奴は一と苦労です。これは八月に入ってからかき出す積りです。
伝四は文学士になり候。小生も文学士に候。して見ると伝四と僕とは同輩に候。同輩である以上はこれから御馳走の節は万事割前に致そうかと存候。
小生は生涯に文章をいくつかけるかそれが楽しみに候。また喧嘩が何年出来るかそれが楽しみに候。人間は自分の力も自分で試して見ないうちは分らぬものに候。握力などは一分でためす事が出来候えども自分の忍耐力や文学上の力や強情の度合やなんかは、やれるだけやって見ないと自分で自分に見当のつかぬものに候。古来の人間は大概自己を充分に発揮する機会がなくて死《し》んだろうと思われ候。惜しい事に候。機会は何でも避けないで、そのままに自分の力量を試験するのが一番かと存候。『坊ちゃん』を毎号御広告に相成るのは恐れ入りましたね。しかも『坊ちゃん』が下落して四十銭になるに至ってはいよいよ恐れ入りましたね。まだ大分残っていますか。
「猫」を英訳したものがあります。見てくれというて郵便で百ページばかりよこしました。難有い事であります。然し人間と生れた以上は「猫」などを飜訳するよりも自分のものを一頁でもかいた方が人間と生れた価値があるかと思います。小生は何をしても自分は自分流にするのが自分に対する義務でありかつ天と親とに対する義務だと思います。天と親がコンナ人間を生みつけた以上はコンナ人間で生きて居れという意味より外に解釈しようがない。コンナ人間以上にも以下にもどうする事も出来ないのを、強いてどうかしようと思うのは当然天の責任を自分が脊負って苦労するようなものだと思います。この論法からいうと親と喧嘩をしても充分自己の義務を尽して居るのであります。天に背いても自分の義務を尽して居るのであります。況《いわ》んや隣り近所や東京市民や日本人民や乃至《ないし》世界全体の人の意思に背いても自分には立派に義理が立つ訳であります。これではちと気焔が高過ぎましたね。少々ひまになったから余計な事を書きます。
昔はコンな事を考えた時期があります。正しい人が汚名をきて罪に処せられるほど悲惨な事はあるまいと。今の考は全く別であります。どうかそんな人になって見たい。世界総体を相手にしてハリツケにでもなってハリツケの上から下を見てこの馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい。もっとも僕は臆病だから、本当のハリツケは少々恐れ入る。絞罪位な所でいいなら進んで願いたい。
四方太先生いよいよ文章論をかき出しましたね。あれを何号もつづけたらよかろう。もっとも文章論と申すほどな筋の通ったものではない、全く文話という位なものですな。鳴雪老人のは例によって読みません。『漾虚集』を御批評下さってありがたい。ことに野菜づくしはありがたい。『中央公論』にね、「大魚に呑まれたる人」という小説がありますよ、伊藤銀月という人のかいたものです。随分妙な事をかきますね、然し中々新しい形容の言葉があって刺戟の強い文章です。序に読んで御覧なさい。
色々かきましたね。いくらでもかけばいくらでも書けるがまずよしましょう。
どうです一日どこかで清遊を仕ろうじゃありませんか。頓首。
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七月二日[#地から3字上げ]夏金生
虚子大人
○
明治三十九年七月十七日(葉書)
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拝啓「猫」の大尾をかきました。京都から帰ったらすぐ来て読んで下さい。明日は所労休みだから明日だと都合がいい。
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十七日[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜清様
○
明治三十九年七月十九日(ハガキ)
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昨日は失敬。その節御話し致候『ホトトギス』の寄贈所は小石川区久堅町七十四番地五十二号菅虎雄方に候間宜敷様御取計願上候。以上。
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七月十九日[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜清様
○
明治三十九年八月三日(端書)
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拝啓 碧梧桐の送別会へはついに出られず失敬致候。文学士|森田白楊《もりたはくよう》なるものあり。小生の教えた男なるが今度作文の本を作るとかにて『墨汁一滴』のなかを二、三滴、君の文を一篇、僕の「猫」を一頁ほどもらいたいと申してきたり。どうか承諾してやって下さい。寒月来って今度の「猫」を攻撃し森田白楊これに和す。漱石これに降る。ただ今『新小説』の奴を執筆中あつくてかけまへん。艸々の頓首。
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八月三日[#地から3字上げ]金奴
虚子庵二階下
○
明治三十九年八月十日(葉書)
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先刻はありがとう存じます。その節の馬の鈴と馬子唄の句は、
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春風や惟然《いねん》が耳に馬の鈴
馬子唄や白髪《しらが》も染めでくるゝ春
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と致し候。やはり同程度ですか。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜清様
○
明治三十九年八月十一日(葉書)
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拝啓 昨日の駄句「花嫁の馬で越ゆるや山桜」を、「花の頃を越えてかしこし馬に嫁」と致し候が御賛成下さい。これは几董《きとう》調です。前のと伯仲の間だと仰せられては落胆します。「御前《ごぜん》が馬鹿ならわたしも馬鹿だ、馬鹿と馬鹿なら喧嘩だよ。」今朝こういううたを作りました。この人生観を布衍《ふえん》していつか小説にかきたい。相手が馬鹿な真似をして切り込んでくると、賢人も已《やむ》を得ず馬鹿になって喧嘩をする。そこで社会が堕落する。馬鹿はなるほど社会の有毒分子だという事を人に教えるのが主意です。まず当分はこのうただけうたっています。小説にしたら『ホトトギス』へ上《あげ》ます。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜清様
○
明治三十九年八月三十一日(封書)
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先生驚きましたね。僕の第三女が赤痢の模様で今日大学病院に入院したという訳ですがね、ことによると交通遮断になるかも知れません。小供の病気を見ているのは僕自身の病気よりよほどつらい。しかも死ぬかも知れないとなるとどうも苦痛でたまらない。もしあの子が死んで一年か二年かしたら小説の材料になるかも知れぬが、傑作などは出来なくても小供が丈夫でいてくれる方が遥かによろしい。到底「草枕」の筆法では行きません。「猫」の代正に頂戴難有候。漠然会なるものが出来るよし出られればいいが。
『新小説』は出たが振仮名の妙癡奇林《みょうちきりん》なのには辟易しました。ふりがなはやはり本人がつけなくては駄目ですね。
もう九月になる。講義は一頁もかいてない。『中央公論』は何をかいたものやら時間がなさそうだ。これで小供の病気がわるければ僕は何も出来ない。『中央公論』には飛んだ不義理が出来る。
然し交通遮断はちょっと面白い。あまり人がきすぎて困るからたまには交通遮断をして見たいと思います。
野間《のま》先生が「草枕」を評して明治文壇の最大傑作というて来ました。最大傑作は恐れ入ります。寧ろ最珍作と申す方が適当と思います。実際珍という事に於ては珍だろうと思います。
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八月三十一日[#地から3字上げ]金
虚子先生
○
明治三十九年九月三日(封書)
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拝啓 御手紙ありがたく候。病人は存外よろしく候。この分にては一命だけはたすかる事と存候。ただ今の処交通遮断なれど好《いい》加減に出たり這入ったり致居り候。寅彦、「嵐」と題する短篇を送りこし候。例の如く筆を使わないうちに余情のある作物に候。十月分の『ホトトギス』に御掲載被下べくや。御郵送申上候。今日『中央公論』の末尾に小生らの作を読者に吹聴する所を観て急に『中央公論』へかくのがいやになり候。何ぼほめられるがいいと申してああいわれて一生懸命に十月号に書いてやろうという気にはなれなく候が如何。今度滝田に逢ったらあまり広告が商売的だと申してやろうと存候。以上。
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九月二日夜[#地から3字上げ]金
虚子庵
○
明治三十九年九月十一日(封書)
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拝啓 来る二十六日の能に御招き被下難有奉深謝候。西洋人も定めてよろこぶ事と存候。もっとも通弁を仕るのは少々閉口に候。あの番組のうちで一つも見たものも読んだものもありません。橋口は兄の方ですか弟の方ですか。小児《こども》病気は日にまし快方。小生見舞に参り候えどもまだ一度も語《ことば》を交せたる事なし。「草枕」の作者の児だけありて非人情極まったもの也。すると今度は妻のおやじが腎臓炎から脳を冒かされたとか何とか申す由。世の中も多忙なものに候。小生も御客の相手で一人を暮らして居る様也。驚いたのは今日女記者の中島氏とか申す人が参られたる事也。この女「猫」を愛読して研究する由。「草枕」でも読んでくれればいいのに。『二六』をすぐ買ってよみました。あの人は面白い考を持って居るがあまり学問のない人と思います。然しよく趣味を解する人であります。今度の『中央公論』に「二百十日」と申す珍物をかきました。よみ直して見たら一向つまらない。二度よみ直したら随分面白かった。どういうものでしょう。君がよんだら何というだろう。またどうぞよんで下さい。さようなら。
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九月十日[#地から3字上げ]金
虚子庵梧下
○
明治三十九年九月十三日(葉書)
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西洋人にはまだ逢わんから逢って椅子《いす》が欲しいかどうか聞いて見ましょう。日本ずきだから坐るというかも知れない。三崎座で「猫」をやる由なるほど今朝の新聞を見たら広告があった。寺田も知らせて来ました。然も忠臣蔵のあとだから面白いと書いて来ました。「猫」が芝居になろうとは思わなかった。上下二幕とはどこをする気だろう。僕に相談すれば教えてやるのに。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜清様
○
明治三十九年九月十四?日(葉書)
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今夜三崎座の作者|田中霜柳《たなかそうりゅう》という人が来て「猫」をやるから承知してくれといいました。仕組もききました。二、三助言をしました。苦沙弥が喧嘩をする所がある呵々。
見に来いというた。どうです。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜清様
○
明治三十九年九月十八日(葉書)
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ぼくの妻の父死んで今週は学校を休む事にした。その外用事|如山《やまのごとし》。三崎座を見たいが行けるかしら。もし行けたら御案内を仕る積りなり。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜清様
○
明治三十九年九月十九日(封書)
[#ここから1字下げ]
拝啓
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