漱石氏と私
高浜虚子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)疎《うと》き

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)子規|居士《こじ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)るゐ/\
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  序

 漱石氏と私との交遊は疎《うと》きがごとくして親しく、親しきが如くして疎きものありたり。その辺を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料としてただ追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる当時の事情は、ほぼ此の書によりて想察し得可《うべ》し。
  大正七年正月七日
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[#地から5字上げ]ほととぎす発行所にて
[#地から3字上げ]高浜虚子
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   漱石氏と私

    一

 今私は自分の座右に漱石氏の数十本の手紙を置いて居る。近年はあまり人の手紙は保存することをしないけれども、十年前頃までは先輩の手紙の大方保存しておいた。それは一纏《ひとまと》めになって古い行李《こうり》の中に納められてある。今度漱石氏が亡くなったのに就いて家人の手によって選り出されたものが即ち座右にあるところの数十通の手紙である。まだ年月の順序でそれを排列することもしないでいるのであるが、ちょっと手にとってみたところでは大方漱石氏が「猫」を書くようになってから以来一両年間の手紙で、それ以前の手紙は極めて少いようである。そうして漱石氏が朝日新聞に入社してその紙上以外に筆を執らぬようになってから後はまた著しくその数を減じている。
 私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大学の帽子を被《かぶ》っている姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家《うち》の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規|居士《こじ》が帰省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって、松山鮓《まつやまずし》とよばれているところの五目鮓が拵《こしら》えられてその大学生と居士と私との三人はそれを食いつつあった。他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生は遥《はる》かに大人びた文学者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に来たのであったろうか。それはその後《のち》しばしば氏に会しながらも終《つい》に尋ねてみる機会がなかった。やはり休みを利用しこの地方へ来たついでに帰省中の居士を訪ねて来たものであったろうか。その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残っておらぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をとっていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸《はし》をとるのであった。それから両君はどういうようにして、どういう風に別れたか、それも全く記憶にない。ただその時私は一本の傘を居士の家に忘れて帰って来たことと、その次ぎ居士を訪問してみると赤や緑や黄や青やの詩箋《しせん》に二十句ばかりの俳句が記されてあった、それを居士が私に見せて、「これがこの間来た夏目の俳句じゃ。」と言ったことを覚えて居る。どんな句があったか記憶しないが何でも一番最初に書いてあった句が鶯《うぐいす》の句であったことだけは記憶して居る。
 その後も子規居士の口から漱石氏に就いての話はしばしば聞いた。極く真面目に勉強する人で学校の成績が常にいいということや、学資を得るために早稲田の専門学校に教えに行っているということや、その他今記憶に残ってはいないけれどもいろいろの話を聞いた。居士がその親友として私に話した人の名前はあまり沢山なく、菊池謙二郎、秋山|真之《さねゆき》、その他二、三の人であったが、同じ文学に携わる者としては夏目という名前がしばしば繰返された。
 それから三、四年経って明治二十八年に私は松山に帰省した。私は明治二十五年に松山を出て京都に遊学し、それから仙台、東京と処を替えたのであったが、この明治二十八年に帰省した時に、漱石氏は大学を出て松山の中学校の教師になっていたので、それを訪問してみることを子規居士から勧められた。三、四年前一度居士の宅で遇《あ》った大学生が夏目氏その人であることは承知していたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐ったままで碌《ろく》に談話も交えなかった人のことであるから、私は初対面の心持で氏の寓居《ぐうきょ》を訪ねた。氏の寓居というのは一番町の裁判所の裏手になって居る、城山の麓《ふもと》の少し高みのところであった。その頃そこは或る古道具屋が住まっていて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下宿生活をして居ったのであった。そこはもと菅《かん》という家老の屋敷であって、その家老時代の建物は取除けられてしまって、小さい一棟の二階建の家が広い敷地の中にぽつんと立っているばかりであったが、その広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑につづいている松の林もあった。裁判所の横手を一丁ばかりも這入《はい》って行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建の家があった。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に残って居らん。多分古道具屋の上《かみ》さんが、
「夏目さんは裏にいらっしゃるから、裏の方に行って御覧なさい。」とでも言ったものであろう、私はその家の裏庭の方に出たのであった。今言った蓮池や松林がそこにあって、その蓮池の手前の空地の所に射※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《あずち》があって、そこに漱石氏は立っていた。それは夏であったのであろう、漱石氏の着ている衣物《きもの》は白地の単衣《ひとえ》であったように思う。その単衣の片肌を脱いで、その下には薄いシャツを着ていた。そうしてその左の手には弓を握っていた。漱石氏は振返って私を見たので近づいて来意を通ずると、
「ああそうですか、ちょっと待ってください、今一本矢が残っているから。」とか何とか言ってその右の手にあった矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらって発矢《はっし》と放った。その時の姿勢から矢の当り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映った。それから漱石氏はあまり厭味《いやみ》のない気取った態度で駈足《かけあし》をしてその的のほとりに落ち散っている矢を拾いに行って、それを拾ってもどってから肌を入れて、
「失敬しました。」と言って私をその居間に導いた。私はその時どんな話をしたか記憶には残って居らぬ。ただ艶々《つやつや》しく丸髷《まるまげ》を結《い》った年増《としま》の上《かみ》さんが出て来て茶を入れたことだけは記憶して居る。
 この古道具屋の居たという家は私にも縁のある家で、それから何年か後にその家や地面が久松家の所有になり、久松家の用人をしていた私の長兄が留守番|旁々《かたがた》其所《そこ》に住まうようになって、私は帰省する度《たび》にいつもそこに寐泊りをした。即ち漱石氏の仮寓していた二階に私はいつも寐泊りしたのであった。それから私の兄が久松家の用人をやめて自分の家に戻って後、そこには藤野|古白《こはく》の老父君であった藤野|漸《すすむ》翁が久松家の用人として住まっていた。大正三年の五月に私は宝生新《ほうしょうしん》氏(漱石氏の謡の師匠)や、河東碧梧桐《かわひがしへきごとう》君や、次兄|池内信嘉《いけのうちのぶよし》やなどと共に松山に帰省したことがあった。それは池内の企《くわだて》で松山で能を催すことになって一同打連れだって帰省したのであったが、その時宝生氏を始め一同は藤野氏の所に集って申合わせをした。もっともそれは例の二階建の小さい家の方ではなくって、久松家の所有になってから直ぐその家に隣ってやや広い座敷が二間ばかりある時々の集会などに用うる一棟の別座敷が作られた、その方に集って申合せをしたのであった。その申合せをして居る時に、藤野氏の家人の声がして、
「今一人の書生さんが見えて、夏目さんがどうとか仰しゃるのですが……」とその意味を解しかねたように言った。藤野翁はそれに答えて、
「それは何か間違であろう、河東さんや高浜さんはおいでになって居るが、夏目さんはおいでになっていない、とそう返事をおし。」と言った。一座の人は皆黙々として思いもよらぬその話にあまり意をとめなかったようであったが、私は二十年前のことがたちまち頭に閃《ひらめ》いて、
「それは夏目君が以前この家に居たことがあった、ということに就いて何か訊《き》きに来たのであろう。」と言った。
「夏目君がここにいたとは?」と藤野翁は私の顔をいぶかしそうに見た。その他の人も皆不思議そうに私の顔を見た。そこで私は、
「とにかくその書生さんに会って見ましょう。」と藤野氏の家人に言って、下駄を突っかけて表に出て見た。そこには大学の制帽を被った一人の書生さんが突っ立っていた。
「どういう御用ですか。」と訊《き》いてみたら、
「私は夏目先生の著作を愛読しているものですが、神経衰弱に罹《かか》って一年ばかり学校を休んでいる間に所々を旅行して今度この地に来たのです。先生のお書きになった何かの記事のうちに此家《ここ》に下宿していられたということがあったように記憶していたのでどんな所かその跡が見たくて来たのです。」ということであった。そこで私はその書生さんを案内して、まだ形の残っている射※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]の辺から例の大きくない二階建などを見せた。その書生さんはあまり多く語りもせずに帰って行った。その時名刺を貰ったけどもその名前は格別記憶にも残っていなかった。が、その翌年発行所の電話のベルが鳴って、
「私は渡辺と言っていつか松山でかくかくのことをしてもらった者であるが、一度夏目先生にお目にかかりたいと思う。お紹介が願えないでしょうか。」ということであった。私は承知の旨を答えた。私の書いた紹介状を渡辺自身が取りに来たのはその日かその翌日かのことであった。その後渡辺君のことはまた考える機会もなかったのであるが漱石氏の葬式の時、青山の斎場に丁度私の傍に立っていた一人の青年がその渡辺君であって久し振りに挨拶をした。それから最近一月十日の日附の郵便が鎌倉の私の案頭《あんとう》に落ちた。それはこういう手紙であった。

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拝呈
 私は大正三年の春先生に松山で御目にかかり、四年の十二月に夏目先生に紹介していただいたものでございます。先生の御蔭で夏目先生に御目にかかる事が出来て大変悦んで居りました処、夏目先生は死なれましてまた寂寞《せきばく》を感ずるようになりました。遠慮であったのと御邪魔してはならぬという考えから度々《たびたび》は参りませんでしたが、比較的に親しく御話を承り少しは串戯《じょうだん》も申しましたが、死なれて急に何となく物足らないような心地になり、東京に居ってもつまらないような心になりました。それと同時に、今まで運命とかいうような事は全く考えた事もなかったのですが少しは運命という事を考えるようになりました。私が松山へ行ったのは数年前『坊《ぼっ》ちゃん』を読んだ事がありましたため、その跡を尋ねに松山へ行きたいという心が自然にその年の春浮んで来たのです。同時に先生が御郷里の松山へ帰って御出《おい》でだとは思いもそめなかった事で
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