あります。それに夏目先生の下宿の跡を尋ねて廻って居った時先生に御目にかかるを得たのは如何に考えても不思議な運命だと思われます。それのみならず紹介していただいて一ヶ年の後夏目先生が死なれたという事がまた奇しく思われます。昨年十二月九日に死なれるのが天命であったとすれば、御生前に御目にかゝるために松山へ行きたいという心が三年の春に浮んだのであるかも知れぬと思います。考えれば如何にも妙です。どんな力が働いてこんな事が出来るのかちょっとも知れませぬ。しかし何はともあれ先生に紹介していただいた事は常に深く感謝しております。この冬休暇に帰って猟をして居るうち今日山鳥が一羽とれましたから御礼の印に御送り致します。ツグミではないから安心して食って下さいませ。
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一月十日[#地から3字上げ]義雄
高浜先生
私から言っても丁度松山に帰っていて、然《しか》も以前漱石氏の寓居であった所に行っていた時に、渡辺君が漱石氏の寓居の跡を訪ねて来たということは奇縁といわねばならぬ。山鳥は早速調理して食った。旨《うま》かった。ツグミ云々《うんぬん》とあるのは漱石氏が胃潰癰《いかいよう》を再発して死を早めたのはツグミの焼鳥を食ったためだとかいう話があったのによるのであろう。
二
明治二十九年の夏に子規居士が従軍中|咯血《かっけつ》をして神戸、須磨と転々療養をした揚句《あげく》松山に帰省したのはその年の秋であった。その叔父君にあたる大原氏の家《うち》に泊ったのは一、二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移った。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった。
私はその当時の実境を目撃したわけではないが、以前子規居士から聞いた話や、最近国へ帰って極堂《きょくどう》、霽月《せいげつ》らの諸君から聞いた話やを綜合して見ると、大体その時の模様の想像はつくのである。子規居士は須磨の保養院などにいた時と同じく蒲団《ふとん》は畳の上に敷き流しにしておいてくたびれるとその上に横《よこた》わり、気持がいいと蒲団の上に起き上ったり、縁ばな位までは出たりなどして健康の回復を待ちつつあったのであろう。それから須磨の保養院に居る頃から筆を執りつつあった「俳人蕪村」の稿を継ぎ、更に「俳諧大要」の稿を起すようになったのであった。子規居士が帰ったと聞いてから、折節帰省中であった下村|為山《いざん》君を中心として俳句の研究をしつつあった中村|愛松《あいしょう》、野間|叟柳《そうりゅう》、伴狸伴《ばんりはん》、大島|梅屋《ばいおく》らの小学教員団体が早速居士の病床につめかけて俳句の話を聞くことになった。居士は従軍の結果が一層健康を損じ、最早《もは》や一図に俳句にたずさわるよりほか、仕方がないとあきらめをつけ、そうでなくっても根柢からこの短い詩の研究に深い注意を払っていたのが、更に勇猛心を振い興して斯道《しどう》に力を尽そうと考えていた矢先であったので、それらの教員団体、並びに旧友であるところの柳原極堂、村上霽月、御手洗不迷《みたらいふめい》らの諸君を病床に引きつけて、殆んど休む間もなしに句作をしたり批評をしたりしたものらしい。その間漱石氏は主として二階にあって、朝起きると洋服を着《つけ》て学校に出かけ、帰って来ると洋服を脱いで翌日の講義の下調べをして、二階から下りて来ることは少なかったが、それでも時々は下りて来てそれらの俳人諸君の間に交って一緒に句作することもあった。子規居士はやはり他の諸君の句の上に○をつけるのと同じように漱石氏の句の上にも○をつけた。ただ他の人は「お前」とか「あし」とか松山言葉を使って呼び合っている中に、漱石氏と居士との間だけには君とか僕とかいう言葉を用いていた位の相違であった。漱石氏はこれらの松山言葉を聞くことや、足を投げ出したり頬杖をついたりして無作法な様子をして句作に耽《ふけ》っている一座の様子を流し目に見てあまりいい心持もしなかったろうが、その病友の病を忘れているかの如き奮闘的な態度には敬意を払っていたに相違ない。殊に漱石氏は子規居士が親分らしい態度をして無造作に人々の句の上に○をつけたり批評を加えたりするのを、感服と驚きと可笑味《おかしみ》とを混ぜたような眼つきをして見ていたに相違ない。殊《こと》にまた自分の句の上に無造作に○がついたり直《ちょく》が這入ったりするのを一層不思議そうな眼でながめていたに相違ない。
「子規という男は何でも自分が先生のような積りで居る男であった。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏点をつけたりする。それはいいにしたところで僕が漢詩を作って見せたところが、直ぐまた筆をとってそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴って見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだから Very good と書いて返した。」と言ってその後よく人に話して笑っていた。
後年になって漱石氏の鋭い方面はその鋒先《ほこさき》をだんだんと嚢《ふくろ》の外に表わし始めたが、その頃の――殊に若年であった私の目に映じた――漱石氏は非常に温厚な紳士的態度の長者らしい風格の人のように思われた。自然子規居士の親分気質な動作に対しても別に反抗するような態度もなく、俳句の如きは愛松、極堂、霽月らの諸君に伍《ご》して子規居士の傘下《さんか》に集まった一人として別に意に介する所もなかったのであろう。のみならず、この病友をいつくしみ憐れむような友情と、その親分然たる態度に七分の同感と三分の滑稽《こっけい》味を見出す興味とで、格別|厭《いや》な心持もしないでその階下に湧き出した一箇の世界を眺めていたものであろう。そうして朝暮出入している愛松、極堂らの諸君とは軌道を異《こと》にして、多くの時間は二階に閉籠《とじこも》って学校の先生としての忠実なる準備と英文学者としての真面目な修養とに力を注いでいたのである。後年『坊っちゃん』の一篇が出るようになってから、この松山中学時代の漱石氏の不平は俄《にわ》かに明るみに取り出された傾きがあるが、当時の氏にはたといそれらの不愉快な心持が内心にあったとしても、それらの不愉快には打勝ちつつ、どこまでも真面目に、学者として教師として進んで行く考であったことは間違いない。大学を中途で退学して新聞社に這入って不治の病気になって居た子規居士と、真直に大学を出て中学校の先生としていそしみつつあった漱石氏とは、よほど色彩の変った世界を、階子段一つ隔てた上と下とに現出せしめて居った訳である。然《しか》しそれがまた後年になってある点まで似《にか》よった境界に身を置いて共に明治大正の文壇の一人者として立つようになったことも興味あることである。
子規居士がこの家に居ったのはおよそ一ヶ月位のことであったかと思う。これは最近帰省した時に極堂、霽月らの諸君に聞いた話であるが、その一ヶ月ほどの滞在の半ば以上過ぎた頃のことであったろう、ふと俳句の話が写生ということに移って、ぜひとも写生をしなければ新しい俳句は出来ないという居士の主張を明日は実行して見ようということになって、その翌日天気の好いのを幸に居士は極堂その他の諸君と共に珍らしく戸外に出て、稲の花の咲いて居る東郊を漫歩して石手寺の辺まで歩いて行き、それからまた同じ道を引き返して帰って来た。居士の、
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南無大師石手の寺や稲の花
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などという句はこの時に出来た句であるそうな。今から見ると写生写生といいながらなおその手法は殻を脱しない幼稚なものであるが、とにかく写生ということに着眼して、それを奨励皷舞したことはこの時代に始まっているのである。それから無事に宿まで帰って来て極堂君らも皆自分の家に帰ったのであるが、極堂君は晩餐《ばんさん》をすましてから昼間の尽きなかった興をたどりつつ、また居士の寓居に出掛けて行ったところが、居士は病床に寝たままで枕元の痰吐きに沢山咯血をしていた。枕頭についているものは上野の未亡人ばかりであった。居士が低い声で手招ぎするので極堂君が傍に行って見ると、それは氷嚢《ひょうのう》と氷を買って来てくれというのであった。そこで極堂君は取るものも取り敢えず氷嚢と氷を買って来たのであったが、その留守中に大原の叔母君と医者とが来て居った。その咯血は長くはつづかなくって、それから間もなく東京に帰るようになったのであった、ということであった。
漱石氏がよくまた話して居ったことにこういう話がある。
「子規という奴は乱暴な奴だ。僕ところに居る間毎日何を食うかというと鰻《うなぎ》を食おうという。それで殆んど毎日のように鰻を食ったのであるが、帰る時になって、万事頼むよ、とか何とか言った切りで発《た》ってしまった。その鰻代も僕に払わせて知らん顔をしていた。」こういう話であった。極堂君の話に、漱石氏は月給を貰って来た日など、小遣をやろうかと言って居士の布団の下に若干の紙幣を敷き込んだことなどもあったそうだ。もっとも東京の新聞社で僅《わず》かに三、四十円の給料を貰っていた居士に比べたら、田舎の中学校に居て百円近い給料を貰っていた漱石氏はよほど懐ろ都合の潤沢なものであったろう。
私は明治三十年の春に帰省した。その時漱石氏をその二番町の寓居に訪問した。その時私の眼には漱石氏よりも寧ろ髪を切っている上野未亡人の方が強く印象された。今から考えてみてその頃は四十前後であったろうかと思われるが、白粉《おしろい》をつけていたのか、それとも地色が白かったのか、とにかく私の目には白い顔が映った。漱石氏のところで午飯の御馳走になった時に、この色の白い髪を切った未亡人は給仕してくれた。最近私が松山に帰っている時に次のような手紙が案頭に落ちた。
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博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのうからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるという騒ぎです。松山は如何ですか。けさちょっと新聞で下関までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月号の『ホトトギス』を昨日拝見したものですから。その上一月号の時も申上げたかった事をうっちゃっていますから。
一月号の「兄《けい》」では私上野の祖父《おじ》を思い出して一生懸命に拝見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚《おうよう》な人だったと思いますが、祖母を先だて総領息子を亡くして、その上あの伯母に家出をされ、従姉に(あなたが私と一しょに考えていらっしった)学資を送るようになってからは、実に細かく暮していたようです。そして自分はしんの出た帯などをしめても月々の学資はちゃんちゃんと送っていましたが、その従姉は祖父のしにめにもあわないで、そしてあとになって少しばかりの(祖父がそんなにまでして手をつけなかった)財産を外《ほか》の親類と争うたりしました。漸《ようや》く裁判にだけはならずにすんだようでしたが、そのお金もすぐ使い果して今伯母も従姉も行方不明です。
おはずかしい事を申上げました。いつもお作を拝見しては親類中の御親しみ深い御様子を心から羨しく思っていたものですから、ついついぐちがこぼれました。おゆるし下さいまし。
あの一番町から上って行くお家《うち》に夏目先生がいらっしゃった事は私にとってはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになったのか何《なん》にも覚えておりません。ただ文学士というえらい肩書の中学校の先生が離れにいらっしゃるという事を子供心に自慢に思っていただけです。先生はたしか一年近くあの離れ
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