に御住居なすったのですのに、どういう訳か私のあたまには夏から秋まで同居なすった正岡先生の方がはっきりうつっています。――松山のかただという親しみもしらずしらずあったのでしょうが――夏目先生の事はただかあいがっていただいたようだ位しきゃ思い出せません。照葉《てりは》狂言にも度々《たびたび》おともしましたが、それもやっぱり正岡先生の方はおめし物から帽子まで覚えていますのに(うす色のネルに白|縮緬《ちりめん》のへこ帯、ヘルメット帽)夏目先生の方ははっきりしないんです。ただ一度伯母が袷《あわせ》と羽織を見たててさし上げたのは覚えています。それと一度夜二階へお邪魔をしていて、眠くなって母家へ帰ろうとしますと、廊下におばけが出るよとおどかされた事とです。それからも一つはお嫁さん探しを覚えています。先生はたぶん戯談《じょうだん》でおっしゃったのでしょうが祖母や伯母は一生懸命になって探していたようです。そのうち東京でおきまりになったのが今の奥様なんでしょう。私は伯母がそっと見せてくれた高島田にお振袖《ふりそで》のお見合のお写真をはじめて千駄木のお邸で奥様におめにかかった時思い出しました。
 実は千駄木へはじめて御伺いした時は玄関払いを覚悟していたのです。十年も前に松山で、というような口上でおめにかかれるかどうかとおずおずしていたのですが、すぐあって下すって大きくなったねといって下すった時は嬉しくてたまりませんでした。そして私の姓が変った事をおききになって、まあよかった、美術家でなくっても文学趣味のあるお医者さんだからとおっしゃったのにはびっくりいたしました。先生は私が子供の時学校で志望をきかれた時の返事を伯母が笑い話にでもしたのをちゃんと覚えていらっしったものと見えます。松山を御出立の前夜湊町の向井へおともして買っていただいた呉春《ごしゅん》と応挙《おうきょ》と常信《つねのぶ》の画譜は今でも持っておりますが、あのお離れではじめて知った雑誌の名が『帝国文学』で、貸していただいて読んだ本が『保元平治物語』と『お伽草紙《とぎぞうし》』です。
 興にのって大変ながく書きました。おいそがしい所へすみません。あの二番町の家は今どうなったことでしょう。長塚さんもいつかこちらへお帰りに前を通ってみたとおっしゃっていました。あの離れはたしか私たちがひっこしてから、祖父の隠居所にといって建てたもののようです。襖《ふすま》のたて合せのまんなかの木ぎれをもらっておひな様のこしかけにしたのを覚えています。
 ほんとにくだらない事ばかりおゆるしを願います。松山にはどれ位御逗留かも存じません。この手紙どこでごらん下さるでしょう。
 寒さの折からおからだをお大切に願います。
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[#地から3字上げ]よりえ

 この手紙をよこした人は本誌の読者が近づきであるところの「中《なか》の川《かわ》」「嫁《よめ》ぬすみ」の作者である久保よりえ夫人である。この夫人はこの上野未亡人の姪に当る人である。ある時早稲田南町の漱石氏の宅を訪問した時に席上にある一婦人は久保猪之吉博士の令閨《れいけい》として紹介された。そうしてそれが当年漱石氏の下宿していた上野未亡人の姪に当る人だと説明された時に、私は未亡人の膝元にちらついていた新蝶々の娘さんを思い出してその人かと思ったのであったがそれは違っていた。文中に在る従姉とあるのがその人であった。このよりえ夫人の手紙は未亡人のその後をよく物語っている。あの家は今は上野氏の手を離れて他人の有となっているという事である。
 この三十年の帰省の時、私はしばしば漱石氏を訪問して一緒に道後の温泉に行ったり、俳句を作ったりした。その頃道後の鮒屋《ふなや》で初めて西洋料理を食わすようになったというので、漱石氏はその頃学校の同僚で漱石氏の下《もと》にあって英語を教えている何とかいう一人の人と私とを伴って鮒屋へ行った。白い皿の上に載せられて出て来た西洋料理は黒い堅い肉であった。私はまずいと思って漸く一きれか二きれかを食ったが、漱石氏は忠実にそれを噛《か》みこなして大概|嚥下《えんか》してしまった。今一人の英語の先生は関羽のような長い髯《ひげ》を蓄えていたが、それもその髯を動かしながら大方食ってしまった。この先生は金沢の高等学校を卒業したきりの人であるという話であったが、妙に気取ったように物を言う滑稽味のある人であった。この人はよく漱石氏の家へ出入しているようであった。この鮒屋の西洋料理を食った時に、三人はやはり道後の温泉にも這入った。着物を脱ぐ時に「赤シャツ」という言葉が漱石氏の口から漏れて両君は笑った。それはこの先生が赤いシャツを着て居ったからであったかどうであったか、はっきり記憶に残って居らん。ただ私が裸になった時に私の猿股にも赤い筋が這入っていたので漱石氏は驚いたような興味のあるような眼をして、
「君のも赤いのか。」と言ったことだけは、はっきりと覚えている。後年『坊っちゃん』の中に赤シャツという言葉の出て来た時にこの時のことを思い合わせた。
 ある日漱石氏は一人で私の家《うち》の前まで来て、私の机を置いている二階の下に立って、
「高浜君。」と呼んだ。その頃私の家は玉川町の東端にあったので、小さい二階は表ての青田も東の山も見えるように往来に面して建っていた。私は障子をあけて下をのぞくとそこに西洋|手拭《てぬぐい》をさげている漱石氏が立っていて、また道後の温泉に行かんかと言った。そこで一緒に出かけてゆっくり温泉にひたって二人は手拭を提げて野道を松山に帰ったのであったが、その帰り道に二人は神仙体の俳句を作ろうなどと言って彼れ一句、これ一句、春風|駘蕩《たいとう》たる野道をとぼとぼと歩きながら句を拾うのであった。この神仙体の句はその後村上霽月君にも勧めて、出来上った三人の句を雑誌『めざまし草《ぐさ》』に出したことなどがあった。

    三

 漱石氏から私に来た手紙の、今|手許《てもと》に残っている一番古いのは明治二十九年十二月五日附で熊本から寄越したものである。まずその全文を掲げることにしよう。

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来熊《らいゆう》以来は頗《すこぶ》る枯淡の生涯を送り居り候。道後の温泉にて神仙体を草したること、宮島にて紅葉《もみじ》に宿したることなど、皆過去の記念として今も愉快なる印象を脳裡にとどめ居り候。今日『日本人』三十一号を読みて君が書牘体《しょとくたい》の一文を拝見致し甚だ感心いたし候。立論も面白く行文は秀《ひ》でて美しく見受申候。この道に従って御進みあらば君は明治の文章家なるべし。ますます御奮励のほど奉希望候。先日『世界の日本』に出でたる「音たてて春の潮の流れけり」と申す御句甚だ珍重に存じ候。子規子が物したる君の俳評一読これまた面白く存じ候。人事的時間的の句中甚だ新にして美なるもの有之《これあり》候様に被存《ぞんぜられ》候。然し大兄の御近什中《ごきんじゅうちゅう》には甚だ難渋にして詩調にあらざるやの疑を起し候ものも有之様存候。(心安き間柄失礼は御海恕|可被下《くださるべく》候)所謂《いわゆる》べく[#「べく」に白丸傍点]づくしなどは小生の尤も耳障に存候処に御座候。然し「われに酔ふべく頭痛あり」、また「豊年も卜《ぼく》すべく、新酒も醸《かも》すべく」などは至極結構と存じ候。凡て近来の俳句一般に上達、巧者に相成候様子に存じ候。『読売』などに時々出るのは不相変《あいかわらず》まずきよう覚え候。まずしといえば小生先頃自身の旧作を検査いたし、そのまずきことに一驚を喫し候。作りし当時は誰しも多少の己惚《うのぼ》れはまぬかる可《べか》らざることながら、小生の如きは全く俳道に未熟のいたすところ実に面目なき次第に候。過日子規より俳書十数巻寄贈し来り候。大抵は読みつくし申候。過日願上候『七部集』及『故人五百題』(活字本)は御面倒ながら御序《おついで》の節御送り願上候。子規子近来の模様如何。此方より手紙を出しても一向返事も寄越さず、多忙か病気か無性《ぶしょう》か、或は三者の合併かと存候。小生僻地に罷在《まかりあり》、楽しみとするところは東京俳友の消息に有之、何卒《なにとぞ》爾後《じご》は時々景気御報知|被下度《くだされたく》候。近什少々御目にかけ候。御暇の節|御正《ごせい》願上候。小生蔵書印を近刻いたし候。これまた御覧に入れ候。頓首。
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   十二月五日[#地から3字上げ]漱石
     虚子様

 その奥には漾虚碧堂蔵書という隷書《れいしょ》の印が捺《お》してある。さてこの手紙を読むにつけていろいろ思い出すことがある。神仙体云々のことは既に前文に書いた通り、漱石氏と道後の温泉に入浴してその帰り道などに春光に蒸されながら二人で神仙体の俳句を作ったのであった。それから次ぎに宮島にて紅葉に宿したることなど云々とあるのはまた別の思出がある。私は春から秋までかけて松山におったのではなかったように思う。私のところに残って居る漱石氏のただ一枚の短冊にこういう句が書いてある。それは「送別」としてあってその下に、
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永き日や欠伸《あくび》うつして別れ行く  愚陀
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と書いてある。愚陀《ぐだ》というのはその頃漱石氏は別号を愚陀仏といっていたのであった。この俳句から推して考えると、私は春に一度東京へ帰ってそれからまた何かの用事で再び松山に帰ったものと思われる。この短冊から更に聯想するのであるが、その頃漱石氏は頻《しき》りに短冊に句を書くことを試みていた。こう考えているうちに、だんだん記憶がはっきりして来るように覚えるのであるが、確か漱石氏は高浜という松山から二里ばかりある海岸の船着場まで私を送って来てくれて、そこで船の来るのを待つ間、
「君も書いて見給え。」などと私にも短冊を突きつけ、自分でもいろいろ短冊を書いたりなどしたように思う。それがこの春の分袂《ふんべい》の時であったかと思う。それから秋になってまた帰省した時に、私と漱石氏とは一緒に松山を出発したのであった。私は広島から東に向い、漱石氏はそこから西に向って熊本に行くのであったが、広島まで一緒に行こうというので同時に松山を出で高浜から乗船したのであった。――確かその頃もう高浜の港は出来て居ったように思うのであるが、あるいは三津ヶ浜から乗ったのであったかもしれぬ。三津ヶ浜というのは松山藩時代の唯一の乗船場で、私たちが初めて笈《きゅう》を負うて京都に遊学した頃はまだこの三津ヶ浜から乗船したものであった。そこは港が浅くってその上西風が吹く時分は波が高いのでその後高浜という漁村に新しく港を築いて、桟橋に直ぐ船を横づけにすることが出来るようにしたのである。確か明治二十九年頃には、もうその港が出来ておったように思う。高浜といったところでその地名と私の姓とは何の関係もある訳ではない。――さてその広島に渡る時に漱石氏はまだ宮島を見たことがないから、そこに立寄って見たいと思う、私にも一緒に行って見ぬか、とのことであったので私も同行して宮島に一泊することになったのであった。その時船中で二人がベッドに寐る時の光景《ありさま》をはっきりと記憶している。宮島までは四、五時間の航路であると思うが、二人はその間を一等の切符を買って乗ったものである。それは昼間であったか夜であったか忘れたが多分夜であったのであろう。一等客は漱石氏と私との二人きりであった。漱石氏は棚になっている上の寐台《ねだい》に寐《い》ね、私は下の方の寐台に寐《ね》た。私はその寐台に這入る前にどちらの寐台に寐る方がえらいのかしらんと考えているうちに、漱石氏は、
「僕は失敬だがこちらに寐ますよ。」と言って棚の方の寐台に上った。そうすると上の方にあるのだからその棚の方の寐台がえらいのかなと思いながら私は下の方の寐台に這い込んだ。上であろうが下であろうがこんな寐台のようなものの中で寐たのは初めてであったので、私はその雪白の布《きれ》が私の身体を包むのを見るにつけ大《おおい》に愉快だと思った。そこで下から声を
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