かけて、
「愉快ですねえ。」と言った。漱石氏も上から、
「フフフフ愉快ですねえ。」と答えた。私はまた下から、
「洋行でもしているようですねえ。」と言った。漱石氏はまた上から、
「そうですねえ。」と答えた。二人はよほど得意であったのである。その短い間のことが頭に牢記されているだけで、その他のことは一向記憶に残って居らん。宮島には私はその前にも一、二度行ったことがあるために、かえってその漱石氏と一緒に行った時のことは一向特別に記憶に残って居らん。それからいよいよ宮島か広島かで氏と袂《たもと》を分ったはずであるがその時のことも記憶にない。
 その時漱石氏は松山の中学校を去って新しく熊本の第五高等中学校の教師となって赴任したのであった。私はそれから東京の下宿に帰り、漱石氏は熊本の高等学校に教鞭をとって、互に暫《しばら》く無沙汰をして居ったものであろう。此の手紙のうちで漱石氏が褒《ほ》めてくれた書牘体の一文云々というのは、その頃雑誌『日本人』に連載して居った俳話の一章でその後民友社から出版した我ら仲間の最初の俳句集『新俳句』の序文にしたものがそれである。それから『世界の日本』云々とあるのはその頃|竹越三叉《たけこしさんさ》氏が『世界の日本』という雑誌を出して居って、その文芸欄に我ら仲間の俳句が出たり、子規居士が我ら仲間の三、四人を批評する文章を載せたりしていた。それを言ったものである。その我ら仲間の批評というのは今俳書堂から出版している『俳句界四年間』の中《うち》に収録してあるはずである。私の句が難渋云々とあるのはその頃私はいわゆる極端な新傾向であって、調子も五七五では満足せず、盛にべく[#「べく」に白丸傍点]という字などを使用したものであった。当時碧梧桐君の文章のうちにも、
「乱調は虚子これを創《はじ》め云々」などと言って居る。今から考えると可笑《おか》しいようである。漱石氏はその乱調を批難しているのである。それからこの手紙の末段を読むに到って、漱石氏がその頃案外俳句に熱心であったことに一驚を喫するのである。実はその頃の私たちは俳句に於ては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いていなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○や△をつけて返したものであった。そこで漱石氏の乱調に対する批難もそれほど重きを置かず、漱石氏が東京俳友の消息に憧れているということに就いてもそれほど意をとめなかったのであった。果して氏の要求通り私は東京俳友の消息を氏に知らすことをしたかどうか。いわゆる東京の俳友の消息なるものが私にとってそれほど興味あることでなかったがために、それらの通信も怠り勝ちではなかったろうかとも思う。後年は文壇の権威をもって自任した漱石氏も、その頃は僅かに東京俳友の消息を聞いて、それを唯一の慰藉とする程度にあったのだと思うと面白い。なおこの時の漱石氏の寓居は熊本合羽町二百三十七番地であった。
 次ぎに私の手にある漱石氏の手紙は明治三十一年一月六日の日附のものである。それはこういう文句のものである。この間にも若干の手紙を受取ったのであろうけれども今は手許に見当らぬ。

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 其後不本意ながら俳界に遠ざかり候結果として貴君へも存外の御無沙汰申訳なく候。
 承れば近頃御妻帯の由、何よりの吉報に接し候心地千秋万歳の寿をなさんがため一句呈上いたし候。
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初鴉《はつからす》東の方を新枕《にひまくら》
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 小生旧冬より肥後小天(?)と申す温泉に入浴、同所にて越年《おつねん》いたし候。
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かんてらや師走の宿に寐つかれず
酒を呼んで酔はず明けゝり今朝の春
甘からぬ屠蘇《とそ》や旅なる酔心地《ゑひごゝち》
うき除夜を壁に向へば影法師
[#ここから1字下げ]
 御大喪中とある故
[#ここから3字下げ]
此春を御慶も言はで雪多し
[#ここから1字下げ]
 一年の計は元日にありと申せば随分正月より御出精、明治三十一年の文壇に虚子あることを天下に御吹聴|被下度《くだされたく》希望の到りに不堪候以上。
[#ここで字下げ終わり]
   正月五日夜[#地から3字上げ]漱石
     虚子君
  乍末筆御令閨へよろしく御鳳声願上候。

 不本意ながら俳句界に遠ざかったとあるのはどういう原因であったのであろう。私は氏の熊本時代の生活を審《つまびらか》にしないから分らない。この手紙の中にある俳句はどれも皆面白くない、当年の氏の俳句は決してこんなにつまらぬものではなかったと記憶する。二十九年から三十年頃私の手許に受取った句は私から子規居士に転送したり、そうでなければ当時私の受持って居った『国民新聞』の俳句欄に載せたりなどしてその結果『春夏秋冬』の中《うち》に収めたものが多いように記憶している。今|生憎《あいにく》手許に『春夏秋冬』がないが、
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累々《るゐ/\》として徳孤ならずの蜜柑《みかん》哉
[#ここで字下げ終わり]
という句の如きはその一例であったように記憶する。右の手紙は熊本県飽託郡大仁村四百一番地とある。
 次に受取った手紙は同じく三十一年の三月二十一日の日附のものである。

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 その後は存外の御無沙汰、平に御海恕|可被下《くださるべく》候。御恵贈の『新俳句』一巻今日学校にて落手、御厚意の段難有奉拝謝候。小生爾来俳境日々退歩、昨今は現に一句も無之《これなく》候。この分にてはやがて鳴雪《めいせつ》老人の跡釜を引き受くることならんと少々寒心の体に有之候。
 子規子病気は如何に御座候や、その後これも久しく消息を絶し居り候こととて、とんと様子もわからず候えども、近頃は歌壇にての大気焔に候えばまずまず悪しき方にてはなかるまじと安心いたし居り候。先は右御礼のみ、草々如斯に御座候。頓首。
[#ここで字下げ終わり]
   三月二十一日[#地から3字上げ]愚陀仏
     虚子様榻下
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梅散つてそゞろなつかしむ新俳句
[#ここで字下げ終わり]

 前にも言った通り『新俳句』は我ら仲間の一番最初の句集で、民友社から出版されたものであった。鳴雪老人の跡釜云々とあるのは、この頃鳴雪翁は暫く俳句界に遠ざかるといって、句作はもとより、俳句界との交際も絶っていられた。それを言ったものである。
 前の手紙やこの手紙から推して、この頃の漱石氏はどこまでも俳句界の仲間であると自ら考えて、句作に怠りながらもなお全然それから遠ざかってしまう考のなかったことは明白である。この手紙も前の大仁村四百一番地から出て居る。

    四

 熊本に居る頃の漱石氏は何度上京したか私はそれを知悉《ちしつ》しない。ただ今も記憶に残っている一つの光景がある。それは漱石氏が何日の何時の汽車で新橋から帰任するということを知らせて来たので私は新橋へ見送りに行った。そうして待合室に立っている洋服姿の漱石氏を見出したので汽車の出るまで雑談をしていた。いよいよ汽車が出る場合になって私は改札口まで漱石氏を見送って行った。私の外に漱石氏を見送る人は一人もない様子であったのだが、その改札口を出る時に氏は自分の切符の外に二枚の切符を持っていてそれを氏の傍に近づいて来た二人の婦人に手渡しした。そうして私と別離を叙して後に氏はその二人の婦人を随えて改札口を奥へ這入って行った。一人の婦人は二十《はたち》格好の年の若い人であった。他の一人の婦人は五十格好のやや老いた人であった。私は漱石氏の後ろ姿を見送ると同時にこの二人の婦人の後ろ姿をも見送って暫く突っ立っていた。そうしてこの二婦人が漱石氏とどういう関係の人であろうかということを考えるともなく考えた。その時の漱石氏と若い婦人の面に表われた色から推して、
「奥さんを貰ったのかな。」と考えた。奥さんを貰うというような話は今まで一|言《ごん》も聞かなかったのである。しかしながらどうもこれはそう判断するより外に考えのつけようがなかった。後になってこの想像は正しい想像であって、その若い婦人が今日の夏目未亡人、老婦人の方《かた》が未亡人の母堂であることを明かにした。
 右の光景《ありさま》を記憶して居るところから言っても、漱石氏が新妻迎えのため熊本から一度上京したことだけは疑いのない事柄であるが、その他にも上京したことがあったかどうか、それは私には分らない。
 さて私は明治三十一年の十月に『ホトトギス』を東京で発行するようになり、今までの暢気《のんき》な書生生活を改めて真面目に仕事をせなければならぬことになって、その事務所を一時神田の錦町に置き、間もなくそれを猿楽町に転じた。この猿楽町には子規居士も来るし飄亭《ひょうてい》、碧梧桐、露月《ろげつ》、四方太《しほうだ》などの諸君も熾《さか》んに出入するし、その『ホトトギス』が漸く俳句界の一勢力になって来たので、私の仕事も相当に多忙になって来た。初め『ホトトギス』を出すようになってからぜひ漱石氏にも何か寄稿をしてもらいたいという考が私にもあれば子規居士にもあった。それでこの事は私からでなく子規居士から漱石氏に依頼してやったように記憶して居る。漱石氏はそれに対して明治三十二年四月発行の『ホトトギス』第二巻第七号に「英国の文人と新聞雑誌」という表題で一|文《もん》を送ってくれた。その一篇の主意は、英国で新聞の出来た初めの頃は大方政治的なものであったが、それがだんだん発達して来るに従って、あらゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になる時代になった。それにつれて文学者と新聞雑誌との関係がだんだん密接になって来て、今日では文学者で新聞か雑誌に関係を持たないものはないようになった。とそういう意味のことを実例を引いて述べたものであった。それから同じ年の八月十日発行の二巻十一号に「小説エイルヰンの批評」という十二、三頁に渉った文章を送ってくれた。それは丁度その頃英国で評判の高い小説にエイルヰンというのがあって、それは出版になってからまだ一年も経たなかったのであるが非常な勢いで流行していた。漱石氏の注文したのは二、三版の頃であったのにそれが日本に到着した頃は十三版のものになっていた。その小説の梗概と批評とを述べたものがこの「小説エイルヰンの批評」の一篇であった。イギリス文学の主な新刊書は必ずこれを購求して読破することを怠らなかったことは漱石氏の生涯を通じて一貫した心掛であったことが此の一事を見ても分る。また漱石氏が新聞雑誌に寄稿したということは恐らく『ホトトギス』に寄せたこれらの篇をもって最初のものとすべきであろう。
 明治三十二年の十二月十一日の日附の手紙が私の手許にある。それは次のような文章である。

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 その後は大分御無沙汰御海恕|可被下《くださるべく》候。時下窮陰之候|筆硯《ひっけん》いよいよ御|清穆《せいぼく》奉賀候。さて先般来当熊本人常松|迂巷《うこう》なる人当市『九州日々新聞』と申すに紫溟吟社の俳句を連日掲載するよう尽力致しなお東京諸先俳の俳句も時々掲載致度趣にて大兄へ向け一書呈上候処その後何らの御返事もなきよしにて小生より今一応願いくれるよう申来候。右迂巷と申す人は先般来突然知己に相成候人なるが、非常に新派の俳句に熱心忠実なる人に有之、実は今回の挙なども新派勢力扶植のための計画に候。左すれば『ほととぎす』発行者などは大に声援引き立ててやる義理も有之べきかと存候。かつ九州地方は新派の勢力案外によわくほとんど俳句の何ものたるを解せざる有様に候えば、俳句趣味の普及をはかる点より論ずるも幾分か大兄などは皷吹奨励の責任ありと存候。右の理由故何とか返事でも迂巷宛にて御差出可被下候。また『日々新聞』は同人より大兄宛にて毎日御送致居候よし定めて御閲覧の事と存候。
 乍序《ついでながら》『ほととぎす』につき一寸愚見申述候間御参考被下度候。
『ほととぎす』が同人間の雑誌ならばいかに期日が後れても差支なけれど、既に俳句雑誌などと天下を
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