相手に呼号する以上は主幹たる人は一日も発行期日を誤らざる事肝要かと存候。それも一日や二日ならとにかく、十日二十日後れるに至っては、殆んど公らが気に向いた時は発行しいやな時はよす慰み半分の雑誌としか受取れぬ次第に候。もっともこれには色々な事情も可有之、また御陳述の如く期日の後れたるため毎号改良の点も可有之とは存じ候えども、門外漢より無遠慮に評し候えば頗る無責任なる雑誌としか思われず候。現今俳熱頗る高き故唯一の雑誌たる『ほととぎす』はかく無責任なるにも不関《かかわらず》売口よき次第なるべけれど若し有力な競争者出でばこれを圧倒する事もとより難きにあらざるべし。仮令《たとい》有力なる競争者が出来得ざるにせよ、敵なき故に怠るように見えるは尚更見苦しく存候。
 次に述べたきは『ほととぎす』中にはまま楽屋落の様な事を書かれる事あり。これも同人間の私の雑誌ならとにかくいやしくも天下を相手にする以上は二、三東京の俳友以外には分らず随って興味なき事は削られては如何。加之《しかも》品格が下《さが》る様な感じ致候。高見|如何《いかが》。虚子、露月が俳人に重ぜらるるは俳道に深きがため、その秋風たると春風たるとに関係なき也。天下の人が虚子、露月を知らんとするは句の上にあり。「頬をかむ」の「顔をなめる」のと愚にもつかぬ事を聞いて何にかせんや。方今は『ほととぎす』派全盛の時代也。然し吾人の生涯中もっとも謹慎すべきは全盛の時代に存す。如何。子規は病んで床上にあり、これに向って理窟を述ぶべからず。大兄と小生とはかかる乱暴な言を申す親みはなきはずに候。苦言を呈せんとして逡巡するもの三たび、遂に決意して卑辞を左右に呈し候。これも雑誌のためよかれかしと願う微意に外ならざれば不悪御推読願上候。以上。
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   十二月十一日[#地から3字上げ]漱石
     虚子様
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横顔の歌舞伎に似たる火鉢哉
炭団いけて雪隠詰の工夫哉
御家人の安火を抱くや後風土記
追分で引き剥がれたる寒かな
  正
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 当時の寓居は熊本市内坪井町七八とある。
 この手紙の初めの方にある紫溟吟社というのは、その頃地方に起った俳句団体の古いものの一つであって、この事に就いては数号前の『ホトトギス』に雪鳥、迂巷の両君が書いたことがある通り、漱石氏を中心にして起った俳句の団体であって、後には『銀杏《いちょう》』という雑誌まで出して中々盛んなものであった。文に常松迂巷とあるのは池松|迂巷《うこう》の間違いである。私はその当時雑誌発行というような事務に馴れなかった上に健康が十分でなかったので手紙などは怠り勝ちであった。もっともそれは今日になってもなおつき纏《まと》っている私の病所であるが、漱石氏などはその頃から決して人の手紙に返事を怠るような人ではなかった。殊に人に物を頼まれたりした場合は必ずその面倒を見ることを怠らなかった。漱石氏が熊本を去って後に紫溟吟社の人々も四散してしまってまた昔時の面影を見ることが出来ないようになったが、それも漱石氏のような、積極的に会の世話をしないまでも、何かと会員の面倒を見てやる中心人物がなくなったということが主な原因であったろう。次に『ホトトギス』の記事に就ての警告は、消息欄に書いた記事についての非難であった。どんな記事であったか今それを調べて見るのも馬鹿馬鹿しいような事柄であるが、消息は主として同人仲間の消息を漏らすのであったので自然楽屋落ちになることは止むを得なかったことである。子規居士は格別それを嫌いもせず、寧ろそれをよろこぶような傾きがないでもなかった。
「あまり甚だしい楽屋落は困るけれども、少し位はかえって読者にとって興味があるかもしれない。」などと言って居た。子規居士はじめわれらの仲間のものに較べて遥かに後輩である読者などは、先輩としての子規居士やその他同人らの消息を知ることは多少の興味であったに相違ないが、子規居士の同輩である漱石氏などから見たらば、定めし癪《しゃく》に障る記事が多かったろうと思う。殊にその頃のわれらは未だ二十《はたち》台の若さであったので、大した分別もなく下らぬことを言い合ってよろこんでいたものであった。そんなことが記事になって出るのを見ると漱石氏などは定めて歯の浮くような感じがしたことであったろう。
 それから漱石氏が文部省から二年間英国留学を命ぜられて洋行するようになったのは明治三十三年の九月のことであった。それに就いて漱石氏は何時上京したのか、それらのことも今ははっきりと記憶に残って居らぬ。ただある日漱石氏は猿楽町の私の家を訪問してくれて、「どこかへ一緒に散歩に出かけよう。」と言った。それから二人はどこかを暫く散歩した。そうして或る路傍の一軒の西洋料理屋に上って西洋料理を食った。これは漱石氏が留別《りゅうべつ》の意味でしてくれた御馳走であった。その帰り道私は氏の誘うがままに連立ってその仮寓に行った。そうして謡を謡った。席上にはその頃まだ大学の生徒であった今の博士寺田寅彦君もいた。謡ったのは確か「蝉丸《せみまる》」であった。漱石氏は熊本で加賀宝生を謡う人に何番か稽古したということであった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て私と漱石氏とは調子が合わなくなったので私は終に噴き出してしまった。けれども漱石氏は笑わずに謡いつづけた。寺田君は熊本の高等学校にいる頃から漱石氏のもとに出入していて『ホトトギス』にも俳句をよせたり裏絵をよせたりしていた。それが悉く異彩を放っていたので、子規居士などもその天才を推賞していた。そこで寺田寅彦君という名前は私にとって親しい名前ではあったのだが、親しく出合ったのは確かこの時がはじめてであった。近時は一体に文学者が雅号を用いぬことが流行するが、寺田君はその頃から寅彦で押し通していた。坂本君は本名の四方太《よもた》を四方太《しほうだ》と読ませていたが、寅彦君は本名そのまま寅彦で押し通したのであった。その日寅彦君は初めから終いまで黙って私たちの謡を聞いていたが、済んでから、先生の謡はどうかしたところが大変|拙《まず》いなどと漱石氏の謡に冷評を加えたりした。そうすると漱石氏は、拙くない、それは寅彦に耳がないのだ、などと負けず我慢を言ったりなどした。
「僕も洋行することになるのだったから、謡なんか稽古せずに仏蘭西《フランス》語でも習っておいたらよかった。」と漱石氏は言った。私は謡と仏蘭西語とを同格に取り扱うような氏の口吻《こうふん》をその時不思議に思ってこの一語を今も牢記している。その時氏はまた美しいペーパーの張ってある小さい鑵の中から白い粉を取り出して、それを掌《てのひら》にこすりつけて両手を擦り合わした。そうするとその白い粉がやや黒味を帯びた固まった粉になって下に敷いてある紙の上にこぼれ落ちた。
「それは何ですか。」と私は不思議そうにながめ入った。
「これは手の膏《あぶら》をとるのですよ。僕は膏手だから。」と漱石氏は応えた。
「西洋に行くとそんなものが必要なのですか。」
「貴婦人と握手などする時には膏手では困りますからね。」
 そんな会話をしたことを私は覚えている。またこの日私は西洋料理を食った時に、氏が指で鶏の骨をつまんで、それにしゃぶりつくのを見て、
「鶏はそんな風にして食っていいのですか。」と聞いたら、氏は、
「鶏は手で食っていいことになっていますよ。君のようにそうナイフやフォークでかちゃかちゃやったところで鶏の肉は容易に骨から離れやしない。」と言った。そこでこの日私は始めて、鶏を食うには指でつまんでいいことと、手の膏をとるのには白い粉をこすりつけることとを明かにして、この新洋行者の知識に敬意を表した。
 それから氏は間もなく洋行をした。

    五

 漱石氏は香港から手紙を寄越した。それは明治三十三年九月のホトトギスに載って居る。

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 航海は無事に此処《ここ》まで参り候えども下痢と船酔にて大閉口に候。昨今は大いに元気恢復。唐人と洋食と西洋の風呂と西洋の便所にて窮屈千万、一向面白からず、早く茶漬と蕎麦《そば》が食いたく候。(中略)熱くて閉口。二百十日には上海辺にて出逢い申候。
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阿呆鳥熱き国にぞ参りたる
稲妻の砕けて青し海の上
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 明治三十四年四月発行の『ホトトギス』誌上に、また氏の手紙が載って居る。

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 女皇の葬式は「ハイド」公園にて見物致候。立派なものに候。
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白金に黄金に柩《ひつぎ》寒からず
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 屋根の上などに見物人が沢山居候。妙ですな。
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凩《こがらし》の下にゐろとも吹かぬなり
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 棺の来る時は流石《さすが》に静粛《せいしゅく》なり。
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凩や吹き静まつて喪の車
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 熊の皮の帽を戴くは何という兵隊にや。
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熊の皮の頭布《づきん》ゆゝしき警護かな
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 もう英国もいやになり候。
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吾妹子《わぎもこ》を夢みる春の夜となりぬ
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 当地の芝居は中々立派に候。
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満堂の閻浮檀金《えんぶだごん》や宵の春
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 或詩人の作を読で非常に嬉しかりし時。
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見付たる菫《すみれ》の花や夕明り
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 それから明治三十四年五月、六月と引き続いて『ホトトギス』紙上には「倫敦消息《ろんどんしょうそく》」と題した長文の手紙が載って居る。これは三度に渉って氏から寄越した手紙であって、病床の子規居士を慰問の意味で、倫敦に於ける氏の生活状態を詳細に記述して来たものであった。洋行がして見たいという希望は当時の若い人の頭には一般にあった。この頃のように洋行ということが容易でなかったことと、今一つは日本の文化に現在ほど自信がなかったので、どうかして一度は洋行して西洋の文明に接して来たいという希望は現在の人よりも強かった。殊にそういう熱は常に西洋の書物に親しんでいた漱石氏よりも、かえって病床に在って俳句や和歌に親しんでいた子規居士の方に多かった。漱石氏と前後して浅井|黙語《もくご》、中村|不折《ふせつ》、相島|虚吼《きょこう》、森|円月《えんげつ》、直木|燕洋《えんよう》その他の諸君が洋行して送ってくれる一枚の絵葉書をも、居士は深い興味の眼を以て眺め入るのであった。そういう有様であったから漱石氏の倫敦に於ける下宿屋生活の模様を詳細に写生して来たこの「倫敦消息」は居士を悦ばしたことは一通りでなかった。もっともこれは病床の自分を慰めるために何か書いてくれぬかと居士の方から依頼して遣《やっ》たのであった。
 この「倫敦消息」は後年の『吾輩《わがはい》は猫《ねこ》である』をどことなく彷彿《ほうふつ》せしめるところのものがある。試みにその一節を載せて見る。

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 朋友その朋友と共に我輩が生活を共にする所の朋友姉妹の事に就ては前回に少しく述ぶるところあったが、この外に我輩がもっとも敬服しもっとも辟易《へきえき》する所の朋友がまだ一人ある。姓はペン渾名《あだな》は bedge pardon なる聖人の事を少しく報道しないでは何だか気が済まないから、同君の事をちょっと御話して、次回からは方面の変った目撃談観察談を御紹介仕ろう。抑《そもそ》もこのペン即ち内の下女なるペンに何故《なにゆえ》我輩がこの渾名を呈したかというと彼は舌が短かすぎるのか長すぎるのか呂律《ろれつ》が少々廻り兼ねる善人なる故に I beg your pardon という代りに、いつでも bedge pardon というからである。ベッヂ、パードンは名の如く如可にもベッヂ、パードンである。然し非常な能弁家で、彼の舌の先から唾液《つば》を容赦なく我輩の顔面《かお》に吹きかけて話し立てる時などは滔々滾々《とうと
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