うこんこん》として惜い時間を遠慮なく人に潰させて毫《ごう》も気の毒だと思わぬ位の善人かつ雄弁家である。この善人にして雄弁家なるベッヂパードンは倫敦に生れながら丸で倫敦の事を御存じない。田舎は無論御存じない。また御存じなさりたくもない様子だ。朝から晩まで晩から朝まで働き続けに働いてそれから四階のアッチックへ登って寝る。翌日日が出ると四階から天降ってまた働き始める。息をセッセはずまして――彼は喘息持《ぜんそくもち》である――はたから見るも気の毒な位だ。さりながら彼は毫も自分に対して気の毒な感じを持って居らぬ。Aの字かBの字か見当のつかぬ彼は少しも不自由らしい様子がない。我輩は朝夕この女聖人に接し敬慕の念に堪えん位の次第であるが、このペンに捕って話しかけられた時は幸か不幸かこれは他人に判断してもらうより仕方がない。日本に居る人は英語なら誰の使う英語でも大概似たもんだと思って居るかも知れないが、やはり日本と同じ事で国々の方言があり身分の高下がありなどしてそれはそれは千差万別である。然し教育ある上等社会の言語は大抵通ずるから差支ないが、この倫敦のコックネーと称する言語に至りては我輩には到底わからない。これは当地の中流以下の用うる語ばで字引にないような発音をするのみならず、前の言ばと後の言ばの句切りが分らない事ほどさように早く饒舌《しゃべ》るのである。我輩はコックネーでは毎度閉口するが、ベッヂパードンのコックネーに至っては閉口を通り過してもう一遍閉口するまで少々|草臥《くたびれ》るから開口一番ちょっと休まなければやり切れない位のものだ。我輩がここに下宿したてにはしばしばペンの襲撃を蒙って恐縮したのである。不得已《やむをえず》この旨を神さんに届け出ると可愛想にペンは大変御小言を頂戴した。御客様にそんな無仕付な方《ほう》があるものか以後はたしなむが善かろうと極めつけられた。それから従順なるペンは決して我輩に口をきかない。但し口をきかないのは妻君の内に居る時に限るので山の神が外へ出た時には依然として故《もと》のペンである。故のペンが無言の業《ぎょう》をさせられた口惜しまぎれに折を見て元利共取返そうという勢でくるからたまらない。一週間無理に断食をした先生が八日目に御櫃《おひつ》を抱えて奮戦するの慨[#「慨」に「(ママ)」の注記]がある。
 例の如くデンマークヒルを散歩して帰ると我輩のために戸を開いたるペンは直ちに饒舌り出した。果せるかな家内のものは皆新宅へ荷物を方付に行って伽藍堂《がらんどう》の中《うち》に残るは我輩とペンばかりである。彼は立板に水を流すが如く※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》十五分間ばかりノベツに何かいっているが毫もわからない。能弁なる彼は我輩に一言の質問をも挟さましめざるほどの速度を以て弁じかけつつある。我輩は仕方がないから話しは分らぬものと諦《あきら》めてペンの顔の造作の吟味にとりかかった。温厚なる二重瞼と先が少々逆戻りをして根に近づいている鼻と、あくまで紅いに健全なる顔色と、そして自由自在に運動を縦《ほしい》ままにしている舌と、舌の両脇に流れてくる白き唾とを暫くは無心に見詰めていたが、やがて気の毒なような可愛想のようなまた可笑しいような五目鮨司《ごもくずし》のような感じが起って来た。我輩はこの感じを現わすために唇を曲げて少しく微笑を洩らした。無邪気なるペンはその辺に気のつくはずはない。自分の噺《はなし》に身が入って笑うのだと合点したと見えて赤い頬に笑靨《えくぼ》を拵えてケタケタ笑った。この頓珍漢なる出来事のために我輩はいよいよ変テコな心持になる、ペンはますます乗気になる、始末がつかない。彼のいう所をあそこで一言ここで一句、分った所だけ綜合して見るとこういうのらしい。昨日差配人が談判に来た。内の女連はバツが悪いから留守を使って追い返した。この玄関払の使命を完《まと》うしたのがペンである。自分は嘘をつくのは嫌だ。神さまに済まない。然し主命《しゅうめい》もだし難しで不得已《やむをえず》嘘をついた。まず大抵ここら当りだろうと遠くの火事を見るように見当をつけて漸く自分の部屋へ引き下った。
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 漱石氏の一年半の英国留学中の消息は、これらの書信以外には私はあまり知らない。しかし他の留学生の多くが酒を飲んだり、球を突いたり、女にふざけたりして時日を空過する中に漱石氏は最も真面目に勉強したことだけは間違いない。漱石氏の帰朝した時にはもう子規居士は亡くなっていた。
 漱石氏の留守中、細君は子供と共に牛込の中根氏――細君の里方である――の邸内の一軒の家《うち》に居たように記憶して居る。私が氏を訪問して行ったのもその家であった。丁度私の訪問して行った時に中根氏が見えていて痩せた長い身体を後ろ手に組んで軒近く縁端に立って居ると漱石氏もその傍に立って何か話をしていた光景《ありさま》が印象されて残って居る。私も黙って漱石氏の傍に突っ立っていたのである。それから一人の若い男の人が快活に何か物を言いながら這入って来たのに対して、細君が、
「いよいよ夏目が帰って来たから御馳走《ごちそう》をしますよ……」と打ち晴れた顔をして笑いながら言った時の光景が眼に残って居る。そうして、船が長崎であったか神戸であったかに着いた時に、蕎麦《そば》を何杯とか食った上にまた鰻飯を食ったので腹を下したそうです、というような事を細君が私に話したことを記憶して居る。
 それから漱石氏は一高の教授に転じ、大学の講師をも兼ねるようになって明治三十七年の九月頃まではその教師としての職責を真面目に尽すという以外あまり文筆には親しまなかった。ただ『ホトトギス』に「自転車日記」というものを一篇書いた。それは面白いものではなかった。私は時々訪問していた。氏はその頃駒込千駄木町に住まっていた。それは太田の池の近所であった。
 ある時訪問して見ると漱石氏は留守であった。この時細君は玄関に出て来て私にこういう意味のことを話した。
「どういうものだかこの頃機嫌が悪くって困るのです。少し表てに出てお友達を訪問でもすれば慰むところもあろうと思うのですけれどもそういうことはちっともしません。それで寺田さんにもお頼みしたのですが、あなたも間《ひま》な時にはチトどこかに引張り出してくれませんか。」
とこういう意味の話であった。私はその意味を了承して帰った。そうしてそれから間もなく本郷座の芝居を見に引っ張り出した。氏は頗《すこぶ》る出渋っていたけれども終《つい》に私の言うことを聞いて出かけた。それは高田、藤沢などの壮士芝居で外題《げだい》は何であったか忘れたが、とにかく下らないものであった。氏は極めて不愉快そうな顔をしてこの芝居を見ていたが、我慢がし切れなくなって様々の冷評を試みはじめた。終《しま》いには、「君はいつもこんなものを見て面白がっているのですか。」などといって私を攻撃しはじめた。そうして中途で帰ってしまった。
 私は細君に約束した以上一度で止めてしまうわけに行かなくって更に明治座かどこかの歌舞伎芝居に一度と、能に二、三度引っ張り出した。歌舞伎芝居の方は油屋《あぶらや》お紺《こん》かなんかであったように記憶して居る。その時も、
「どこが面白いのです。」というような質問を氏は出した。私は、
「あのおいらんが二、三人も並んでいる華やかな光景がいいのです。たまにああいう刺戟を受けに来るのです。」と答えた。それには氏も首肯したようであった。氏は壮士芝居を見て居っても、
「何故あの役者はあんなに不自然な大きな声をして呶鳴《どな》るのか。」といったり、
「何故あんなにだだっ広い部屋にしたのか、何故あすこの壁があんな厭な色をして居るのか。」などといったりした。まして筋を運ぶ上の不自然な点などは非常にその気持を悪がらせた。歌舞伎の方は内容の愚劣なことは同じであっても、形の上の或る発達した美しさだけに多少の興味を見出し得たようであった。
 中で最も氏をよろこばせたのは能楽であった。
「能は退屈だけれども面白いものだ。」といって氏は能を見ることは決して拒まなかった。かくして私は比較的多く能を見に誘い出した。それで細君との約束を果すことが出来た。
 その頃私は連句を研究していて「連句論」を『ホトトギス』に載せた。明治三十七年の九月に漱石氏を訪問して見ると席上に四方太君も居った。話が連句論になった時に、鳴雪翁や碧梧桐君の連句反対論に対して氏は案外にも連句賛成論者であった。四方太君もまた賛成論者の一人であったので三人はたちまちその席上で連句を試むることになった。氏は連句の規則には不案内であったが、私の言うことを聞いて何ン遍も作りかえているうちに規則に合った句が出来た。その規則に合った句はもとよりのこと、規則に合わなくって捨てた句も、独立した一つの句としては皆|振《ふる》ったものであった。試にその一、二句を抜載して見れば、
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後の月ちんばの馬に打ち乗りて
鉄《かな》網の中にまします矢大臣
銘を賜はる琵琶の春寒
意地悪き肥後|武士《ざむらひ》の酒臭く
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 この連句を作ったことがもとになって、私と漱石氏とは俳体詩と名づくるものを作ることになった。これは連句の方は意味の転化を目的とするものであるが、十七字十四字長短二句の連続でありながら、意味の一貫したものを試みて見ようというのが主眼であって、私はそれを漱石氏に話したところが、氏は無造作に承諾した。そうして忽ち「尼《あま》」の一篇が出来上った。それは私と漱石氏との両吟であったのだが、漱石氏の句は華やかな、調子の高いもので、殊に私がまごまごして附け兼ねている間《ま》に氏はグングンと一人で数句を並べたてて行った。それから続いて「冬《ふゆ》の夜《よ》」「源兵衛《げんべえ》」なぞの、今度は氏一人で作った俳体詩が出来た。殊に「冬の夜」以下は十七字十四字の長短句の連続でなくて、五五の調子の連続であったり、五七の調子の連続であって、俳体詩という名はありながらも、最早《もはや》連句の形を離れた自由な一篇の詩であった。
 この頃われら仲間の文章熱は非常に盛んであった。殆ど毎月のように集会して文章会を開いていた。それは子規居士生前からあった会で、「文章には山がなくては駄目だ。」という子規居士の主張に基いて、われらはその文章会を山会と呼んでいた。その山会に出席するものは四方太、鼠骨、碧梧桐、私などが主なものであった。従来芝居見物などに誘い出す度《た》びに一向乗り気にならなかった漱石氏が、連句や俳体詩にはよほど油が乗っているらしかったので、私はある時文章も作ってみてはどうかということを勧めてみた。遂に来る十二月の何日に根岸の子規旧廬で山会をやることになっているのだから、それまでに何か書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ立寄るからということを約束した。当日、出来て居るかどうかをあやぶみながら私は出掛けて見た。漱石氏は愉快そうな顔をして私を迎えて、一つ出来たからすぐここで読んで見てくれとのことであった。見ると数十枚の原稿紙に書かれた相当に長い物であったので私はまずその分量に驚かされた。それから氏の要求するままに私はそれを朗読した。氏はそれを傍《かたわ》らで聞きながら自分の作物に深い興味を見出すものの如くしばしば噴き出して笑ったりなどした。私は今まで山会で見た多くの文章とは全く趣きを異にしたものであったので少し見当がつき兼ねたけれども、とにかく面白かったので大に推賞した。気のついた欠点は言ってくれろとのことであったので、私はところどころ贅文句《ぜいもんく》と思わるるものを指摘した。氏は大分不平らしかったけれども、未だ文章に就いて確かな自信がなく寧ろ私を以って作文の上には一日の長あるものとしておったので大概私の指摘したところは抹殺したり、書き改めたりした。中には原稿紙二枚ほどの分量を除いたところもあった。それは後といわず直ぐその場で直おしたので大分時間がとれた。私がその原稿を携えて山会に出たのは大分定刻を過
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