に参り候。中々上手に御座候。何と申す人にや、大蔵省へ隔日に宿直する人の由。修善寺は如何に候いしや。頓首。
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   七月二十三日[#地から3字上げ]金
     虚子先生
      ○
明治四十一年八月十九日(封書)
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 御書面拝見。『朝日』への短篇遂に御引受のよし敬承。御多忙中さぞかし御迷惑と存候。然しこれにて渋川君は大なる便宜を得たる事と存候。今日「三四郎」の予告出で候を見れば大兄の十二日の玉稿如何にもつなぎのようにて小生は恐縮仕候。全く『大阪』との約束上より出でたる事と御海恕願候。「春」今日結了。最後の五、六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。序を以て大兄へ御通知に及び候。あの五、六行が百三十五回にひろがったら大したものなるべくと藤村先生のために惜しみ候。
 昨紅緑来訪久し振に候。絽縮緬の羽織に絽の繻絆《じゅばん》をつけ候。なかなか座附作者然としたる容子に候いし。大兄を訪う由申居候参りしや。暑気雨後に乗じ捲土重来の模様。小生の小説もいきれ可申か。草々。
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   八月十九日[#地から3字上げ]金之助
     虚子先生
      ○
明治四十一年八月三十一日(封書)
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 拝啓 森田友人にて高辻と申す法学士が謡がすきで今度の日曜に僕の宅へ来て謡いたいと申すよしに候。所が先生非常の熱心家なれど今年の正月からやったのだから僕と両人《ふたり》でやったらどんな事に相成り行くか大分心細く候につき音頭取りとして御出が願われますまいか。その上高辻氏は何を稽古しているか分らず。小生の番数は御承知の通り。共通のものがなければ駄目故かたがた御足労を煩わし度と思いますがどうでしょう。この人は城数馬のおやじさんに毎晩習うんだそうです。きのうも尾上に習いました。尾上は中々うまい。
「温泉宿」完結奉賀候。趣意は一貫致し居候ように被存候が多少説明して故意に納得させる傾はありますまいか。一篇の空気は甚だよろしきよう被存候。「三四郎」はかどらず、昨日の如きはかこうと思って机に向うや否や人が参り候。これ天の呪詛《じゅそ》を受けたるものと自覚しとうとうやめちまいました。
 右当用に添へ御通知申上候。草々。
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   二百十日[#地から3字上げ]金
     虚子先生
      ○
明治四十一年十月二十三日(封書)
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 啓 寺田に聞いて見ました処小説集に名前を出す事はひらに御免蒙りたいのだそうであります。序の事は本人は知らないらしかった。然し厭でもないのでしょう黙っていました。一遍集めたものを読み直した上の事に致したいと存じます。以上。
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   十月二十三日[#地から3字上げ]金之助
     虚子様
      ○
明治四十一年十二月三十一日(封書)
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 拝啓 『ホトトギス』昨二十五日と、今二十六日をつぶし拝見、諸君子の作皆面白く候。その中《うち》で臼川のが一番劣り候。あれは少々イカサマの分子加わり居候。他は皆|真物《ほんもの》に候。
 大兄の作。先夜伺った時は少々失敬致しよく分らずじまいの処、活版になって拝見の上大いに恐縮、あれは大兄の作ったうちにて傑作かと存候。なお向後も『ホトトギス』同人の健在と健筆を祈りていささかここに敬意を表し候。他の雑誌御覧なりや。どの位の出来か彼らの得意の処を拝見致度候。以上。
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   十二月二十六日[#地から3字上げ]金
     虚子様
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 子供の名を伸六とつけました。申《さる》の年に人間が生れたから伸で六番目だから六に候。この間の旦《あした》は取消故併せて御吹聴に及候。
『ホトトギス』は広く同人の小説を掲載すると同時に大いに同人間の論客を御養成如何にや。
 楽堂《がくどう》の舞踏談など面白く候。
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      ○
明治四十三年十一月二十一日(麹町区内幸町胃腸病院ヨリ)(封書)
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 拝啓 その後は御無沙汰に打過候。修善寺にては御見舞をうけ難有候。なお入院中の事とて御礼にもまかり出ず失礼致居候。
 別封|宮寛《みやかん》と申す男より参り候。中に大兄に関する事も有之候故入御覧候。この人は昔の高等学校生にて不治の病気のため廃学致候ものなる事御覧の如くに候。かかる人の書いたものを『ホトトギス』へでも載せてやったら嬉しがるだろうと思いかたがた入御覧候。文中小生の事のみ多く自分よりいえば夫が憚《はばかり》に候。文字は別段の光彩も無之内容もそれほどには見え不申、ただ普通のものよりは幾分か新しき事あらんかと存候。
 右用事まで申上候。当節は小説も雑誌もきらいにて、日本書はふるい漢文か詩集のようなもの、然らざれば外国の小六《こむ》ずかしきものを手に致し候。それがため文海の動静には不案内に候。その方却ってうれしく候。新聞も実は見たくなき気持致候。草々頓首。
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   十一月二十一日[#地から3字上げ]金之助
     虚子様
      ○
大正二年六月十日(封書)
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 啓。「相模のちり」御採用被下候由にて難有存候。あれは未知の人なれど折角故ただ小生の寸志にてしか取計いたるまでに候。紹介様のもの御入用の由故わずかばかり認め申候。近頃一向御目にかからず、健康も時々御違和の由承り居候えども、疾に御全快の事とのみ存居候いしに、いまだに御粥《おかゆ》と玉子にて御凌ぎは定めて御難渋の事と御察し申上候。それではひとの病気処にては無之、御見舞状を受けて却って痛み入る次第に候。『ホトトギス』は漸次御発展の由これまた恭賀。小生も何か差上度所存だけはとうから有之候えども身体やら心やらその他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るようの傾《かたむき》、甚だ無申訳候。四十を越し候と人間も碌な事には出合わず、ただこうしたいと思うのみにて何事もそう出来し事無之、耄碌《もうろく》の境地も眼前に相見え情なく候。御能へは多分参られる事と存居候。万事はその節。匆々頓首。
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   六月十日[#地から3字上げ]金之助
     虚子先生座右
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   京都で会った漱石氏

 私は別項「漱石氏と私」中に掲げた漱石氏の手紙を点検している間に明治四十年の春漱石氏と京都で出会った時の事を昨日の如く目前に髣髴《ほうふつ》した。これは「漱石氏と私」中に記載してもいい事であるけれども、手紙の分量の多いために、一々その聯想を書く事は煩《わずらわ》しいので、そこにはこれを省き、別に一章としてその当時の回想を書き止めて見ようと思い立ったのである。
 それは春雨の降っている日であった。七条の停車場《すてーしょん》から乗った俥《くるま》は三条の万屋の前に梶棒を下ろした。幌《ほろ》の中で聞いている京都の春雨の音は静かであったが、それでも賑やかな通に出ると俥の轍《わだち》の音が騒々しく行き交《まじ》ってやわらかみのある京都言葉も、慌《あわただ》しげに強く響いて来るのであった。今俥の幌の中からぬけ出て茶屋の前に立った私は春めき立った京都の宿の緊張した光景を直《す》ぐ目の前に見た。二、三人の客は女中たちに送られて門前に待っている俥に乗って何処《どこ》かに出掛けて行くらしい様子であった。私の俥に並んで梶棒を下ろした俥からは、別の客が下り立って、番頭や女将から馴れ馴れしげに迎えられていた。私はその混雑の中を鞄をさげた女中の後に跟《つ》いて二階の一室に通された。客が多いにかかわらず割合広い座敷が私のために用意されていたので私の心は延び延びとした。
 私は座敷に落付くや否や其処《そこ》の硯《すずり》を取り寄せて一本の手紙を書いた。それは少し以前から此の地に来ているはずの漱石氏に宛《あ》てたものであった。下鴨の狩野亨吉《かのうこうきち》氏の家に逗留しているという事であったので、未だ滞在しているかもう行き違って帰京したか、若しまだ滞在して居るのならばこれから直ぐ遊びに行っても好《よ》い、また宿の方へ来てくれても好い、というような意味の事を書いて遣《や》った。早速漱石氏からは、まだ滞在して居る、とにかく直ぐ遊びに来ないか、という返事があった。そこで私は俥に乗って下鴨の方に出掛けた。下鴨あたりの光景は、私が吉田の下宿に居た時分に比べると非常に変化していた。以前の京都では見られなかった東京風の家が建っていた。それには大学や高等学校の先生たちが大方|住《すま》っている模様であった。軒々に散見する名札の中には大分知った名前があった。その二十四番地に狩野という名札を見出して私は案内を乞うた。狩野氏の事に就いては漱石氏から時々話を聞いていた。現に私は漱石氏の最も信頼する友人として明治三十年頃紹介状をもらった事すらあった。もっとも私はその頃|差支《さしつかえ》があってその紹介状はそのままにして狩野氏に逢う機会を見出さなかった。その紹介状は現に私の手元に残っていて、そうして初めて狩野氏に逢ったのは実に漱石氏の瞑目《めいもく》するその当夜であった。閑話休題として、その狩野氏は妻君を持たないで独身生活をつづけているという事を私は予《かね》て漱石氏から聞いていたが、春雨の降って居る門内の白い土を踏んでその玄関に立った時私はあたかも寺の庫裡《くり》にも這入ったような清い冷たい感じを受けた。玄関には支那の書物らしいものがやや乱雑に積重ねてあって、古びた毛氈《もうせん》のような赤い布が何物かの上に置いてあった。その毛氈の赤い色が強く私の目を射た。それは確かに赤い色には相違なかったが、少しも脂粉の気を誘うようなものではなかった。表に降って居る春雨も、一度この玄関内の光景に接すると忽ちその艶を失ってしまうように思われた。私の案内の声に応じて現われたのは一人の破袴を穿《は》いた丈高い書生さんであった。来意を通ずると直ちに私を漱石氏の室に通した。
 漱石氏は一人つくねんと六畳の座敷の机の前に坐っていた。第三高等学校の校長である主人公も、折ふし此の家に逗留しつつある菅虎雄《すがとらお》氏も皆外出中であって、自分一人家に残っているのであると漱石氏は話した。この漱石氏の京都滞在は、朝日新聞入社の事に関聯してであって、氏の腹中にはその後『朝日新聞』紙上に連載した「虞美人草」の稿案が組み立てられつつあったのであった。
「何処《どこ》かへ遊びに行きましたか。」と私は尋ねた。
「狩野と菅と三人で叡山へ登った事と菅の案内で相国寺や妙心寺や天竜寺などを観に行った位のものです。」と氏は答えた。
「お寺ばかりですね。」
 そういって私が笑うと氏もフフフンと笑って、
「菅の案内だもの」と答えた。
 ともかく何処かで午飯を食おうという事になって、私は山端の平八茶屋に氏を誘い出した。春雨の平八茶屋は我らの外に一人の客もなくって静かさを通り越して寧ろ淋しかった。四月発行の『ホトトギス』の話になった時、氏は私の『風流懺法《ふうりゅうせんぽう》』を推賞して、こういう短篇を沢山書いたらよかろうと言った。私は一月前|斎藤知白《さいとうちはく》君と叡山に遊び、叡山を下りてから、一足さき京都に来ていた知白君と一緒に一力に舞子の舞を観て『風流懺法』を書いたのであったが、今度の旅行は奈良の法隆寺に遊ぶ積りで出掛けて来たのである。漱石氏に逢った上は今夕にも奈良の方へ出掛ける積りであったのであるが、漱石氏が折角《せっかく》京都に滞在していて寺ばかり歩いていると聞いた時、私は今夜せめて都踊だけにでも氏を引っぱって行こうと思い立った。
「京都へ来てお寺ばかり歩いていても仕方がないでしょう。今夜都踊でも観に行きましょうか。」と私は言った。
「行って観ましょう。」と漱石氏は無造作に答えた。その時の様子が、今日一日は私のする通りになるといったような、極めてすなおな、何事も打まかせたような態度であった。
「それではともかくもこれから私の宿ま
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